第19話 三日目(6)

文字数 2,839文字

砂浜に上がり、目を閉じて呼吸が整うのを待ったマカラは、強い日射しに焼かれて背中の水気が失せると目を見開いた。意識があるうちに次の壁を越えなければ生死に関わる。そう感じたのである。
マカラは故郷と何処か似た海岸沿いの景色を見渡し、次いで自らの焦げた肌を観察しながら、少しずつ気持ちを固めた。血を流す彼は、金は愚か服も持っていない。下着だけ。誰かに声をかければ願いが叶うと思う程、甘えた世界の住人でもない。寧ろ逆。一度は後進の育成を生業としたが、無慈悲の中で価値の基準はとっくにずれている。生きるためには奪い取らなければならない。
服を着ているのといないのでは、人として天と地ほどの差がある。絶対に最初に奪うべきものはそれ。洗濯物が外に干してある昼間に、住人の数も知れない民家に近付くことは出来ない。通りすがりの人を不意に襲って服を奪うか、深夜を待ち、広めの家に忍び込んで服を盗む。汚れた二択に悩んだマカラが選んだのは、それでも少しは暴力から遠い後者だった。
夜を待って服を手に入れ、この地に二度と近付かなければ、平和な生活が待っている。ここがどこかも知らないが、故郷の様に眼鏡をかけているだけで殺される筈はない。想像だけで興奮し、背筋が派手に震えたマカラは、遅れて次の本能に襲われた。食欲である。
周囲を窺うマカラの目は大きく彷徨い、結果、遥か彼方に広がる農園に止まった。見つけたのは故郷でも見たマンゴーの木、あるいはその類。広大な敷地の一部を賑やかす露地栽培に人の姿は見えない。標的を見据えたマカラは無心に走り出した。ただただ無心。遠くを歩く疎らな地元民の視線が、誰が見ても異様な彼の方へと集まることにも、マカラは気付けなかった。
躊躇なく農園に足を踏み入れたマカラは、眼前の淡い橙色の塊をもぎ取り、温い表皮に嚙みついた。皮さえ破れれば、かたちはあってない様なもの。潰す様に口を押し付ければ、芳醇な液体が口腔に満ちる。果肉は喉へ滑り込み、食道を綺麗に撫でて、胃袋に落ちていく。二度、三度。四度、五度。恍惚に溺れたマカラは、しかし次の瞬間、背中の重い痛みと共にマンゴーの葉の中に倒れ込んだ。
角度と肌感的には蹴られた時のそれ。マンゴーを抱くマカラが力なく転がり、傾いた世界に見つけたのは、一組の若い男女だった。男の方は眉が濃く、目は大きい。低いが太い鼻筋に褐色の肌。仮に名前をアルファ。女の方は少しだけ線が細い。仮に名前をベータ。白人でも黒人でもない容姿。それが沖縄産まれの典型的な顔立ちと知らないマカラは、自分の言葉で話し掛けた。インテリの彼だが、咄嗟のことに片言の英語を使う余裕もない。
「អភ័យទោសឱ្យខ្ញុំផង. ខ្ញុំស្រេកឃ្លាន។. (許してください。お腹が空いていたんです。)』
声にならないその声がどう聞こえたのか、アルファは何かを怒鳴り散らした。言い訳する行為自体を許す気がないのかもしれない。取り付く島もない彼がベータに話し掛けると、ベータは短く声を発して走り出した。
マカラの傷だらけの心を襲ったのは、残酷な新手が増える恐怖。命の危機である。ひとまず逃げようにも体が言うことを聞かない。手足をばたつかせ、醜く地を這ったマカラは、もう一度重い痛みを味わった。アルファに脇腹を蹴られたのである。
痛みに体を丸めたマカラは重めの暴力から逃れるために命乞いをしたが、彼が捨てた国の言葉は何の役にも立たない。気持ちを伝えるためにアルファににじり寄ったマカラは、もう一度蹴倒された。胸から腹へかけての打撃。目を見て蹴られる屈辱。それでも、マカラは通じない命乞いをかすれた声で懸命に続け、悉く無視された。
ベータが一人の中年男を連れて戻ってきたのは十分ほどしてから。仮に名前をガンマ。炭の様に日焼けした肌と格好からして、この農園の持ち主に違いない。三人は、唇が腫れるほど日に焼けた血だらけのマカラが謎の言葉で何かを呟くのを眺め続けた。

マカラにとっての小さな幸運はそこが沖縄だったということ。国籍法が改正される前、父親が日本人でないと日本国籍のもらえなかった時代。死と隣り合わせの米兵や不良外国人のせいで、自由な生活を許されない無国籍の若者が街に溢れていたのである。
何かを話し合った三人のウチナーンチュは、動きに微妙なリズムが出始めたマカラを花ブロックが囲む一軒の民家へと運んだ。待っていたのは中年女。仮に名前をデルタ。年齢も肌の色もガンマに近く、彼の妻と考えるのが人類の常識である。アルファとガンマは、薄っすらと瞼を開く汚れたマカラを居間に引き摺り上げた。
されるがままのマカラが感じた新しい刺激は匂い、食べ物のそれ。デルタは鼻を動かすマカラの前に食べ物と飲み物を並べ、大皿のひとつを彼の方へと押しやった。この動作なら食べるべきはマカラ。まだ、人の善意を信じられなくはないマカラは、皆の反応を探りながら皿に手を伸ばした。
素手で料理を口元に運んだマカラは四人の目が笑っていないことに気付いたが、誰も声に出して怒っている訳ではない。おそらく、今の幸運は過度な暴力の対価。納得できる理由を得たマカラは遠慮を捨て、味の予想もつかない料理を飲む様に胃袋に流し込んだ。
時計の針が進み、腹に重さを感じ始めた頃、食べ方から必死さが消えて見えたのか、マカラはガンマに手招きをされた。這いながら連れていかれた先は風呂。張られていたのは水だが、潮吹く肌にはその方がいい。痛みが避けられなくても、いつかは通る道である。やがて覚悟を決めたマカラは、焦げついた腕を水に浸けた。
試行の果てに三十分が過ぎ、風呂から上がった脱衣所には、見知らぬ服がたたんで置いてあった。親の躾の欠片が残っていれば、下着姿で女性の前に戻りはしない。
満腹は精神の昂りを抑え、服は人に尊厳を与える。自分の見え方をそれなりに気にかけたマカラは、伸びきらない腰でゆっくりとだが居間に歩いて戻り、人の数が増えていることを知った。経緯は不明だが、とにかく水と苦戦する間に集まったのである。
流れに身を任せる他ないマカラが見渡した皆は、アルファ達とはまた違う顔立ちをしていた。このレベルの多様性を実現するのはルーツ、あるいは整形か遺伝子の気まぐれ。マカラの中で不意に募ったのは同郷の者が混ざる期待。
「ខ្ញុំមកពីកម្ពុជាប្រជាធិបតេយ。(私は民主カンプチアから来ました。)」
待っていたのは沈黙。頭数は多くても声は皆無。笑顔も耳を傾ける素振りもない。アルファ達が呼び出したのは、きっとマカラとどこか境遇の似た者、困窮しても人に助けを求められず、食べ物を盗む様な孤独な流れ者に違いない。マカラをここから追い出すにしても、その先を想ってのこと。沖縄である。
マカラは、そのままカラフルな一団に連れられ、ガンマの家を後にした。日本語の喋れない彼は、その日、どんな会話がなされたのか全く理解できなかったが、おそらくそういうことである。
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