第24話 四日目(3)

文字数 3,306文字

窃盗に売春、薬に暴力。陳腐な悪が路地裏に蔓延る七十年代末の沖縄の夜。戦前の沖縄になかったそれは、戦後の貧困と反米思想、基地頼みの盛り場の産物。基地の建設現場に巣食った博徒達が暴力団を自認し、本土への牽制のための大同団結と抗争を経て、いつかの不良とは違う姿に生まれ変わったのである。
マカラが引き取られたのは、牧港補給地区周辺の歓楽街に屯する無国籍の青年達のグループ。暴力団ではないがカタギとも言えない。男女を織り交ぜた三十人ほどで、一帯を仕切る牧港派に上納金を収めて平和を買う不良の集まり。表向きの職場は遊技場やバーにクラブ。泥沼の様な退廃に溺れないため、時にPCP(麻酔剤)で夢を見る彼らは、戸籍のままに社会の枠組みからこぼれ落ち、帰化の条件を満たすことも出来ない。無視されることで存在が許される、矛盾に満ちた生き物である。
マカラに幸いしたのは、基地から流れた武器も護身用に持つ彼らの結束が固く、沖縄の暴力団にはないある種の侠の精神を持っていたこと。日本に残る数少ない影の中で、マカラはほぼ一年の月日を過ごした。人生が過酷な生存競争に思える元教師の彼にとって、日常生活のかたちを手に入れるのに十分な時間である。

彼らが集うのは、現実を眩しく照らす太陽が隠れてから。夕闇が暗闇を呼び、埃だらけのネオンが本能の溢れる街角を縁取り始めると、影から浮かび上がる様に姿を現すのである。
一人、また一人。酔っ払いと煙草の臭う淀んだ空気を泳ぎ、すれ違えば、視線を絡ませて微笑む。数時間自分を捨てると、昼を知る客を期待しない店に約束もなく集い、海岸へ。誰のものでもない砂浜だけが彼らの居場所である。
いつとも違わず蒸し暑いその夜。目を閉じて、潮の香りに包まれていたマカラはゆっくりと瞼を開き、漆黒の世界に揺れる遠い灯りを茫と眺めた。肩を並べるのはグループのリーダーのキャベンディッシュ弘、その恋人の大城洋子に加えて七人。
米国陸軍の軍人の父親と日本人ダンサーの母親の間に生まれた弘の見てくれはほぼモンゴロイドである。ディップで撫でつけた長い黒髪と細い体を飾るシックなアロハはチャーミングだが、瞳に宿る暗い光が強さと深さを感じさせる。日本人離れした洋子の父親も、所属は分からないが米兵らしい。ダーク・ブロンドがキュートな純白の彼女は広義の薬の調達係。保険証のない皆の生命線である。
今日の自分の身に起きたことを話しても悲劇しか待っていない。いつもなら僅かな刺激も嫌って肩を寄せ合い、風に揺れるだけのカラフルな彼らに、この日は小さな事件が起きた。メンバーで最年少のジャクソン達也が、スクラップ同然の見慣れないセダンで砂浜に乗り付けたのである。
ロータリー・エンジン搭載の四ドア。十年落ちの白いボディのそれが皆を興奮のるつぼへ導いたのは、後部座席のドアがなかったから。
「これはオープン・カーですか?」
真顔のマカラの問い掛けに、汗で黒光りする達也は首を傾げ、半目で答えを口にした。胸元を大きくはだけたアロハが、沖縄の夏に馴染んでいる。
「うんな訳ねーんだる。くりんーでー。(そんな訳ないだろ。これを見ろ。)」
ダブつくズボンを風にはためかせたマカラは、達也が顎で差した先に顔を近付けた。丁番の金属が捻じれている。
「この車に乗っていても大丈夫ですか?」
丁寧過ぎる言葉遣いはマカラを無知に見せる瞬間があるが、ものを知らない自覚が少なからずある彼らは誰一人として気に留めない。
手に入れたばかりの宝物にケチをつけられ、気性の荒い達也が舌を打つと、初めて会った瞬間からハイのままの洋子がこの国の常識を教えた。
「大丈夫だったら、もらえないですよ。」
マカラに標準語を教えたのは洋子である。マカラがたまたまこの地に流れ着いたと知る弘は、他人の人生を決めることを嫌って、洋子に標準語を教える様に言った。親に人生を翻弄された経験が弘を慎重にさせたのである。因みに、法の縛りさえ意識しない洋子が標準語を喋れるのは怪しい母親の影響だが、素性を問わない彼らの中にそれを知る者は少ない。
「うとぅちかしみれー。(音を聞かせろ。)」
無駄な動きの多い洋子に寄りかかられた弘が声を掛けると、達也はニ、三人から吹きかけられた煙草の煙を順に避け、運転席に向かった。弘と洋子が乗り込んだのはドアのない後部座席、マカラが行き着いた先は助手席。成り行きである。
弘一人を乗せるつもりだった達也は目立って余計なマカラと視線を合わせたが、気まずい静けさは一瞬で終わった。他の皆が弘に続いたのである。十一人の重さでセダンは大きく揺れ、車輪は砂浜に沈んだ。箱乗りと言うより曲芸に近い。
「ふぇーくしくぃれー。潰りーん。(早くしてくれ。潰れる。)」
胸元で爆笑する洋子と一緒に潰れそうな弘が声を掛けると、達也は黙って空ぶかしをした。弘に請われた排気音を聞かせるためだが、轟音を立ててガソリン臭い煙が視界を曇らせると、皆は奇声を上げて車から飛び降りた。動きに漲る躍動感は多様なルーツのせい。天の恵みである。残ったのはマカラに弘、洋子の三人だけ。楽になった弘は、珍しく明るい目を見せた。
「はーえーさしみれー。(走らせろ。)」「分かたん。(分かった。)」
急かされた達也は、音を立てて、ぎこちなくシフト・レバーを動かした。意図せずタイヤを空回りさせ、走り出した先は暗闇。
ハンドルを握る達也も含め、出鱈目に揺れる車内の四人は一斉に悲鳴を上げた。ライトを点けていないせいで、何も見えないのである。ボーン・ヘッドの理由は誰かが室内灯を点けたことと、達也がペーパー・ドライバーであること。七人が見送る白い車の中で、おそらく一番周囲が見えている弘が怒鳴り声を上げた。
「ふらー!とぅみれー!(馬鹿!止まれ!)」
しかし、達也は頬を強張らせ、ハンドルを握り直した。夜の運転が難しいと知ったばかりの彼には今の恐怖の理由は曖昧。避けるのではなく、越えるべき壁に思えたのである。
瞳孔の開いた達也が見据える先は暗闇、狂った様に笑う洋子が見る先も、怒鳴りながら皆が助かる術を探す弘が見る先も暗闇。正解が分からないマカラは皆に倣って暗闇を見据え、何かが見えるのを期待して目を凝らした。

「大丈夫だったんですか?」
常識的な鶴来の相槌に、壁に向かって呟いていた宗祖はゆっくりと視線の先を変えた。
「アア?」
彼がここまで話すのに一時間。頻繁に途切れる思い出話を続けさせるためには、時折、声を掛ける必要がある。
「自動車の無灯火運転って、怖いですよね。」
宗祖の価値観は鶴来のそれとは次元が違う。
「大丈夫ダカラ、彼ハ生キテイルンデス。」
垂れたかもしれない髪のラインを指でなぞった賀喜は、当たり前過ぎる答えに愛想笑いを浮かべた。瞳が輝いているのは、大城洋子の名が彼女の刑事魂を揺さぶったから。
「大城洋子さんという人、面白そうな人ですね。」
宗祖は、目の端に映った賀喜の笑顔に静かに目の焦点を合わせた。
「今ノ話デ、ドウシテ面白イ人ダト思ッタンデスカ?」
宗祖は少なくとも当時の洋子にいい印象を持っていない。噛み合わない会話に賀喜は首を傾げ、ただ笑顔を返した。
「私ハ、アノ人ガ薬ヲ流シテイテ、酷イ運転ヲスル車ニ乗ッテモ笑ッテイタト言イマシタ。無茶ナダケデ、何モ面白イコトハナイデス。」
賀喜の勇み足は確か。鶴来は身を乗り出し、宗祖の気を引いた。
「実は、小鳥遊勉さんの一件を調べていて、こちらの教団のことも何人かに伺ったんです。沖縄出身の大城洋子さんという方がいて、かなり精力的に活動されていたと聞きました。同姓同名の他人ではないですよね。」
正直よりも誠意を伝える術はないが、鶴来は同時に賀喜の小さな嘘をばらしている。賀喜を眺める宗祖の目が泳いだので、頭の中が整理しきれないのかもしれない。
「どんな方だったんですか?俺達、大城さんにすごく興味があるんです。」
不意に初対面の様な目で鶴来を見た宗祖は、喋りそうな気配だけが漂う緩い沈黙の末に天井を見上げた。徐々に目に力が宿っていくのは、きっと彼の脳裏を過る思い出が刺激的だから。洋子が残した断片的な記憶が、今ひとつになろうとしている。
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