第1話 一日目(1)

文字数 2,752文字

「この世の果てや宇宙の始まる前の何かの終わりについて、あなたも一度は考えたと思いますが、答えは出なかった筈です。それはあなたが学んできたすべてを説明するための基準が絶対ではない何よりの証拠です。」
雲が滲む夕暮れ時の夏空の下、斜に構えた影が遊ぶ村落の何処かで、不器用な説教が聞こえた。

季節は巡り、杉の木がビロードの様に覆う河岸段丘に重たい空気が満ちる冬。細道を縁取る苔むす石垣と欠けたアスファルトは、一帯の発展を願った誰かの夢の跡。ぽつねんと彼方を行く軽トラックの更に先、単調な緑の世界に奥行きが増すのは、常緑の人工林の背に野生の木々が広がるから。ナラやブナ、林立する落葉樹が仕切るのは、人と人の間である。
嘗て取り返しのつかない過ちを犯した人間は、しかし簡単には死を選ばず、正義と一対の暴力を避けるために急な坂を登り、林の先に逃げた。未熟な社会では失敗は日常。道を違えた者の殆どは時代の犠牲者である。すべてに不安な彼らは人の和を貴びながらも捨てた郷を避け、無垢に生まれた子供を歪に導いた。隣村同士が血を厭わずに戦えた理由は、決して飢えだけではない。
生々流転、成熟した社会が昔話から林の意味を葬っても、野蛮な記憶は其処かしこに残り香を漂わせている。地名や街並み、人の繋がり。いつか過疎化だけが綺麗に解くだろう村境の呪縛を笑顔で潜り抜けられるのは、過去の理屈を知らない子供達。但し、それも平時だけである。

朝七時。まだ、夜の冷気を吐ききらない枯れた草地の上に、森田寛人は血管が透き通る白く細い足を肩幅程に開いて立っていた。九歳の彼がやはり白く細い腕を伸ばして握るのは、錆びた七番アイアンのべたつくグリップ。寛人と彼を見守る四人に俄かのゴルフ熱を呼んだそれは、林の中で見つけたゴミである。半袖半ズボンは寛人ただ一人で、他はジャンパーに長ズボン、寒さに抗う冬の正装。仮に彼らをホット・パルスと呼ぶ。住む村の違いだけでは服装の差を説明できない程、今の空気は冷たいが、彼らには些細なこと。寛人は寧ろ切ったばかりの前髪を気にして首を横に振ると、長い睫毛が飾る大きな目で割れた白球を見つめた。ゴルフの経験は一切なく、頼りはいつかテレビで見たプロ・ゴルファーの記憶だけ。力の加減もまったく分からないが、ボールを運ぶ先が空き地の端に掘った穴ということだけは決まっている。
ボールの上を小さな鼻から漏れた白い息が何度か過ると、寛人は勢いよくクラブを振り上げ、関節を柔らかく使って、振り子の様に振り切った。軽い衝突音を立ててボールが舞い上がると、気持ちのままの不揃いの笑顔を浮かべたホット・パルスは両手を口元に添え、声変わり迄まだ遠い、高く澄んだ声を響かせた。
「ファー!」
どこへ飛ぼうと同じことを言うのだが、事実、寛人の放ったボールは彼が思う軌道を外れ、脇へ大きく逸れた。低く剪定された寒椿の垣根を超え、更に向こうへ。クラブがボールに当たった奇跡に喜ぶ間もなく、物音に反応する小動物の様に大袈裟に慌てた寛人がクラブを手に走り出すと、ホット・パルスも続いて大地を蹴った。
寛人が走り出した理由は二つ。ボールの数に限りがあることと、ボールが飛んだ先に墓地があること。彼の可愛いだけの人生経験に照らして、墓地はゴルフ・ボールを打ち込んではならない場所である。
急ぐ気持ちが先走って垣根を大きく回った寛人の前に現れたのは、また別の木々。支柱の残る若木も混ざり、おしなべて背は低い。庭園に見えるそれは樹木葬の墓地。人によっては首を傾げて止まない不可思議な光景である。
球を探す場所を見極めた寛人が足を止めるとホット・パルスも追いついたが、本来散るべき皆の視線は一斉に同じ方向に向けられた。十個の瞳が釘付けになったのは、ゴルフ・ボールより遥かに大きな異物。冷たい地球を抱きしめる様に横たわる大人の男、老人である。
「人が倒れてる!」「本当だ!」「倒れてる!」「人が倒れてる!」
悲鳴を上げたのはホット・パルス。寛人一人が沈黙を守ったのは、林のこちら側の住人である彼に責任感に近い感情が唐突に芽生えたから。大事にしないためには、簡単に取り乱してはいけない。
眼前の失禁が事実と認識できない程、彼らの世界は清く美しい。瞬きを忘れた寛人は、クラブを握ったまま男の傍へと足を進めた。人助けは子供社会の鉄則だが、知らない大人に近寄らないのも鉄則。心のベクトルが定まらない寛人の足は、男に近付くにつれて鈍った。続いたホット・パルスの誰かが寛人の小さな背を押すと、五人は軽い揉み合いを始めた。プライドがすべての彼らなので、どんな状況でも押されっ放しはない。大人の介入なしに平和な答えに落ち着くことは、なかなかの無理難題である。
長期戦が必至の小競り合いが終わったのは、誰かの足が男の体に触れた時だった。短い悲鳴で思考がリセットされた五人は、放ったままだった男を見下ろした。男の姿勢はさっきのまま。学校と親が教えたことがすべての彼らに、背中だけで老人の今を紐解く能力はない。暫く悩んだ寛人が思い出したのは、会話という選択肢。
「おじいさん、大丈夫?」
正解の登場にホット・パルスのスイッチも一斉に入った。
「おじいさん、大丈夫?」「おじいさん、大丈夫?」「大丈夫?」「大丈夫?」
人生の終焉を連想するまでに大した時間はかからないが、ものの哀れを知らない彼らの言葉には残酷さが混ざる。
「こいつ、死んでんじゃない?」「嘘?」「おえ!」「110番。」
黙ったのはやはり寛人一人。人の死を簡単に認めてはならないことを、家庭の事情で知っているのである。寛人は空いた手を伸ばし、男の背に触れた。衣服に触って感じるのは冷たさ、当然のそれ。軽く手で押してみても、何の反応もない。
死後硬直がいずれ解けることは彼らとは無縁のロジック。やがて、どんなに手に力を込めても男の体が動かないと知ると、五人は一様に怖気づき、朧げな連想を確信に変えた。
寛人は握り締めていたクラブを霜の降りた地面に置き、男の傍に膝をついた。柔らかい肌に砂が食い込んでも気にする彼ではない。改めて皆と視線を合わせた寛人は、この場が自分に委ねられていることを感じとった。彼への信頼というよりは現実逃避。皆、不測の事態を前にして、傍観者になろうとしている。
寛人は深く考えず、男の固まった体に手をかけた。顔を見るために、仰向けにするのである。
男の後頭部を眺めて気持ちを整えた寛人は、力一杯腕を上げた。細い手足の関節が撓ったところで、死後硬直は絶対。男の体は綺麗に転がり、短く音を立てて地面を滑った。
露わになったのは今まで土と接していた男の顔。
目をむいた寛人達は、顎が外れるほど口を開くと、腹から胸に込上げた悲鳴をそのまま男に向かって解き放った。
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