第9話 二日目(1)

文字数 3,918文字

「人間が宗教の始めであり、人間が宗教の中心であり、人間が宗教の終わりである。」
ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ著「宗教の本質」より。

翌朝の捜査会議は、捜査に緊急性がないせいか、ほぼ点呼の様相を呈した。かたちに拘る月城のため、昨夜の指示を真面目に復唱した鶴来と賀喜が向かった先は市役所。何かと世話になる場所である。
本庁舎の一階にある市民課を訪れた二人の目当ては、エテヌーロのリストになかった古い墓、おそらくは三十年以上前の墓に関する記録。埋火葬許可証に書かれている埋火葬場所である。せいぜい年間千件程度なので、二人でかかれば知れている。
黒髪のフェイス・ラインを丁寧に指でなぞる賀喜を背にカウンターに手を掛けた鶴来は、番号札を受け取ることなく、窓口に座るいつか見た職員に焦げ茶色の警察手帳を見せた。
「網代警察署刑事生活安全組織犯罪対策課の鶴来です。」
警察の訪問は市役所に勤めていれば想定の範囲内。席を立った職員が責任者を連れて戻ってくるまでに、大した時間はかからない。
現れた中年太りの小宮市民課長は珍しく初対面。鶴来はすぐに気付いたが、賀喜が嫌う部分を確かに持っている。決して罪のない小宮は、名刺交換をすると二人の顔を順に眺めた。
「今日はどういった用件でしょうか?」
鶴来が賀喜の顔色を窺ったのは一瞬だけ。想像通りの無表情である。
「埋火葬許可証を調べさせてほしいんです。三十年以上前のものなんですが。」
小宮は要領を心得ている。
「十年ぐらい前にデジタル化したんです。その頃に保管義務のあったものが対象だったんで、二十年前のものまではパソコンから見れますけど、三十年より前だと梱包して書庫ですね。パソコンじゃなくても…。」「いいです。ものは分かりますか?」
「それはすぐに。どうされます?」「どこか場所を借りて見れるといいんですが。お願いできますか?」
「書庫に作業用のスペースがありますから。そこで見て頂けると、こちらは助かりますね。」
話の早い小宮のために微笑んだ鶴来が目を配ると、賀喜は微かに口元を緩めて見せた。

地下室に案内された二人は、書類を収納した箱のリストの説明を受けると小宮に別れを告げた。窓のないその部屋は蛍光灯と棚の配置のバランスが絶妙に悪く、おしなべて暗い。小宮の説明に嘘はなく、隅に作業用のスペースがあるが、人が長居する場所ではない。
リストの厚さを指で確かめただけで疲れた鶴来の横で、賀喜は気合を入れる様にコートを脱ぎ、彼女の好きな香りを広げた。鞄から取出したのはカットに拘ったスモック。鶴来の苦笑に構うことなく、賀喜の準備は着々と進んでいく。髪をまとめて衛生帽をかぶり、マスクとゴーグルをつける。仕上げにビニル手袋に細い指を通した賀喜は、コートと鞄を大きなビニル袋で手際よく包んだ。
「相変わらずだね。」「ダニがね。許せない。」
完全防備の賀喜を見た鶴来はそのままの自分の姿に疑問を感じたがそこまで。ないものはないのである。
「よし、やろう。」
謎のステップを踏んだ賀喜が声をかけると、鶴来はダウン・ジャケットを傍らに置き、リストを片手に棚の方へと歩き出した。

段ボールを運び、書類の束を一部ずつ取出し、ページを捲る。エテヌーロと書いてあれば、写真を撮る。単純作業の王道だが、幾ら捲っても当たりがない。それなりに真面目な鶴来の口が動き始めたのは摂理というもの。二人だけの沈黙の時間には我慢の限界がある。
「宗教ってさ。」「喋る?」
「人間だものって、なんかあったよね。駄目?」
賀喜はビニル手袋の指先に更に指サックをつけ、高速で書類を捲っていく。ひとつの才能である。
「聞いてあげないことはないけど。」「カノッサの屈辱。」
「何それ、グロいんだけど。」「ごめん、謝るけどさ。でも、これ暇過ぎでしょ。」
賀喜は機械の様に動いていた手を止めると、目線だけを上げた。
「沙紀さん、可哀そう。それはないよね。」
沙紀とは鶴来の妻の名前である。苗字と名前だが、賀喜と音が似ているせいで、周囲に誤解を生むケースは少なくない。
「なんで?俺はただ黙って単純労働するのが無理なだけだよ。」「別にいいけど。それで何?」
ゴーグルの向こうの賀喜の視線が書類に舞い戻ると、鶴来は元通りの退屈な時間を嫌った。
「宗教ってもっと怪しい感じかと思ったんだけどさ。あの総代、普通っぽかったね。」「代表だし、いろんな信者の面倒を見てるからでしょ。大勢の前で喋ってたら、それなりになるんじゃない?」
「皆で話せば、誰か止めると思うけどね。嘘つくなって。」「嘘をついてない世界があるといいよね。」
「何、人生に疲れてんの。早くない?」「そうじゃなくて、何だってそうでしょ。全部誰かが決めただけだよね。」
「どこで道を間違えたのか。」「私はいいから。総代はそういうところを越えてるんじゃない?人前で喋って、成立しなくはないのよ。」
「それで神様?」「そうは言ってなかったよね。あった。」
エテヌーロの名を見つけた賀喜は流れる様に写真を撮った。
「あるんだ。」「それはあるでしょ。」
鶴来の目にやる気が覗いたのは、時には当たりがあると分かったから。重要なことである。
「じゃあさ。先に五件見つけた方が勝ちで、負けた方がさっきの自販機のぜんざいを奢るのでどう?」「誰にも得がないよね。」
「自分で買う気はしないけど、想像したら飲んでみたくなるぐらいじゃない?」「まあ、気持ちは分からないでもないけど。」
「やる?」「やらない。あった。」
「嘘。」
鶴来は身を乗り出し、賀喜の手元の書類の束を覗き込んだ。鶴来の驚く様を観察した賀喜が浮かべた含み笑いはマスクの下。
「ちゃんと見てる?」「見てるけどさ。」
「怪しいね。」
作業に戻った賀喜は、ページを捲り始めた鶴来の様子を盗み見た。死んだ魚の様な目は賀喜に向けたアピールではない。
「じゃあ、やってあげよう。渡会君が折角見つけた筋だから、ちゃんと探さなきゃ。」
薄暗い地下室の二人は、一瞬視線を交わすと争う様にページを捲り始めた。

二人が資料の確認を終えたのは昼の三時。ぜんざいを勝ち取ったのは、なぜか鶴来だった。当たりの数は探した束によって違うので、運が大きくものを言うのである。
昼食を待たずに始まった二回戦の商品は、甘さの対極が恋しくなった鶴来の強い希望でチゲ・スープに決まったが、激辛の香辛料はどちらの体を温めることもなかった。エテヌーロの許可証の数が、実際の墓の数より少なかった霊園のリストの数にすら達しなかったのである。二十基以上の記録の抜けは、母数に照らすとミスのレベルを超えている。
漠然とだが、不可解というひとつの結果を見つけた鶴来と賀喜は、地上に戻ると小宮を呼び出した。
「終わりましたか?」
打合せコーナーの椅子に腰を下ろした小宮が愛想笑いのために二重顎をつくると、鶴来は賀喜を一瞥してから現況を教えた。
「終わったと言うか、始まってしまった感じですね。」
昼休みの雑談のせいでエテヌーロ通になった小宮は何度か頷いた。
「あの、最初の頃は揉めたみたいですよ。土葬が事務的に許可されてても、いざ本当にやるとなるとなかなかね。難しいんですよ。」「難しいって、役所は書類を受け取るだけじゃないんですか?」
小宮が首を傾げたのは、鶴来の言葉に自分の仕事を根底から否定する響きを感じたから。当の鶴来も小宮の表情で自分のミスに気付いたが、咄嗟の言い訳も失礼を重ねるだけ。
「すいません。いや、書類を見ましたけど、そんなに書くところもないじゃないですか。」「そうですけど。多分ね。霊園の名前のとこだけを書き換える様に言ってたんじゃないですかね。」
小宮の言葉は想像では出て来そうにない。その時点で事実だろうが、鶴来は念を押した。
「じゃあ、偽装ですか?」「想像ですけどね。有印公文書の偽装罪の時効は七年ですから、もう何も出来ないですよ。」
「詳しいですね。」「仕事ですから。」
昼休みのうちに確認した可能性が高いが、時効は時効である。鶴来は小宮の説明に人間社会の理屈を当てはめてみた。
「霊園の認可はしたから埋葬は認めるけど、近隣がうるさいから書類だけ書き換えさせた感じですか?」
盛り上がった眉間に太い皺を浮かべた小宮は、決して底を見せない。
「そうかもしれないですし、そうじゃないかもしれないですね。まあ、今は普通に土葬もやってますけど、最初は近隣が本当に嫌がってたみたいです。分かんないですよ。名前を表示しない理由もそれかなとか。変なことはやってないと思いますけど、万が一、何かしてるとしたら、今言ったみたいなの。大人の対応じゃないですか?」
一度聞いてしまえば、グレー・ゾーンでも放っておけない鶴来だが、公僕の小宮も同じ部類の人間の筈。彼をして、そう言わしめる何かがどこかに潜んでいるのである。鶴来の頭に浮かんだのは、樹木葬の名を借りた土葬のニーズの持ち主。
「やっぱりイスラムの人とかですか?」
小宮は派手に頷いて見せた。
「が多いでしょうね。限定しませんけど、彼らに関して言えば、復活するために燃やしちゃいけないんです。勿論、ただの慣習です。日本だったら、誰か死んでも片付けやすい様に切り刻んだりとかしないですよね。それだけのことで、彼らも無理なんです。鳥葬や水葬なら別ですけど、まあ、土葬ならいいと思いますけどね。」
問題は土葬の是非ではなく公文書の偽装だが、小宮の説明はごちゃまぜ。市民課長が馬鹿な筈もないので、おそらくは不要な追及を避けたい気持ちが前面に出た結果である。婚姻届けを出した市役所で無駄に揉めたくない鶴来が正解を探すと会話に間が生まれたが、小宮の視線を受けた賀喜は無表情のまま俯いた。
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