第59話 九日目(1)

文字数 1,711文字

「可愛い女の子と一緒に座る一時間は一分程に思えるが、熱いストーブの上に座る一分はどんな一時間より長く感じる。それが相対性である。」…アルベルト・アインシュタインの言葉

朝の捜査会議は昨晩のおさらいで始まったが、その殆どは岡部と浦野のために費やされた。そもそも彼らの今日の捜査の動機を生んだ宗祖は自我すら怪しく、血眼の月城が聴取に立会う必要を生じるレベル。中曽根が検索した照屋の前科も古いものばかりなので、ゴールは霧の中である。月城に中村、鶴来と賀喜は、頭を悩ませる剣道フリークスをその場に残し、笑顔で席を立った。

とっくに見慣れた教団の門構えだが、積み上げられた事実のせいで確かに見え方が変わった。月城がインターフォンの呼び鈴を押してから流れる時間も、ゆったりと重苦しい。病院をガサ入れしたところなので、壁の向こうの緊張は推して知るべしである。
冷たい世界に白い息を吐いた鶴来と賀喜は、直立して待つ月城の逞しい背中を見るのに飽きると互いを目で責めた。昨日のうちに総代を探し出しておけば、今の凍える時間は要らないのである。
何度目かの苛立つ視線を鶴来に向けた時、賀喜は鶴来の腰の辺りに小さな頭を見つけた。それは久しぶりの寛人。音もなく近付いてきた彼が、警察官四人の輪にいつの間にか加わっていたのである。
「寛人君。」
驚きを押し殺した賀喜の声で皆の視線が集まると、寛人の反射神経が働いた。
「おはようございます。」「おはよう。」「おはよう。」
皆の挨拶が一息に通り過ぎると、半袖半ズボンの寛人は自分の気持ちを思い出した様に眉間に皺を寄せ、鶴来の顔を見上げた。
「お父さんの調子が悪いんだよ。」
寛人には月曜日と同じ質問をされる気がないということ。突然現れた理由への関心よりも同情が勝った賀喜は、誇り高い寛人の華奢な肩に手を添えた。
「大変だね。お父さん、どんな感じなの?」「寝てるよ。」
「いつも横になってるよね。今日はどこか違う?」「知らない。」
「喋れそう?」「分かんない。でもいつも寝てるよ。」
賀喜は寛人の言葉に潜む微妙な違和感に気付いた。言葉が上手く伝わっていないだけとは思えない。
「いつも寝てるって、横になってるだけじゃなくて目を開けないってこと?」
寛人が魂を抜かれた様に動きを止めたのは、寝ることの意味を問われたから。彼の表情の変化は眠り続ける宗祖の姿こそ正しいと物語っている。つまり鶴来と賀喜に壮大な昔話を語り続けていた宗祖の姿は非日常。不穏な空気が眠れる彼を奮い立たせていたのかもしれない。子供の言うことだが、事実とすれば、総代から聞いていた通り宗祖は死に近い。
月城と中村の視線に気付いた鶴来は軽く頭を下げ、まずは報告の漏れを詫びた。寛人のことがいよいよ愛おしくなった賀喜は、腰をかがめると頬が光る彼の顔を間近で覗き込んだ。
「教団の人はよくしてくれる?」「うん。」
「誰と一番仲がいいの?」「総代だよ。」
「総代か。お爺ちゃんだね。」「お父さんと同じぐらいだよ。」
皆の頬は緩んだが、寛人の一番を貶めてしまった賀喜は、彼のプライドのために総代を誉める言葉を探した。
「総代って凄いよね。」「何が?」
「元々外国の人なんだよね。でも言葉とかも全然自然だし、ものをよく知ってるし。我慢強くて頼れる感じ。」
それは賀喜の素直な気持ちである。いくら教団の動乱期に嘘の様にすべてを投げ出して逃げたとしても、相手はヤクザなので寧ろ賢明である。賀喜は寛人の表情が綻ぶのを待ったが、小さな眉間に皺を浮かべた彼はそのまま沈黙をつくった。
「まだ聞いてないんだ。あの人は本当にいろんな勉強をしてるの。いつか一回ちゃんと話をしてもらうといいよ。」
鶴来も小さく頷くと、何かに悩んでいた寛人は賀喜への返答にようやく着地点を見つけ出した。
「聞いとく。でも外国って言ったら、お父さんも外国の人だよ。」
鶴来と賀喜の口が軽く開いても、寛人の言葉は終わらない。
「カンボジアっていう国から日本に来たんだよ。」
それは積み上げてきたすべてが崩れる瞬間。目を見張る進展を見せた昨日の告白も瞬く間に霞んでいく。大人達が顔を見合わせた時、インターフォンから男の声が響いた。渦中の人物、総代である。
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