第49話 七日目(6)

文字数 2,920文字

仕事には就き、宗教的な意思決定を急がないことだけ結論したその晩から、洋子は教団の施設に泊まることになった。引越しの手配も要らないと言う彼女に流石の森田も動きを止めたが、マカラは驚かなかった。揉め事から逃げ、すべてを放り出す彼女のイメージが、流されるままの人生を歩む自分とシンクロしたのである。
教団との縁をつくったとすれば自分。面倒を持ち込んだ自責の念に駆られたマカラは事実を懸命に追及したが、揺れる洋子はひたすら笑顔を返し、何ひとつとして真面に答えることはなかった。

羽化を終え、残された時間を知っているのか、蝉が懸命に唸る朝。マカラは事務棟の門前に並ぶ古びたベンチに腰掛け、両肩を立てて項垂れていた。一人である。どんよりと暗く歪んだ背中を見つけたのは新聞受けを覗きに出た森田。昨日の異様な会話も日常茶飯事として忘れていた彼は、淀んだ空気が漂うベンチに近付くと口元を綺麗に両手で覆い、マカラの隣りに滑り込んだ。
「おはようございます、マカラさん。」
マカラは両手の指先に力を入れて頭を抱えたまま、悩める人の基本姿勢を貫いた。つまり無反応。
「どうしたんですか、マカラさん。おはようございます。」
森田は何かが起きたことを確信したが、本人が口を開かない限り何も決めつけてはならない。蝉だけが鳴き続けると、適当な想像に飽きた森田はマカラににじり寄り、マカラの顔の向きを変えさせた。
「おはようございます。すみません、森田さん。」「何を謝ってるんですか?私は何も怒っていませんよ。」
「いえ、森田さん。私はあなたにこんな風に接してもらえる人間じゃありません。駄目な人間なんです。」
役目上、時折聞く告白だが、人の気持ちの分かる森田は畏まった。
「聞きましょうか?」「いえ、人に話せる様なことではありません。」
「昨日の夜に何かあったということですね。」「言えません。」
「昨日の昼はそんな様子じゃなかったんですから、そうに決まっています。昨日の夜、昔の失敗が分かっただけかもしれませんが、とにかく昨日の夜に何かがあったんですよ。」
それは洋子が教団に泊まるビフォアとアフター。紀元は彼女である。暗にひとつの可能性を見出した森田は、マカラの剥き出しの表情を見ない様に宙を眺めた。
「大城さんですね。あの人が何か言ったんですね。」「言えません。」
森田は息苦しさを越える様に咳き込んだ。
「大体分かります。別に責めはしませんが、昨日の夜に大城さんと会いましたね。」
マカラの声は聞こえないが、森田は遠い空に向かって喋り続けた。
「下品なことを聞く気はありません。ただ、あなたがあんまり悩んでいるので心配なんです。」
力の限り鳴き続ける雄の蝉の声色が変わる頃、森田は昨日から捨てきれない疑念を口にした。
「あんまり酷く言うんで驚いたんですが、二人は付き合…。」「だから、あの人は怖い人だと言ったでしょう。」
森田の中で二人とはマカラと洋子。『だから』と言うなら、マカラは森田の想像が事実と認めた様なものである。
「多分ですけど、それは一人だけではどうにもならない話じゃないですか?」「だから、私は駄目な人間なんです。」
森田は緩めていた口元を引き締めた。
「それは大城さんに失礼な話ですよ。」「そうです。失礼な話ですが、私はあの人と結婚する気には絶対になれません。」
森田は絶望的に真面目なマカラを一瞥した。露骨に無様である。話し掛ける先は、やはり遠い空にならざるを得ない。
「大城さんにその気はないんですか?」「絶対にないです。ここに居たいから私に目を付けたんだと思います。」
「それなら別にいいじゃないですか。」「よくはありません。」
「宗教上の理由でもあるんですか?」
森田の自由な冗談に、マカラはゆっくりと顔を上げた。
「森田さん、そういうのは駄目だと思います。」「そうですね。何か間違えた気がします。じゃあ言い方を変えます。あなたの国はそういう文化だったんですか?」
「いえ、気持ちの問題です。あの人が可哀そうで堪らなくなったんですが、きっと私も他の皆と一緒です。もう気が狂いそうです。」
マカラが『気が狂う』という言葉を覚えた日がいつかを思った森田は、無性に綺麗な言葉を使いたくなった。日本語は美しいのである。
「愛で…。」「違います。」
森田は声を出さずに笑ったが、マカラの眉間の皺は深くなった。
「私は人に同情できる様な人間ではないですが、あれはあんまりです。」
思い出したのは、昨日、残酷な好奇心を寄せた洋子の肌のこと。マカラはその答えを知ったのである。気持ちを声にしただけの彼の言い訳はイントネーションすら怪しい。
「涙が出たんです。多分、この先ずっと、私は忘れません。」
森田は答えが明かされそうにない問答を諦め、話の続きを待った。苦しむマカラの言葉はこぼれ出すのに時間がかかる。
「変な意味にとってもらっていいんです。それが私の正体だと思います。きっと、この先、私はあの人と会う度に何かを期待したり、胸が高鳴ったりするんだと思います。泣いたとしても、自分を善人と思いたいからです。本当に弱くて駄目な堕落した人間です。」
行き過ぎた物言いは森田に許されたいから。但し、苦悩の根源はマカラの誠実で、価値観の違いはあっても罪の要素はない。ひとまず安心した森田は、マカラのために穏やかな笑顔を浮かべた。
「あなたはいい人です。」「違います。意思が弱いだけなんです。」
「何度でも言います。それは、暴力でも振るわなければ、一人だけではどうにもならない話です。そういうことはしてませんよね。」
マカラが顎の力を忘れると、森田は言葉を急いだ。
「分かってます。低俗な質問です。でも、お互いの気持ちで、事実にはそのぐらい差が出るということですよ。あなたは相手の気持ちに応えただけです。あなたと大城さんは同じ立場ですから、彼女のことを思ってあなたが自分を責めることはありません。大城さんが何も言っていないなら、あなただけの問題です。あなたが何も言わなければ、何の問題もないんです。」
簡単に言ってのけた森田は、瞳を揺らすマカラをそのままに空を眺め、やがて遠い山々に視線の先を移した。そのぐらいの時間が過ぎたのである。マカラの今が気になった森田は、隣りを短く盗み見た。俯くマカラの姿勢から陰惨な空気が少しだけ薄らいだかもしれない。絶望的な人生相談に慣れている森田は、冗談が恋しくなった。
「女性とのそういう話は人にしない方がいいですね。」「知ってます。あなたがしつこいからです。」
マカラは反論しながら姿勢を忙しく変えた。冗談がまったく通じない様は森田には面白いだけ。愛すべきものである。
「そうですね。私のせいです。でも凄いですね。」「何がですか?」
「大城さんの刺青って、多分全身ですよね。」「言いません。」
「お、引っ掛からなかった。いいです。でも、あなたは凄いですよ。私なら逃げます。」
マカラの拍子抜けした顔を見ることなく、森田は勢いよくベンチから立ち上がった。
「ナイス・ガッツ、マカラさん!人間代表!」
森田は、勢いよく振り返ると爽やかに笑った。小さな拍手をした彼は、意図が理解できずに呆けるマカラを残し、笑顔のまま新聞受けへと向かった。
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