第40話 六日目(3)

文字数 4,120文字

思惟の会に転機が訪れたのは、森田とマカラが出会って最初に迎えた冬のこと。大学四年生の森田は、有り余る才能に恵まれながらあらゆる会社に採用を断られ、留年する道を選んだ。人一倍、思惟の会の活動に熱心だった彼の噂が大人社会に大きく曲がって伝わったせいである。平凡な生活に溶け込むために猛省を促されたのだが、その見返りとして、森田は時間の力で会のリーダー的な存在になった。リーダーと断言しないのは思惟の会にそのポストがないから。何に負けたつもりもない森田は、捕食者が存在しない学び舎で着実に同志を増やしていった。
一方のマカラは森田の下宿に身を寄せ、アルバイトをしながら外国人の仲間を開拓する日々を送っていた。決して富を求めない思惟の会は、親からの仕送りはそのままに稼いだ金を集めて活動資金にするのが原則。法律上はこの国に存在しないマカラの仕事は過酷なものになったが、彼は何ひとつとして厭わなかった。自分を迎えてくれる人の輪の価値を知っていたのである。常軌を逸するレベルで献身的な彼は、会の重要な存在として認識される様になっていった。
当時のメンバーは三百人程で、日本人と外国人の比率はほぼ半数。百人足らずの大学生がSNSもない時代に皆の気持ちを繋ぐ。会の中心にいるのは森田とマカラ。それが、その頃の思惟の会である。

目を閉じてエキゾチックな空気を吸い込んだマカラは、喉の奥底に味らしきものを感じると瞼を大きく開いた。隣りに立つのは森田。その夜のメンバーは二人を含めて六人である。
夜の街に繰り出したカラス族が足を踏み入れたのは中東風の情報が多めの飲み屋。酒が目的ではない。トルコ人の労働者グループが頻繁にその店に出入りしているという噂を耳にして、新しい繋がりを求めたのである。
内装にスパイスが染み込む狭い店内には、一目でそれと分かる彫りの深い似た顔立ちの四人がいた。彼らは兄弟で在日二世。仕事はビルの解体工事で、多様なルーツのトルコ人達を仕切っている。この店の常連で、店主に頼めば特別に出て来る牛のケバブが好物。それが事前に聞いていた彼らの名前以外のすべてである。
勝負は第一印象。心からの笑顔をつくった森田は、エントランスで足を止めたまま店員の女性を呼んだ。まだ遠い彼女に向かって四人のテーブルを両手で差す様も慣れたもの。
「そこのテーブルにケバブとビールを十人分。」
悪戯にしか聞こえない声に兄弟の視線は一斉に動き、黒づくめの森田の姿を捉えた。流行りの装いと分かったかは怪しい。
「こんばんは。外国の方ですよね。今、時間ありますか?」
森田は四人のテーブルに軽やかに歩み寄り、躊躇なく空の椅子に腰を下ろすと、楽な肘の位置を探した。
「私は森田と言います。思惟の会というサークルをやっているんですが、少し話をしてみませんか?」
饒舌が義務付けられるトルコ人にとって、相手の目をただ見続けることは拒絶を意味する。先祖の言いつけを守って、野太い声を披露したのは長兄のルスラン。スキン・ヘッドに髭面、腹回りだけでなくすべてが大きい彼。
「どこが外国人だ。どう見ても日本人だろ。」
モンゴロイドには決して見えない兄弟が揃って含み笑いをする中、戸口で佇んでいた五人がばらばらと隣りのテーブルに腰を落ち着けると、森田は姿勢を正し、自分の中のエンジンをかけた。
「聞いてますよ、サヒンさん。トルコ人のお友達が多いんですよね。」「ルスランでいい。ここにいるのは全員サヒンだ。」
ルスランは森田から視線を逸らし、黙ったままの五人とも順に目を合せた。心の壁はプライドのままに高く、太い眉と力強い目で相手を威圧している。少し細身なだけでルスランのコピーの様な次兄のゾルタンはマウンティングを忘れない。
「本当に呼ぶなよ。」
他人から見るとルスランに髪をつけただけの三兄のガリプ、ガリプに髭のないだけの末弟のイルケルが続く。
「馬鹿にしてると壊すぞ。」「言わすからな。」
当たり前かもしれない反応を眺めた森田は、笑顔を崩さずマカラを振返った。バトンを受け取ったマカラの愛想笑いも板についている。
「誰も馬鹿になんかしてませんよ。私とあなた達は似た者同士だと思えませんか?」
ルスランはマカラの全身を値踏みする様に眺めた。
「偉そうに髪なんか生やして、知ったかぶるなよ。こっちは腹も減ってる。」「だから、森田さんは食べ物とお酒を頼んだんです。」
「俺達に奢るのか?」「そうです。」
「臭えなぁ。」
ルスランは明らかに面倒を嫌っている。太い首を傾げた彼がカラス族の顔を改めて睨むと、三人の弟達も続いた。人数が少ないのに凄む時点で普通ではないが、やはり普通ではないマカラは自分の世界へ引き込むための網を広げた。マジック・ワードを使うのである。
「私は民主カンプチアの出身です。」
ルスランが感じたのは無駄な説教が始まる予感だけ。
「知らねぇな。」
弟達も沈黙を守ったので、おそらく彼らはその国の名が意味することを本当に知らない。誰もニュースを見ていないのである。無知を悲劇と知る森田は、絶えず浮かべる笑顔に少しだけ同情を混ぜた。
「東南アジアについ最近まであった国です。大虐殺があって、彼は木の舟に乗って逃げてきたんです。マカラさんと言います。」「マカラです。私もお腹が空いていましたよ。」
人を束ねる仕事柄、人生勉強だけには長けたルスランは、音を立てて椅子にもたれ掛かった。
「国に残った奴に悪いと思ったら、もう少し謙虚にできないもんかな。」「そうですね。そう思います。でも、言いたかったのは私があなたと同じ外国人ということです。」
「違うだろ。俺達は日本人だ。」
マカラはルスランが共感できそうな不幸を探した。
「すいません、言い直します。私はあなたの友達と同じなんです。私にはこの国の戸籍がありません。普通に働けないんですが、森田さんに仕事を紹介してもらって何とかやれています。」
マカラの言葉は、ある種の話題に敏感なルスランの頭に違うかたちで届いた。生活信条に関わる重要な問題である。
「おい、俺達はカタギだからな。勘違いするなよ。」
マカラが苦笑すると、森田は両手でルスランを差した。ルスランが手を差し出せば握りそうな距離感。
「どうも上手く伝わらないんですが、まずは仲良くする前提で話してみませんか?」
ルスランは大きな目に力を漲らせ、森田の手を引かせた。生来、森田が漂わせている余裕が好きになれないのかもしれないが、細かいことを語る彼ではない。ルスランは太い指で机を何度か突いた。
「お前ら、舐めてるとケバブにして売るからな。」
そっくりな弟達が笑うと、厨房からも笑い声が漏れてきた。この店は確実にサヒン兄弟のホームである。物騒な冗談に流石の森田も笑顔を僅かに強張らせたが、理想に燃える彼が諦めるのは今ではない。
「私達の思惟の会は、いろんな国の人と知合いになって、世界をひとつにすることが目的のサークルです。外国の人を見たら取敢えず声を掛けてきたんですが、今のメンバーは三百人以上います。」
人数の力を知るルスランが返す言葉を探すと、間を感じたゾルタンが声を上げた。ルスランを兄と慕っても、万能とは思っていない。
「俺達と友達になるって?」「そうです。」
「お前、何のつもりだ。ガキじゃねぇからな。」「そうですね。」
「俺達が困ってたら助けるのか?」「そうです。」
「本気か?」「本気です。」
目をむいて心の壁を教えていた四人が誰からともなく笑い出すと、時機を感じた森田は思惟の会の本質を教えた。
「その代わり、私達が困った時には助けてください。どんな時でもです。」
笑いが止まらないゾルタンを横目に、イルケルは森田の言葉の行き着く先にあるものを教えた。
「じゃあ、まず今助けてくれよ。俺達には金がねぇから。お前らの持ってる金を全部くれ。」
よく似た兄弟達の目がギラついても、森田は笑顔を崩さなかった。過去に経験した類の脅しである。
「勿論あげてもいいですけど、私達もお金がなくなったら生活が出来ません。そうなったらあなた達を頼ります。今、皆で財布を見せあって、皆のお金を均等に分ければいいんじゃないですか?」
何かを言い淀んだルスランは勝手に思い描いた結論に分かり易く呆れ、両腕を分厚い胸の前で組んだ。肉体労働で鍛え上げた筋肉をこれ以上意識させる姿勢はない。
「お前ら何だ。やる気か。」
森田は眼前の危うい展開の早さを寧ろ歓迎した。ルスランの頭は使っていないだけで、思ったより回っている。
「そうですね。いつかは戦争ぐらいするかもしれませんが、相手はあなた達じゃありません。私達は本当にあなたやあなたの友達と仲良くなりたいんです。信じてください。」
実体の見えない言葉にルスランが黙ると、目を見開いていた弟達は揃って目を凝らした。信じる気など、毛頭ない。しつこい不審者を相手に、見せかけの脅しではなく実力行使のタイミングを計り始めたのである。森田の笑顔だけでは消しきれない殺気を払ったのは店長と店員、完全な被害者の彼ら。
「お待ち遠様!」
ビールのジョッキとケバブがテーブルに運ばれてくると、ルスラン達の目は香りの溢れる皿の方へと引き寄せられた。この店のケバブはシシュ・ケバブ。クミンと肉の香りには魔力がある。
「そちらのテーブルにもすぐにお持ちします!」
店長の声の明るさは完成されている。マカラ達はサヒン兄弟を無駄に刺激しない様に小さく頷いた。やがて、ガリプが森田を睨みながら長い串に手を伸ばすと、兄弟達の表情は微かに緩んだ。

その夜、ケバブが残らず皆の胃袋に消えるまで、森田は飽きもせずに思惟の会の理想を語ったが、そもそも理解する頭のないサヒン兄弟に何も伝わることはなかった。毎日の生活に直結すること以外は幻の様で、輪郭さえ認識できないのである。
森田が気持ちを伝えるために何度か肩を落とすと、人の情は分かるルスランは弟達の顔色を眺めた。並んでいたのは、酒に酔い腹の満たされた至福の表情。ルスランは、彼なりに悩んだ末に森田を自分の働く工事現場に誘った。それはトルコ人達の集う場所。兄弟の見本になるべきルスランは、酒と肉の恩に報いるため、森田達の望むものを与えることにしたのである。
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