第73話 エピローグ(3)

文字数 3,876文字

教団の様子が気になるのは地域課だけではない。様子を見にパトカーで繰り出した鶴来と賀喜は、遠巻きにその様を眺めた。
「やるせないね。」
助手席の鶴来が呟くと、ハンドルの上で艶のあるボルドーの爪を躍らせていた賀喜も本音を漏らした。
「本当、こっちが悪いみたい。最初に警察に届けなかったのは誰って話よね。」「だね。」
善人しかいない様な笑顔の輪を眺めると、鶴来の心にもとうとう魔が差した。裁判の終わった今なら、根拠なき憶測を漏らしても許される筈である。
「本当は宗祖の言った通りだったりして。」
賀喜は、放っておけない違和感に目を泳がせた。
「何が?」「大体、あの状態の年寄りが人を庇えると思うのが変でさ。筋が通ってれば、取敢えずそのままだと思うべきなんだよ。」
鶴来は、口を開けても声がついてこない賀喜に構わず、今更の見立てを並べた。
「そうすると、嘘を言ってるのは総代と寛人君。仕組んでるとしたら絶対に総代で、寛人君は何ならその嘘のための養子で、もらう時から嘘を教え込んでるんだよ。」
賀喜は取敢えず眉を潜めたが、すぐには考えがまとまらない。
「何のために?」「宗祖の罪にしたくないんでしょ。」
「だから、何のため?」「教団の永続じゃない?」
「だって、…。」「愛とか。」
「ちょっと。」「嘘、ない。そんな年なんじゃない?」
何処かで聞いた答えに賀喜は頷いたが、納得した訳ではない。
「罪は認めてるでしょ?」「総代がね。宗教は宗祖のものだから。」
「いや、でも、教団を残したいからって、…。」「前、何か言ってたよね。時効の後ならあるんじゃないかって。」
「そこ?」「そこ。寛人君を養子にもらったのだって、教団の存続が絡んでる様なこと言ってたよね。それも時効の後だろうしさ。」
賀喜が鶴来の横顔を見据えたのは、月城とまったく違う見立てを信じそうになったから。鶴来の表情には自信が漲り、何なら人を見下している様。一方的にマウントをとられる覚えのない賀喜は、返す言葉を探した。
「時効になって庇えると思ったら、教団を残すためにそんな無茶するの?」「やっぱり時効になったことに運命とか感じちゃったんじゃない?本当に宗教信じちゃうぐらい。よく知らないけど。」
「そっちじゃなくて、宗祖は他人のせいにするのに納得したと思う?」「痴呆症になったからかな。でもないか。それも酷いもんね。」
「でしょ?」
その時、信者達の輪から歓声が沸き起こった。国を倒した興奮が些細なきっかけで噴き出すのである。疲れた鶴来が次の言葉を長い吐息に替えると、賀喜は鶴来の見立てに自分の閃きを重ねた。
「きっと、総代が考えた罰じゃないかな。逃げ切った自分達に皆が幸せになる罰を与えたとか。」「じゃあそれだ。おしまい。」
鶴来は大袈裟な展開を嫌い、強引に話を切り上げたが、無理にも程がある。賀喜の目が怒ると、鶴来は声を出さずに笑った。
「嘘。何か、そんな気がしてきたよ。宗祖は潔白と痴呆、総代は教団の永続と汚名ね。それ。多分、絶対だよ。」
「多分、絶対って何?」
信者達の方を見やった賀喜の頭の中にはまだ疑問が残っている。
「時効まではどうだったんだろう?総代って、法は絶対とか言ってたし。」「違ったよね。法は絶対じゃないから、文言通りとかそんなだよ。普通にハラハラドキドキでさ。逃げ切りたかったんじゃない?」
振返った賀喜が吸い込まれる様に鶴来の目を見つめると、鶴来は表情を変えずに視線を外した。眺めるのは信者の輪。彼の期待する新しい何かが待っているなら、そこだけかもしれない。
「どうして課長に言わなかったの?本当に訳分かんない。」
鶴来のシンキング・タイムは短い。
「何も証拠はないしさ。小鳥遊さんは最初からどう見ても自殺だし。結果は同じでしょ。」「同じじゃないよね。新聞にそんなことが出たら、寛人君、噂話で発狂しちゃうよ。」
「何か逆転してるけど、そういうことでしょ。月城課長とか署長とかはそこを思ったんじゃない?あと中曽根さんとか、あの辺り?宗祖は半分壊れてるし、狙いが教団の解散なら今のやり方が正しいでしょ。」
警察サイドの方法論を耳にすると、賀喜は小さく顎を上げた。
「やりそうだけどね、大人グループ。」「そうでしょ。」
賀喜はフェイス・ラインの髪をなぞり、短く物思いに耽ると鶴来を見つめた。すべての謎が解けたのかもしれない。
「鶴来君は変わらないでね。目指すのは真実だけ。私達、警察官なんだから。」
賀喜が目に込めた想いは自ずと鶴来にも伝わった筈だが、二人は言葉を待って見つめ合った。つまり無言。口を閉じ、欠伸を堪えた鶴来が返事を見送った理由は分からない。
漠然とした不安がゆっくりと賀喜を襲ったのは、仲間が嘘をついた可能性をなし崩しに認めた自分に気付いたから。職を穢したくない賀喜は、公に選んだ選択の正義をかたちだけ確かめた。
「でも、総代もどうせならもうちょっとマシな嘘つくでしょ。」「尤もらしいやつ?」
「そう。」「絶対ばれるけど。」
「まあね。」
視線を逸らした二人の間に改めて生まれた沈黙は長くなった。きっと、鶴来と賀喜がこの一件の真相について語り合うことはもうない。落着である。
小さく頷いた賀喜は、拍手の鳴り響いたエントランスを眺めた。すべてを忘却の彼方に葬ろうとした時、事件とは関係ない下世話な疑念に囚われている自分に気付いたのである。口にしたのは、それこそ気の迷い。
「どっちでもいいけど、宗祖と総代。私、あの二人が同じ苗字を選んだのが、…。」
相槌を求めて振返り、表情のない鶴来を見た賀喜は、決まりが悪そうに口を閉じた。無性に恥ずかしくなったのである。
「何。気になるから最後まで言ったら?」
背筋を伸ばした賀喜はバック・ミラーに映る自分の顔を覗き込んだ。
「授業料がいるかな。」「いくら?」
「高いよ。」「言ってみたら?」
「三億。」「高いなぁ。」
「一生かけてくれてもいいよ。」「よく聞こえない。」
微妙に息苦しくなった鶴来は、窓を全開にすると夏の空気を吸い、賀喜の淡い香りに包まれていたことを意識した。

二人の会話がそこで完全に途切れたのは警察無線が鳴ったから。
「至急、至急。網代です。檜原団地で199(殺人事件)。ホシ(犯人)はタンパン(単独犯)、腰道具(拳銃)所持。滝山橋通りを西へ逃走。人着(被疑者の着衣)はオレンジ色のベスト。どうぞ。」
鶴来がマイクに手を伸ばしたのは檜原団地が近いから。
「至急、至急。41から網代。ゲンジョウ(現場)確認に向かう。どうぞ。」「至急、至急。網代から41。了解。機捜(機動捜査隊)と直ちに合流されたい。どうぞ。」
「41、了解。」「以上、網代。」
無線の交信が続く中、カーナビに示された犯行現場を確認した賀喜はシフト・レバーを滑らかに動かし、アクセルを踏んだ。強い風を受けた鶴来が渋い顔を見せたのは、銃を持つ殺人犯を追うのが初めてだから。現場に向かうと言ってみたものの怖いのである。
「腰道具だって。どうする?」「何が?防具あるでしょ。」
「やばいって。防弾チョッキって、顔丸出しだしさ。機捜と喋って、一回署に戻ろう。」「そんなことしてたらホシが逃げちゃうよ。」
「だから会いたくないんだって。」
呆れた賀喜は鶴来の弱さが可愛く思えたのか、優しく微笑んだ。
「車から出なきゃいいでしょ。」「それ成立する?」
「窓から手だけ出して、こっちも撃ちながら進むとか。」「随分広いとこにいるね。隠れるでしょ。」
「そう?」「向こうは家から家でさ。服も着替えて、食事もとって、夜に動くんじゃない?腰道具あるんだから。」
「じゃあ急がなきゃ、鶴来君。沙紀さんが可哀そうだよ。」「それかぁ。でも俺も可哀そうだよ。家に帰って、沙紀を連れて逃げるかな。」
「滅茶苦茶だって。」「俺以外の警察に頑張ってもらうしかないな。」
声を出さずに笑った賀喜は、交差点に差し掛かると大きくハンドルを切り、揺れた鶴来は重力に身を任せた。
「近付いてるなぁ。」
巻込みを確認したついでに鶴来を一瞥した賀喜は、どこまでも続くアスファルトの先を見据えた。
「絶対怖いけど。でも、こういう時の必要にされてる感じ。誰かに想われてる感じって、凄くない?」
何かが心に引っ掛かった鶴来は賀喜の横顔を眺めた。いつにも増して、賀喜の瞳には光が漲っている。それは危険な兆候。
「九回裏ツーアウト満塁とかPKみたいな感じ?」「平和だなぁ。もっとあるでしょ。コロンバイン高校の乱射事件とか。」
「例えてないよ。」
鶴来の指摘がそうさせたのか、賀喜はアクセルを強く踏み込んだ。
「でも分かるでしょ?危ないって思うと生きてる感じが凄いする。地味に燃えるかな。」「アドレナリン?」
「知らないけど、武士道みたいな?」「道が見えちゃうんだ。」
「この間、ヴィーヴォで死ぬって言われてからちょっと、…。」
鶴来は一人で喋り続ける賀喜の横顔を眺めた。賀喜は、事件が起きなければ、誰からも想われない道を歩んでいる。瞬く間に妄想が膨らみ、何を聞いても頭に入らない。
彼女のやる気が卑屈に聞こえたのは、ついさっきの冗談が生んだ息苦しさのせいである。その時、幾重にも霞のかかる鶴来の頭が一瞬晴れ、賀喜の声が綺麗に届いた。
「大丈夫。神様なんていないから。」
神がいなければ生きられると思えるのも切ないが、無情な結末を受け入れるための方便が神を指すなら、言葉として間違っていない。
賀喜の優しい笑顔がどこか物悲しく見えるのは、鶴来にとってはいつも通りのこと。
重ねた化粧の繊細さから目を逸らした鶴来は澄み渡る夏の空を眺め、顔を撫でる温い空気にデジャ・ヴュを感じた。
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