第48話 七日目(5)

文字数 4,918文字

束の間の客人に思われた洋子は応接室に居座り、息つく間もなく勝手な昔話を続けると、一時間後に森田と顔を合わせた。どんな相手でも初対面から笑い合えるのが森田。その点では似ているかもしれない洋子は、マカラに何度目かの大きな笑顔を投げたタイミングで扉が開くと、待っていた様に自然に立ち上がった。発した声はマカラと再会した時より明るい。
「お邪魔してます。マカラさんの友達の大城洋子です。」
マカラの旧友が訪ねてきたと聞いて、興味本位で顔を出しただけの森田は、好意を全面に出す洋子の勢いに軽く眉を上げた。
「初めまして、森田です。マカラさんの…。」「はい。沖縄の頃の友達です。というか、仲間というか、親友っていうか、私だけ?でも、この人に日本語を教えたのは私で、本当にペラペラになって。すごいでしょ?」
洋子は普段使いの日本語を選んだ。普通に付き合う気である。どす黒い部分を隠し、初見の森田に自由に微笑む洋子を見ると、マカラは理解できない嫌悪感に不意に襲われ、そのまま流されてしまった。
「この人は怖い人です。近寄らない方がいいです。」
軽く呆けた森田の前で、しかし洋子も呆気にとられた。どんな笑顔も意味を失う程の全否定である。
「今どっちのこと言ったって、思わなかった?」
洋子の言葉も想像になかった森田は声なく笑い、何度か頷いた。しかし、マカラの悪口など今の今まで一度も聞いたことがない。
「どっちと言うか、それ以前かな。聞き間違えたのかと思って。」「だよね。とにかくビックリだけど。」
二人の笑顔で尖った空気が和むと、マカラは声量を上げた。
「早く帰って…。」「ちょっと待ってください。」
極端な態度に両手を挙げたのは森田、すべての悩める心を救いたい彼。日本人離れした洋子の外見も影響したかもしれない。今の異常を確信した森田は目の前の二人を注意深く観察し、怒れるマカラにターゲットを定めた。
「あなたがそんなに怒るんなら、きっと彼女は大変な生き方をしてきたんじゃないですか?」
森田が見せたのは受け入れる姿勢。抱擁は基本である。すべてを超越した存在でありたい森田は、マカラが言葉を飲み込むと洋子に笑顔を向けた。
「ね。」「それはそれで胡散臭いよ。」
洋子が含み笑いをすると森田の笑顔は照れ笑いに変わり、二人は互いの動きを真似る様に、ぎこちなくソファに腰を落ち着けた。無表情なマカラを眺めた森田は、洋子に飾らない自分を見せた。
「何したの?彼の純情を…。」
宗教家に似つかわしくない言葉にタブーを感じた洋子の笑顔が大きくなると、マカラは急いで口を挟んだ。
「犯罪者です。」「ああ、そっちですか。…。そっちかぁ。」
宙を眺めた森田は、姿勢を正すと洋子に向き直った。マカラが毛嫌いする獣のスケールを掴むことにしたのである。
「人でも殺した?」「いかついね。だったらどうする?」
「どうしよう。」
否定されることを期待した森田は、それでも洋子を許す道を探した。
「いつの話?」
寧ろ強がりを感じた洋子は揺れながら座り直し、笑顔を見せた
「やってないって。」「だよね。そんな感じ。」
何も知らない森田の言葉に中身はない。
「絶対だよ。」「でも、悪いことはしてるんだよね。多分、暴力がメインの団体の人が普通にしてそうな感じの。」
「プロレス?」「冗談でしょ。」
森田は正直に徹するスタンス。許容することが前提なら厳しい問いかけにも後悔は生まれない。洋子は適当に髪をかき上げてマカラを一瞥し、表情のない時間を見せた。
「暴力は嫌い。強い母の会には入ってるけど。」「結婚してるんだ。」
「私は独身。」「未婚の母?」
「子供もいないけど。」「分かんない。」
「私は強い母の友達。」「ほぼ部外者だね。」
マカラは、洋子の目に明るい光が戻ると苛ついた。口から出るのは通じるか分からない不器用な悪態。語彙は少ない。
「あなたは変態です。」
マカラ自身もようやく自覚したが、彼の攻撃がエスカレートするのは、媚びる洋子に森田が惹かれる気がしたから。相手を気遣う森田の笑顔がいつかの弘と重なるのである。暴言を浴びた洋子が怒りもせず楽し気に揺れると、森田は二人の過去が怖くなった。
「マカラさん、本当にどうしたんですか?」
洋子は自分の中に眠る綺麗な要素をかき集めて表情を仕上げ、マカラに釘を差した。
「人を変態だなんて言わないでください。相手が寄って来るだけです。分かりますよね。」「そう思っている人は寄って来られない様に心がけます。あなたは違うので変態です。」
聞きながら視線を散らした洋子と森田の笑いは止まらなくなった。
「ひ、酷過ぎる。」「マカラさん、それは無理です。いくらマカラさんでも許せません。」
森田は、笑い過ぎて目尻に浮かんだ涙を拭く洋子に釣られて口元を緩めた。相手が人生経験豊富なマカラでも、かたちとして人の道を説かなければならない。
「マカラさん。ちょっと、ちゃんと説明してくれませんか。万が一、大城さんを悪く言うとしてもその後ですよ。このまま何も言わずに同じことを続けたら、私もその時は怒ります。」

マカラの恨み言を二分聞いた森田の眉は下がった。ソファに深く身を沈めた彼と洋子の顔の距離はあからさまに遠ざかっている。
「どうやって沖縄から逃げたの?そのヤクザは追って来なかった?」
揺れた洋子は胸元に手を当てた。或る意味、それは彼女が待っていた瞬間。笑顔をコマ送りにした洋子は、澄んだ瞳で森田を見据えた。もしも出来たら楽になる想像を実行に移してみる。そんな瞳。
「追って来たよ。」
洋子はブラウスの袖のボタンを外し、軽く捲った。二人の男の頭に一瞬過ったのは傷痕や打撲痕、家庭内暴力的な何か。しかし、モンゴロイドとは程遠い陶器の様に白い手首の先に現れたのは、緻密な紋様だった。エスニックなデザインはきっとどこまでも続いている。
二十世紀の日本の刺青は二十一世紀のタトゥーと比べて十倍重い。森田とマカラの瞼が寂しさでいよいよ重くなるまで待つと、洋子は袖を直した。
「ボディ・ペインティング。」「嘘でしょ。」
森田の反応は早いが洋子も早い。
「嘘。その男が野球好きでね。背中にミスターの顔が彫ってある。」「嘘でしょ。」
「嘘。本当はその男の干支よ。」「え?」
「それも嘘。でも、嘘だったらいいって思わなかった?」
森田の表情にもう明るい色は残っていない。拒絶反応が博愛精神を完全に上回ったのである。洋子が首を傾げて微笑んだのは、森田の態度が彼女の中ではごく自然なことだから。
「見たらきっとびっくりするわ。自分でも嘘ならいいって思うけど。マカラさんが言ったことも全部本当。それも全部嘘だったらいいのにね。」
やはり揺れた洋子は、身を乗り出すと森田と無理に視線を合わせた。少なくとも彼の瞳は一瞬逃げようとした。
「皆いろいろあると思うけど、こんな私は如何でしょう?」
綺麗な笑顔をつくった洋子は森田の返答を待ち、遂には時間を持て余すと居場所を探す様にソファにもたれ掛かった。森田は女性の強張る笑顔に耐えられるほど不幸ではない。ほんの十秒後、彼が同じ言葉を繰返した相手はマカラ。
「如何でしょう?」
迷える子羊を責めないのが森田。結局、この場でも彼の選択は同じだったということ。但し、今のマカラはいつもの彼ではない。
「この人が可哀そうだったらどうだと言うんですか?」
最後の抵抗である。どちらにしろ、洋子と交われば皆が朱になる。そして、洋子は自分から交わろうとする朱。厄介なのである。ようやく灯りかけた希望の燈が消えそうになると、洋子は傾いた。怒りはしないのは自分を分かっているから。
「マカラさん、私が聞いてるんです。どうしたらいいと思いますか?」
自分を曝した洋子がマカラに投げる言葉はそれでも丁寧である。
「私が酷い人間だから追い出して、あなた達は世界がひとつになれると言って活動を続けるんですか?私がそのひとつに入れないなら世界は絶対ふたつ以上です。それはあなた達のゴールなんですか?それとも私が消えてなくなるのを待ちますか?時間が過ぎるのを待っていると年をとります。いつか悲しい気持ちになりますよ。」
洋子は森田が自分の口上に何度か頷くのを視界の端に見つけた。彼女の目下の敵はやはりマカラである。
「私をここにおいて、一緒に生活してみる気はないですか?」「ありません。」「それはありでしょ。」
森田はマカラの厳しい声に言葉を被せ、穏やかに微笑んだ。マカラが目をむいたのは、ただ純粋に皆を守りたいから。
「あなたは分かっていません。沖縄にいた時、私はこの人が悪いことをしているなんて全然気付きませんでした。他の女の人もです。最後の夜に全部教えてくれた時もいつも通りでした。それはこの人がそういう人だということなんです。ご飯を食べたり、着替えたりするのと同じです。絶対にそうするんです。」
森田はマカラが一方的に撒いた毒を濯ぎにかかった。使うのはインターネットを知らない旧社会の理屈。
「マカラさん、それは環境が大きいんです。例えば、麻薬は普通の店では売ってないから、教えるのは知り合いです。一度警察に捕まったら、釈放されても普通の人が相手をしてくれなくなるので、同じ前科の友達を探し出して、仲間に入れてもらうためにまた麻薬をやります。その人はそういう人ですが、皆が皆、本当に悪い人という訳じゃなくて、ただ弱いだけの人もいます。大城さんをいつか仲間に迎えるなら、まず生活する環境を変える必要があるんです。」「だから迎えなければいいんです。」
「違います。相手が誰であれ、私達はいつかひとつになるんです。本当は無理でも、目標だけはそうじゃないといけません。さっき大城さんが言った通りです。久しぶりにそんな気がして、今の私はすごく素敵な気持ちなんです。」
マカラが気持ちを抑えられない様に顔を背けると、森田は小さく頷いた。少なくとも反論しない以上、マカラは道を譲ったのである。進むべき道が見えれば、森田は笑顔で進むことが出来る。
「大城さんは何が出来るの?一緒に生活するなら働かなきゃ。それは基本だから。」
事態が緩やかに好転していく気配に洋子は小さく息を吸い、背筋を伸ばした。
「どうしよう。自分で粘ったけど予想外。」
森田を見つめた洋子は胸元を押さえて唾を飲んだ。
「多分壺は売れない。私、嘘つけないから。」「売ってないよ。」
「力の湧く水とか。」「ないって。」
「仏壇もちょっと…。」「そんなのないよ。」
馴れ合う二人を細い目で見るマカラに気付いた洋子は、変わらぬ笑顔を見せたが無駄。マカラの顔の皺を増やしただけである。とっくに慣れている洋子は拘らずに森田だけを見つめた。
「皆は何やってんの?」「何でも普通に。自由に仕事を選んで、もらったお金を皆で分けてるだけ。」
「分けるって?」「一緒に住んで、集まったお金を皆で使ってるんだよ。平等にね。」
金の話をすると頬が緩む洋子は、両頬を手で押さえて自分の下品を隠した。しかし、宗教を語るにも引き出しは少ない。
「迫害と戦ったりとかしないの?」「そんな空気も一時あったけど、暴力は駄目だね。痛いの苦手だから。考えただけで怖いし。」
「何それ。」「何だろう。とにかく他人は攻撃しない。自分達だけで考えたことを本当にやってみちゃうぐらい。いいでしょ。」
洋子にとって子供じみた理想は贅沢である。
「世界をひとつにってこと以外、何を信じてるの?それだけだとお祈りが一瞬で済んじゃうよね。」「ああ、それ?それはあれだね。」
「どれ?」「雰囲気。」
マカラがこれ以上ないほど顔の皺を増やすと、波長の合い始めた二人は笑い声を大きくした。
「ごめん、嘘。ただ発想はそうだよ。宗教って言ってもただの習慣みたいなもんだから。何か具体的なことをしようって決めると嘘になるし。神様がもしも本当にいたって、募金しろとか言う訳ないでしょ?だから何も細かいことは決めないで、生きづらい人を見つけたら助ける。それだけにしたら今って感じかな。」
森田の言葉は倫理に即している。正しい輪に迎えられる期待。一歩下がって、期待が持てる自分を見つける喜び。後ろめたい生き方しか知らない洋子は滲み出す様な笑顔を浮かべ、自分で驚いた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み