第70話 九日目(12)

文字数 3,415文字

その日、早目に仕事を切り上げた鶴来は、冬の夜に包まれた網代警察署を後にすると歩いて自宅へ戻った。
新婚の鶴来は、独身時代の殆どを過ごした公舎を出て、古民家を借りている。隣家までの距離が遠いのは田舎暮らしの特権。街灯もまばらな薄闇の先に、暖色系の光を窓ガラスから広げる家が一軒だけ建っている。そこは二人だけの世界。
呼吸と衣擦れ、大地を蹴る靴の音だけを聞き続けて数分後。鍵を開け、食べ物の香りの混ざる暖気に誘われながら、がたつく引き戸を滑らせると、聞き慣れた音に呼ばれて彼女が玄関に現れた。ひとつ年上の沙紀である。事件を通じて知り合ったせいかもしれないが、二人の絆は揺るぎない。
「おかえり。」「只今。」
いつも通りノー・メイクの沙紀と笑顔で挨拶を交わした鶴来は、すぐに風呂に向かった。賀喜の潔癖症とはまた別の次元で外の世界が汚く思えて仕方がない。程度は軽いが、確かな職業病である。
風呂上がりの鶴来はパジャマの上からカーディガンを羽織り、沙紀が手料理で飾った食卓についた。今日のメインもパスタだが、何を言う訳でもなく、缶ビールを手に乾杯。毎日晩酌をするのが鶴来の中の父親像である。母親が飲んでいた記憶はないが、とにかく沙紀は美味しそうに飲む。家飲みは、彼の思う幸せな家庭の欠かせないパーツである。
数日ぶりの二人揃っての夕食に、沙紀はよく喋り笑った。他の家が遠ければ、確率論的に人と接する機会も少なくなる。安らぎと退屈を細かく編み込んだ一日を過ごした沙紀が、頭に残っていた他愛もない出来事を順に言葉にして、鶴来が相槌を打つ。そこにどれ程の意味があるかは知らないが、夫婦の時間はそうして確実に過ぎていく。
軽く酔ったつもりの二人は、夜のガラス戸に透けて映る互いを見つけて微笑んだ。言葉がないといけない理由はまだない。笑顔を映したままガラス戸に歩み寄った沙紀は、鎧戸と遮光カーテンを閉めるとリビングに向かい、オーディオを点けた。流れるのは沙紀の好きな曲。それは鶴来の好きな曲でもある。思い出の力で、彼女の今の気持ちは大体分かる。
しかし、戻ってこようとした沙紀は足の小指を椅子にぶつけ、痛みに身を捩った。照れ笑いを浮かべて伸ばした手が遊んでいる。鶴来は音もなく席を立った。人間はそういうものなのか、沙紀の瞳は鶴来を信じ切っている。家族に囲まれる近い将来を思う鶴来の瞳も同じに違いない。人の掌は温かく、指の動きは饒舌である。小さな笑い声を重ねた二人は、鼻を寄せ合うとゆっくりと踊り始めた。

その夜、鶴来は夢を見た。
昼下がりの公園。仲夏の空は澄み渡り、雲ひとつない。眩しく揺れる池の水面を鴨が通り過ぎると、浮かぶ木の葉が緩く後を追う。誰も意味を求めない、どこにでもある景色。
次の瞬間、平和な無音の世界に、弾ける様な乾いた音が響き渡った。空気に溶け出す火薬と血の臭い。襲ってきたのは発砲から被弾に至るフラッシュ・バックの嵐。漫画にドラマに映画、警察学校で見たそれ、鶴来の記憶にある銃のすべて。
暴れた視界は宙を走り、一人の女性の姿を捉えた。理不尽な弾丸をその身に受けたのは賀喜。見慣れたスーツ姿の彼女だった。
数秒前、パトカーから降り、髪を払って歩き始めた賀喜は、露わにしていた張りのある肌を割かれ、濃淡二色の血を撒いた。純白のブラウスを血で染めていく彼女は、驚きと痛みに表情を忙しなく変えると不自然によろめき、地面に手を突いた。口から溢れ出したのは不協和音に近い絶叫、心を巡る全てを合せた音。
彼女に向かって伸びたのは、指輪でそうと分かる鶴来の手である。しかし、生きているのが不思議なほど壊れた賀喜は、その手を寄せ付けずに獣の様に呻き、ただ涙を流した。崩れた頬のかたちを血に濡れた手で探った彼女の中で、脈打つ様な絶望が始まったのである。

鶴来が暗闇で目を覚ましたのはその時。神経細胞の発した火が、鶴来の浅い眠りに終わりを告げたのである。スマートフォンの数字で深夜を感じた鶴来は、青い薄明かりで沙紀の脱力した寝顔を見るともう一度目を閉じた。しかし眠れない。
鶴来の神経が過敏なのは、実を言えば、賀喜の父親達、警察組織を司る年齢になった老いた警察官達のせいである。
網代警察署に賀喜が赴任したのは、鶴来が沙紀との交際を温め、結婚の準備を始めた頃。鶴来は旧知の賀喜との再会をごく自然に喜び、賀喜も鶴来の結婚に祝福の言葉を送った。賀喜と沙紀が同席する場も一度や二度ではなく、賀喜は鶴来が沙紀の名を呼ぶ度に笑った。響きが似ているのである。当時の二人の間に流れたのはそのぐらいの和やかな空気。
しかし、事態は単純ではなかった。賀喜がいること以外、今までと何ひとつ変わらない筈の生活を数週間送った鶴来は、自分が身を置く村社会の異変に気付かされた。
田舎町の老人の孤独死は日常茶飯事。本来なら地域課が立ち会って終わりの筈だが、刑事生活安全組織犯罪対策課の鶴来に繰返し現地確認が指示されたのである。死んでいるのは決まって独身女性。時には腐った畳と区別のつかないこともある、土に戻り切れない亡骸。ストーリーと効果音のないホラー映像に娯楽の要素はなく、心を削るだけの暴力装置。
しかし、手ごわい臭いに免疫が出来ると、人間は平常心でいられる様になる。現場で暇を感じ始めた鶴来は、更に不謹慎を自問する壁を超えると、崩れた遺体に賀喜の姿を重ねる様になった。鶴来がこんな目に遭わされる理由が、彼女しか思い浮かばなかったのである。
二人が付き合っていた事実はないが、同じ世界に存在しながら息を潜めて我が子の春を見守っていた親の世代には、それらしく見えていたのではないか。名前の混乱も否めない。鶴来が結婚してしまえば賀喜はどうなるのか。同業である賀喜の父親とその仲間達がそれを意識させようとしたに違いない。鶴来はそう思う様になった。
賀喜本人の考えも気になるが、今更何をどうしようと思う程の情熱は鶴来にはない。地球上の男女が一斉に結婚相手を指名する訳ではないので、気持ちがずれるのは避けられないことである。
理屈は簡単だが、周囲を含めて賀喜の存在が重過ぎる。真摯に考える程に寧ろ賀喜から逃げたくなった鶴来は、沙紀と公に交わした約束を果たすことを急いだ。そうと決めてしまえば、何度考えても常識的な判断。沙紀との結婚について、鶴来の心の中に一片の後悔も生まれなかった。
ただ、賀喜のために重ねた苦悩の履歴は、彼の脳神経が理路整然と処理出来るものではなかった。鶴来は、賀喜を人として殺したと思う様になったのである。無防備に理想に向かって突き進める若い時間はとっくに過ぎている。もしも、この年の賀喜の中で何かが終わったなら、何かしらの打算で結婚するか、生涯独身になるのではないか。賀喜の父親達が警告した通りかもしれない。
失礼過ぎる偏見が生んだ安直な想像と表裏一体の自己嫌悪は、昼夜を問わずに鶴来を責めた。そうと認識した時点で有罪が確定。時効はなく、刑期は賀喜が幸せになるまで。罰は自責の念による神経の損傷。それは人より瞬きが増える程度の細やかな処刑。
しかし、罰はそれだけではなかった。結婚式が終わると、賀喜は鶴来の相棒になったのである。賀喜がそんなことを願う筈もないが、執念の可能性がなくもない。鶴来の邪推が事実なら呪いの域である。
ある日、朽ちた老婆の残像に漠然と囚われた鶴来は、賀喜の前で固く目を瞑り動けなくなった。瞬きだけでは抑えられない。許しを請いたいのである。鶴来は、何の医学的根拠もなく、思ったままの理由を無様に呟いたが、賀喜は優しく微笑むだけで何も言わなかった。
ずっとである。ずっと、鶴来は賀喜と一緒にいる時間が堪らなく重い。それが二人の関係。沙紀が知る筈もないし、沙紀にもあっていい程度の隠し事。街を歩けば、どこにでも溢れている関係である。

眠りにつくため目を瞑った鶴来の思考は、暫く取り留めもなく彷徨った。由美子と洋子の本質に違いはなかったが、片や、由美子は苦しみが彩る無償の愛を生涯享受し、片や、洋子は情の力で居場所を探しながら、心を支配するヤクザを庇って死んだ。愛のかたちに極端な違いを生んだのは人生をともに歩んだ相手、周囲の環境である。
同情するのは簡単だが、鶴来にも賀喜という異質な部分がある。悪夢の理由らしきものを見つけた鶴来は、耳元で沙紀の寝息が聞こえる暗闇の中で、確実に時間が過ぎていくのを感じた。
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