第3話 一日目(3)

文字数 2,046文字

管理棟の壁を飾るガラスは綺麗に拭かれているが、屋根に連なる垂れ壁の塗装は所々剥がれている。売り上げに波があるのか、経営陣が高齢で無頓着なのか。理由はひとつとは言えない。
今の鶴来には屋内は何より魅力的。寒さから逃げたい彼はまだ遠い管理棟を見つめ、ガラスの向こうに一人で座る男の子を見つけた。寛人である。今日の半袖半ズボンは事件。鶴来が笑顔をこぼすと、勤勉でありたい渡会は警察官の義務を果たそうとした。
「鶴来さんはマルガイ(被害者)の鼻の頭の傷をどう思いますか?」
足を止めた鶴来は思い出した様に足カバーを外し始めた。賀喜にとって、鶴来のフォローは嫌いな仕事ではない。
「まあ大体分かったから、あとはプロに任そうか。」
プロとは鑑識である。賀喜は躊躇う渡会に微笑み、一方の踵を軽く上げると足カバーを外した。鶴来が口にした通り、遺書があれば自殺、なければ上長に報告。第一発見者と現場の地権者の聴取は地域課が一通り終えているので、今からの会話も通過儀礼。網代警察署の勝利の方程式は盤石である。
鶴来が重めのガラス戸を押して管理棟に入ると、賀喜と渡会も続いた。待望の暖気に目尻を下げた鶴来は、待ち構えていた鈴木のキレのある敬礼に驚くと思わず足を止めた。渡会から聞いていた話と違い、広いホールには鈴木と寛人以外にそれらしい影はない。鈴木に短い挨拶を返した三人は、扉が開いた傍から自分達を見つめている寛人に歩み寄った。アウターに残る冷たい風を寛人に送って椅子に座ったのは鶴来と賀喜の二人。気を遣い過ぎて、背後に立ってしまうのが渡会である。
「おはよう!」「おはようございます!」
何となく母性の欠片を発揮してみた賀喜の挨拶に、寛人は元気に答えた。ショックを受けている様子はないが、子供にとって挨拶は条件反射。油断は禁物である。小さく笑った鶴来は、朝一番に出来る限りの楽し気な目を見せると、名刺を取出した。
「おじさん、網代警察署の鶴来っていうんだ。制服は着てないけど、警察官。」「おばさんは賀喜。カキクケコのカとキでカキ。宜しくね。」
二人は、意味なく若さを主張して、子供に無邪気に笑われる気はない。幼い寛人が名刺に纏わる礼儀作法を知る筈もなく、気持ちで名刺を睨むだけ。鶴来は、お預けを食う子犬の様な寛人の前に名刺を置き、軽く滑らせた。
「君の名前は?」
寛人のつくった沈黙に無駄を感じた鶴来は、控えて様子を見守る渡会を振返った。子供相手の会話の難しさは十分過ぎる程知っている。
「この子は?」「森田寛人君です。お父さんは宗祖の森田信昭さんで、お母さんはいません。」
聞きたいことと聞けることは違う。相手が子供なら猶更。改めて向き合った寛人の表情は真剣そのものだが、やはり愛嬌を強めに感じた鶴来は頬を微かに緩めた。動きを見せたのは賀喜。コートのポケットを探った手はしっかりと何かを掴んでいる。
「飴いる?」
空腹の自分が許せない賀喜は、菓子を常に持ち歩いている。寛人の目は賀喜の掌の動きを追い、机上に飴が現れると釘付けになった。
「食べていいよ。退屈だよね。」
寛人が大きな瞳で飴を見つめ続けると、鶴来は笑いを声にした。目に宿る圧が想像を超えたのである。
「鶴来君のはある?」
賀喜は僅かに身を引いたが、間もなく飴をもうひとつ取出し、机に置いた。位置的に鶴来のためで間違いない。当たり前の様に手に取った鶴来が包みを破って現れたのは、賀喜のマニキュアと似た色の飴玉。無造作に口に放り込み、ベリーの甘い香りを周囲に広げた鶴来は、寛人を見つめ直した。勿論、本当に飴が舐めたかった訳ではない。心の距離を縮めるためである。
「美味しいよ。」
寛人は唾を飲む音を立てたが、小さな彼が見せた動きはそれだけ。頬を膨らませた鶴来は、飴を口の中で遊ばせながら、寛人が喋り出すのを待った。しかし、日々、未知の世界を探検する子供にとって、黙るのと喋るのなら確実に前者が楽。先は長い。流石に時の流れを意識した賀喜は、背後で待つ渡会を頼った。
「子供って、一人だけ?」「目撃者は他に四人いますけど、皆、隣りの村の子供です。動揺していたので、ここに住んでる寛人君だけ残ってもらって、親御さんに引き取りに来てもらいました。」
「寛人君はここに住んでるの?」「自宅は隣りの教団の敷地内です。」
寛人は、自分の名前が出る度に声の主を目で追った。そうと気付いた賀喜は優しく微笑んだが、寛人の小さな唇が開く気配はない。
「総代は?いるんだよね。」
寛人への気持ちを残す賀喜の視線を受けると、心当たりのない渡会は答えを求め、更に振り返った。視線のパスを送られたのは、挨拶をした後、直立不動だった鈴木。
「トイレです。」
小休止の必要を感じた鶴来は周囲を見渡し、寛人の顔が少しだけ飴に近付いていることに気付いた。自分の話題が通り過ぎ、彼の中でいよいよ食い気が頭をもたげたのか、澄んだ瞳が飴に釘付けになっている。鶴来の視線を追い、悩める寛人を見つけた賀喜が首を傾げて微笑んだ時、待ち人は現れた。総代である。
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