第67話 九日目(9)

文字数 1,989文字

九日前の昼過ぎ。寒気が立ち込める河岸段丘の合間でクリーム色のバスに揺られた勉は、いつもの様にエテヌーロを訪れた。由美子の四十九日を終えて三日。極楽浄土に行った筈の彼女の遺体は、他に親族のない二人が生前に議論を重ねた結果、一本の木の下に眠っている。教団の疑いを晴らすために、警察が永遠の眠りを転寝に終わらせるなど、勉も由美子本人も夢にも思わなかった筈である。
踏む度に細やかな音を立てる落葉を通り過ぎた勉は、何に心を移すこともなく由美子の墓の前に辿り着いた。土の色はとっくに周囲と変わらない。勉は、手にしていた花束を植えたばかりの木の根元に置いた。五本のピンクのバラを飾るガーベラにカスミ草。昨日注文したものが、今朝自宅に届いたのである。
心なしか華やいだ地表を眺めた勉は知らない鳥のさえずりを聞き流し、手も合わさずに歩き出した。向かった先は管理棟の自販機。体の内側から寒さを和らげるためである。
人影はない。悩まずにコーヒーを買った勉は、扉を目指しながらポケットに缶を滑らせ、固い物同士が当たる音を立てた。数日前から持ち歩いている例の薬である。そこにあると完全に忘れる筈はなく、単に利き手の問題。
足を止め、伽藍洞の管理棟に留まった勉は、ポケットからコーヒーを取出すと近くのテーブルに腰を下ろした。由美子の墓の傍らで束の間の暖を取るのではなく、ゆっくりと時間を使うことにした。すべての行動に意味を求める訳ではないが、多分そういうことである。
コーヒーを口に含んだ勉は静かに墓地を眺めた。寒さが厳しいせいか人影はない。管理棟の中にも外にも勉一人。缶にプリントされた文字を目で追った勉は、まだ重い缶を机に置いて鈍い打音を聞くと、改めて缶を持ち上げた。何度かリズムを刻んだが、意味はよく分からない。一切の反応がない世界で勉が確認したのは、自らの孤独だけ。常にぎちぎちと痛む年老いた脳に溜息をついた勉は、目を閉じると温かい缶を薄い唇に寄せた。
椅子に座ったまま、置物の様に目の前の景色を眺める時間。数分、数十分、数時間。空腹は、由美子が死んでからそれ程強くは感じない。沈みゆく太陽のせいで視界のすべてが表情を変え、そして夜。ようやく聞こえた人の声は、閉館時間を伝える館内放送だった。
エテヌーロの閉館時間は遅い。あらゆる環境で働く参拝者を想い、夜の十時まで開いているのである。しかし、今の勉には寛大な筈の閉館時間は逆に鞭になった。この時間まで、誰一人として墓を訪れなかったのである。今日だけが特別という保証はない。
放送を聞きながら机上の缶を手に取った勉は、冷たくなった飲み口を唇に当て、喉にも届かない僅かな液体で口内を湿した。ゴミ箱に空き缶を放って軽い金属音を立てると外へ。
自然はどんなに傷付いた人間にも平等である。由美子がこの世を去り、すべてが老け込んだ勉は、夜の冷え込みに背を丸めた。凍えても歩いても何処かが痛い。何をするにも自由は許されない。霊園の出口を目指す道すがら、勉は照明を浴びる由美子の墓に何度か視線を送った。花に飾られた彼女の墓は他のどの墓よりも美しいが、所詮は勉が飾ったもの。彼の気持ち次第で、永遠ではない。
墓標に違いない若い木々の間を抜け、聳える林の間に足を踏み入れると、光は少しだが減った。短い時間で体の芯まで冷えた勉は、数歩進んで人の話し声を耳にすると徐々に歩幅を狭め、一本の木に身を隠した。話しているのは他の施設を訪れていた誰か、あるいは教団の信者。墓地で見なかったのだから墓参りではない。例え教団の敷地にいても、死者の世界で半日過ごした勉とは違う世界の住人である。笑い声が遠ざかるのを待った勉は、身を寄せていた木を見上げた。太く高いそれは時の流れのシンボル。冷たい樹皮に手を添えた彼が、足元の違和感でプレートを見つけるまでに大した時間はかからなかった。
人の気配とともに照明が一斉に消え、教団の住居から漏れる光がこの世のかたちを教えるすべてになると、勉は光に吸い寄せられる様に元来た道を引き返した。
遥か遠くの電車の音が聞こえるほどの静寂。木から木へと夜を彷徨う勉は、由美子の墓の前で足を止めた。いよいよ暗くなった世界で、花束を包む薄いラップが儚い光を拾っている。
その場にしゃがみ自分の選んだ花を見つめた勉は、ポケットに手を入れると、プラスチックの容器を取出した。由美子が宗祖からもらった洋子の遺品。由美子と一緒に何度か泣いた薬である。
勉は瓶の蓋を開け、口元に運んだ。堪らなく由美子が恋しくなったのか、変わっていく自分が怖くなったのか、自分の居場所を知ったのか、自分の限界を感じたのか。あるいは本能的に喉の渇きを感じたのか。渇きに関して言えば、最後のひとくちがもう少し多ければ感じなかったかもしれない。勉は、死を約束する液体を綺麗に飲み干すと、由美子を包む大地にうずくまった。
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