第32話 五日目(1)

文字数 1,780文字

「誰かを信頼できるか見極める最善の方法は、彼らを信じることである。」…アーネスト・ヘミングウェイの言葉

朝の捜査会議の内容は前日とほぼ同じ。穏やかなひと時を過ごした鶴来と賀喜は、今日も教団に向かった。対象も場所も絞らず、あらゆる要注意人物の情報を追う剣道フリークスの方がゴールに近い気もするが、寒さの厳しい冬の朝に限れば大した問題ではないかもしれない。人生は長いのである。霊園の駐車場に覆面パトカーを止めた二人は、白い息を吐きながら管理棟へ向かった。
月曜日は学校があるので寛人はいない筈。何の期待もしていなかった鶴来と賀喜は、しかし思わぬサプライズに微笑んだ。ガラスに囲まれた管理棟の中で、半袖半ズボンの寛人が口を大きく動かしながら身を捩っていたのである。眉間に浮かぶ皺は短く浅い。足が小刻みに揺れているのはリズムをとっている人のそれ。
他に人の姿は見えない。きっと、期せずして自分だけのステージを手に入れた寛人は、誰に気兼ねすることなく歌い始め、身振りも抑えられなくなったに違いない。扉から微かに漏れ聞こえる清らかなア・カペラは小さな笛の様。歌はJ-POP。その瞬間の歌詞がすべてなら男女の別れを歌っているが、寛人にとっては音に添えられた記号も同然である。
笑顔の溢れた鶴来は、躊躇することなく管理棟に足を踏み入れた。何をどうしても気まずいなら、早く解決するに越したことはない。重いガラス戸が擦れる様な音を立てると、頭を大きく振っていた寛人は動きを止めた。
「おはよう、寛人君。」「おはよう。」
鶴来と賀喜の挨拶に寛人は急いで姿勢を正し、いつもの反射神経を働かせた。
「おはようございます。」
ワンマン・ショーの突然の終幕は、日々、大人の世界で居場所を探し続ける子供にとって珍しいことではない。優しい笑顔を浮かべた賀喜は膝に手を突き、寛人と目の高さを合せた。
「今日は月曜日だよ。学校は?」「お父さんが調子悪いって。」
「宗祖様が?」
念のための確認だが、聞かれた理由が謎なのか、寛人は眉をひそめた。思わず目尻を下げた鶴来は、寛人の理解を助けた。
「宗祖様の調子が悪いから学校に行かなかったんだね。」
寛人は怪訝な目を向ける先を鶴来へと移し、視線が合うと頷いた。おそらく彼の中では二人の大人は草食恐竜並みに頭が悪い。笑みを絶やさない賀喜は、首を傾げて寛人の顔を覗き込んだ。
「じゃあ、どうして寛人君はここにいるの?お父さんの傍にいなくていいの?」
寛人の顔の向きは忙しく変わるが、表情は一様に真剣そのもの。
「治ったって言ってたよ。でも遅刻は嫌だから、今日は休み。」
無邪気な子供の答えだが、賀喜の頭を通り過ぎた幾つかのイメージは幸せなものばかりではない。
「寛人君、学校は楽しい?」
口を衝いて出た問いかけは、前日一人で遊んでいた寛人を皆が心配した場合のパターン。警察の捜査が入り、寛人が学校に居づらいと思い込んだ大人が気を回したとしても不思議ではない。何より、昨日あれだけ饒舌だった宗祖が急に生死の境を彷徨うとは思えないのである。
「楽しいよ。」
早過ぎる答えに、賀喜は寛人の表情を注意深く探った。すべてが幼い子供は、楽しいかと問われれば楽しいと答える生き物である。
「本当に?皆いい人?」「うん。皆、仲良しだよ。」
賀喜の質問の意図に薄っすらと気付いた鶴来は、無駄な会話を愛おしげに眺めた。
「いいね。寛人君が羨ましいよ。」
事態がいよいよ理解できない寛人は、表情をそのままに鶴来と賀喜の顔を順に睨んだ。
「おじさん達は楽しくないの?」
鶴来は賀喜の視線を感じながら大人の笑みを滲ませた。
「このおばさんが怖いから楽しくないかもね。寛人君助けてよ。」
寛人は、言われて胸を張った賀喜を見上げた。
「おばさん、おじさんのこと嫌いなの?」「どうだろうね?多分、おじさんの方がおばさんを嫌ってるんだよ。」
どっちつかずの説明に寛人が悩み始めると、鶴来と賀喜は微かな笑みを残して視線を交わした。髪を揺らして先に顔を逸らした賀喜は、寛人のために笑顔をつくり直した。
「冗談だよ、寛人君。でも、人の関係なんて、そんなもんだから。何かあったら相談しあおうね。」
そんなものがどんなものかも理解できない寛人は、賀喜の輝く瞳を暫く見つめると答えを決めた。
「いいよ。いつでも相談してよ。」
賀喜は、寛人の小さな肩に微かに手を添えて笑った。
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