第41話 六日目(4)

文字数 2,678文字

ルスランが指定した翌々日の工事現場。森田とマカラ達は、顔が赤黒く光るガードマンの向こうで労働に勤しむトルコ人を遠目に見るだけで、ゲートをくぐることは出来なかった。サヒン兄弟はあくまでも現場で働くトルコ人を仕切っているだけで、現場を自由にする権限は持っていない。建築主から現場を預かる現場監督は、謎の思想集団の入構を拒絶したのである。それが例え就業時間外であってもそう。常識的な判断である。
予定にない暇な時間を見つけたカラス族は、ゲートの前に立ったまま、汗を流して働き続けるオスマン帝国の末裔を見学した。現場監督は素知らぬ振り。十分も過ぎれば、何人かのトルコ人が足を止め、森田達の方を見ながら雑談を始めた。今日のイベントを予め聞いていた者には理解できない状況なのである。
一人の男が現場監督に近付いたのは、誰かが大袈裟に首を傾げて間もなくのことだった。後で知った男の名前はシャヒン。特徴を強いて挙げるなら体格が華奢なことぐらい。時折、視線をよこすので、彼と現場監督は森田達のことを話しているに違いない。
壁が崩れる微かな期待に微笑むカラス族の眺める前で、雑にヘルメットを脱いだシャヒンは身を撓らせ、ヘルメットを持つ右腕を大きく後ろに逸らした。それは常日頃ならテレビの中のダンサーにしか見ない動き。シールだらけのヘルメットは、粉塵の舞う中空に伸びやかに弧を描き、そのまま監督の無防備な顔面を捉えた。体の向きを変えた監督が顔を押さえてしゃがみ込む程なので、全力である。
「あ、やった。」
素に戻った森田が呟く横でマカラは足を踏み出したが、誘導灯を掲げるガードマンは越えられない。気を揉むマカラの視線の先で、トルコ人達は監督からシャヒンを引き離し、地面に抑え込んだ。
暴れても奇声を上げてもいない、なぜか冷静に見えるシャヒンの心中は分からないでもない。ルスラン達が酒を奢ってもらった話が彼には夢の様で、森田達を現場に入れない現場監督が本当に憎く見えたから。芽生えたのは一発殴りたいというシンプルな欲求。トルコの諺に曰く、酒をつくる葡萄のひとつひとつに悪魔がいるのである。

余所者のカラス族は、現場監督が警察を呼んだ時点でルスランに言付けをして例の店に移ったが、事件はそれだけでは終わらなかった。直後にルスランが死んだのである。
彼に突然の最期をもたらした死の天使はシャヒンだった。当たり前にクビを宣告された彼は、事務的に呼び出された警察官からルスランの無茶を諭され、監督の厚意で厳重注意だけで解放されると、その足でルスランの元に向かった。
現場監督とルスランの違い。現場監督は暴力を振るうと警察を呼ぶが、ルスランは反撃する。背後からルスランに蹴りを入れたシャヒンは、地を手で撫でたルスランに砂で目潰しをされると、追撃を恐れてのたうち回った。暗闇で怯えるシャヒンの向かった先は進入禁止エリア。一度は笑ったルスランは、そうと気付くとシャヒンのために駆け寄り、いよいよ混乱する彼を取り押さえようとしたが、シャヒンは地上にいて溺れるよう。必死の人間の力は馬鹿にならない。瞬く間に集まった仲間達の眼前で柵を越えた二人は、そのまま剥き出しの地下へと重力のままに落ちていった。

チャイを片手に澄んだ声でこの世の難しさを嘆いていたカラス族を訪ねてきたのはガリプ。エントランスで音がする度に振り返っていた皆は、ガリプの様子が普通ではないことにすぐに気付いた。既に一人のマイノリティの人生を狂わせた自覚のある森田だが、外国人絡みの時は丁寧な言葉遣いを絶対に忘れない。
「警察は大丈夫でしたか?」
ガリプの頭にあるものは森田達とはまったく別。
「兄ちゃんが死んだ。」
健康な人間の訃報は魔法である。時間の止まった六人に構わず、ガリプは兄のゾルタンに頼まれた用事を終わらせにかかった。
「お前らに相談だ。」「勿論、困っているなら助けます。でも、普通ではなさそうですね。」
常に受け入れる姿勢を見せるのが森田だが、逆にガリプは話を聞いていない。彼が喋るのは予め考えていたことだけである。
「兄ちゃんを北海道に運ぶ。お前ら、ツテがないか?」
森田とマカラは、腑に落ちない顔を見合わせた。

「ソノトルコ人達ハ、イスラム教徒デシタ。彼ラハ死ヌト親族ト一緒ニ土葬シナイトイケマセン。キリスト教徒ノ様ニ日本人ニ迎合シナインデス。タダ、知ッテイルト思イマスガ、日本ニハ土葬ヲ出来ル霊園ガ殆ドアリマセンデシタ。遺骨ヲ運ブノトハ訳ガ違イマス。私モソノ時ニ初メテ知ッテ、本当ニ驚キマシタ。」
いつかの総代の話を思い出した賀喜は、優しい笑顔を見せた。
「それで霊園の経営に手を付けられたんですね。」
静かに驚きの表情をつくった宗祖は、瞳を揺らしながら待っていた賀喜の顔に辿り着いた。彼女の存在を忘れていたのかもしれない。
「ルスランニハ間ニ合イマセンデシタガ、地下水ノ地図ヲチャントツクッテ棺ヲ工夫スレバ、別ニデキナイコトデハアリマセンデシタ。土地ガナイナンテ嘘ナンデス。日本ニハ木ガ二百億本アリマス。樹木葬ニスレバ一万年ハ大丈夫デス。アノ頃、皆ガ言イマシタ。コウヤッテ外国人ハ日本ニ住メナクサレテイル。日本人ガイツマデモ同ジ姿デイルタメニ、イロンナ仕掛ケガアル。私達ガ理想ヲ追求スルタメニ絶対ニ超エナクテハナラナイ壁ダッタト、私ハ思イマス。」
普段耳にしない少数意見は受け流すのが鶴来の基本姿勢。責任の負えない領域には近付かないのである。
「当時、宗教的な思考はまったくなくて、営利目的でもなかったということですね。」「ソウデス。信ジテナイデショウガネ。」
宗祖のスタンスは総代とほぼ同じ。おそらく記憶は確かだろうが、呟く様に答えた宗祖は、皺だらけの瞼で何度か瞬くと目を凝らした。彼だけには何かが見えているのかもしれない。

ルスランの一件を通じて、森田達は墓の不平等を知った。埋葬はただのセレモニーではない。ある種の宗教を信仰する者に限って、この国は人生の幕を安らかに閉じることを許していないのである。
この壁を越えずに皆がひとつになる理想は掲げられない。思惟の会のメンバーは、それまで仲間を増やすだけで社会にものを言うことはなかったが、この時初めて何かに突き動かされた。土葬できる墓を増やす。誰もがこの国で普通に死ぬ権利を勝ち取るのである。
当時の墓地は、墓地埋葬法の制定の煽りで、公営ではない寺院や教会のものが増えていた。言い換えれば、墓地の経営を始めるには少なくとも宗教法人を興す必要がある。行政でなければ、信仰なくして墓を扱うことは許されなかったのである。
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