第20話

文字数 4,848文字

 数日後の晩、蕗子の携帯に父である広志から電話が入った。
 着信の名前を見て、蕗子は固まった。

(何で今頃……)

 躊躇う蕗子の心を無視するように、ベルは鳴り続けている。
 意を決して、ボタンを押した。

「蕗子か……」
 懐かしい父の声が耳の底に響いた。
 だが声の調子からは、その感情は読めなかった。

「どうしてる」
「元気にやっています」

 自分の声が硬く冷たいのを自覚した。

「あいつから聞いてると思うが……」
「あいつ?」
「阿部だ。阿部晴明。蘇芳と離婚する事になった。聞いてるだろう?」

 何なんだ、この父の言い方は。
 無性に腹が立って来る。

「あいつは酷い男だな。自分の浮気を棚に上げて、蘇芳の男関係を興信所に頼んで、男と一緒の写真を不貞と決め付けて離婚を要求してきた。『ここまでするなんて酷い』と蘇芳も泣いてるよ。お前たちは、そうまでして一緒になりたいのか」

 この父は、未だに蕗子と晴明が不倫関係にあると信じ切っているようだ。

「お父さん。私、今まで一度も、そんな事、言ってません。なのに、決めつけてるのはお父さん達じゃない。私の気持ちなんて、全く考えもしてくれない」

「お前は妹が可愛くないのかっ。好きになっても諦めるものだろう、普通は。いいか、よく聞け。蘇芳は離婚する。本人はまだ渋っているが、ほぼ決定だ。私達もその方が良いと思っている。だが、お前とあいつが一緒になるのは反対だ。あんな男は諦めろ。いずれ、お前も蘇芳と同じ目に遭うだけだ。きっぱり諦めるなら、戻って来て構わない。よく、考えるんだな」

 一方的に電話が切れた。

(なんて親なんだろう)

 そう思うばかりだ。
 そっちこそ、もう一人の娘が可愛くないのかと問いたい。

 諦めるなら戻って来て構わないとは、ちゃんちゃら可笑しい。
 頼まれたって戻るものか。
 蕗子は歯ぎしりせんばかりに悔しさがこみ上げてくるのを感じた。
 ひどく侮辱されたものだ。

 だけど、蘇芳はまだ別れるのを躊躇っているのか。それほど晴明に執着するのは、矢張り相手が蕗子だからなのか。
 それとも、諦めきれない程、晴明を愛しているからか。

 だが、それなら何故、他の男と。
 それも一人ではなく、一度や二度ではない。
 モラルに欠けているとは言っても、蕗子には理解できない。

 電話が切れた後、殺風景な部屋の中で、いきなり孤独が襲ってきた。

 本当に何も無い。
 テレビはおろか、箪笥(たんす)も本棚もソファだってテーブルだって、椅子だって無い。
 衣類も本も、みんな其々分けて直接床の上に置いてある。

 ノートパソコンも床の上だ。
 食事をする小卓ですら無い。キッチンには冷蔵庫も置いて無かった。買って無いからだ。もうすぐ夏になると言うのに。

 食材は、その日と翌朝に使う分だけ買い、使い切って残さないようにしている。
 洗濯機もまだ買っていないので、洗濯は手洗いかコインランドリーだった。

 スーツなど、ハンガーに掛けて仕舞う物は、備え付けの収納スペースの上の段に突っ張り棒を付けて、そこに下げるようにした。下の段は寝具だ。

 物が無いと狭い部屋でも広く感じる。
 綺麗サッパリとした感じで、清々した気分だった。

 それなのに、突然、孤独が襲ってきた。
 それと同時に別の感情が溢れるように湧いてきた。

(逢いたい……。声を聞きたい……)

 仕事に追われ、忙しさにかまけて心の隅に追いやっていた彼の存在。

 不意に晴明の匂いが蘇ってきた。
 絵具と薬品の匂い。

 どうしてこんなにも逢いたいと思うのだろう。いきなり湧きだした感情に戸惑う。

 どうして何も言って来てくれないの?

 連絡が無いのを鬱陶しくなくて良いと思っていたのに、いきなりこんな思いに駆られるなんて。
 こんなにも自分は晴明を求めていたのか。愕然とする。

 ノートパソコンが暗くなった。スリープモードに入ったみたいだ。
 仕事を中断していた。父からの電話で。だが今夜はもう続けられそうにない。

――僕の事を想う度に、仕事に手が付かない。図星だよね。
――僕も君の事を想うと仕事に手が付かないんだ。

 彼は、仕事ができているのだろうか。
 蕗子は膝を抱えて泣いた。


 東京が梅雨入り宣言をしたその日の朝、晴明から事務所に電話がかかってきた。

「蕗子さん、お電話です。阿部さんから」

 その瞬間、震えた。涙が出そうになって来て慌てる。
 周囲に不審に思われないよう、精一杯平静を保つ。

「もしもし……。五條です」
「蕗子さん」

 自分の名を呼ぶ晴明の声を聞いて、胸が詰まった。

「ずっと連絡しなくて、申し訳無かった」
「……いえ……」
「昨日、離婚届を提出してきました」
「え、昨日?」

 父から電話があってから十日余り経っていた。
 父の口ぶりではすぐにでも離婚させるような印象だったが、蘇芳が渋っているとの事だったから、その後の展開が予想できなかった。

 蘇芳にとって不利な証拠を持っているとは言え、もし裁判にでもなったら時間がかかっただろう。そこまで至らずに済んだと言う事か。

「逢えませんか?逢って話しがしたい」
「あの……、はい……」

 なんてか細い、情けない声を出すんだろう。自分が愚かしい。

「今夜はどうです?遅くなっても僕は構わない」
「……わかりました」

 今度はハッキリと答えた。
 時間と場所を決めて電話を切った。重荷が一つ無くなって、体が少し軽くなった気がした。これで、二人が逢う事を誰に(とが)められる心配もない。

 午後八時に、事務所の近くで待ち合わせた。晴明が近くまで出てきてくれた。
 事務所を出て、青山通りを渋谷に向かって歩いて間もなく、街路樹の傍でこちらに向かって立っている晴明を見つけた。

 既に向こうが先に見つけたようで、手を挙げている。
 蕗子も軽く手を挙げる。何となく照れ臭かった。
 梅雨入りしたが、雨は朝から降ってはおらず、昼間はジメジメしていたものの、夜の今は若干ヒンヤリしていた。

「久しぶりですね」

 背の高い晴明は見おろすように蕗子を見て微笑した。優しい笑みだった。
 その顔を見て、ここ数日の孤独感が癒されていくのを感じる。障害が無くなって、自分の気持ちがあるべき方向へ動き始めているのか。
 だが何だか照れくさい。思わず俯いた。

「駅の近くに個室で飲み食いできる店があったんで、予約しておきました。そこへ行きましょう」

 歩き出した晴明に蕗子は従った。
 こうして二人連れだって歩くのは池袋以来だ。

 何となく横を歩いている晴明を伺い見る。その横顔を見て蕗子は驚いた。どことなく厳しい表情をしている。
 さっきは優しく微笑んでいたのに。

 思わず凝視しそうになったが、すぐに視線を前へ戻した。
(どうしたの?)
 何かまた問題でも生じたのだろうか。

 案内された店は創作料理の店だった。中へ足を踏み入れた途端、いい匂いが鼻を攻撃してきて急に空腹を感じた。
 調理場を囲んだ広いカウンター席があり、そこと一線を画すように床が二段ほど高くなった場所に個室が幾つも設えてあった。

 出入り口には綺麗な玉すだれが下がっている。その一室に案内された。
 中は四人掛けの若干小ぶりなテーブルが、掘り炬燵のように置かれていた。
 照明は暗めだ。

 座るとすぐに、熱いお手ふきを渡された。
 図面作成ばかりしていたので、手が凝っていた。だから熱いお手ふきは気持ちが良かった。

「何か、飲みますか?アルコール……」

 晴明に問われて、蕗子は頷いた。

「そば茶ハイで」

 晴明も同じ物を頼んだ。
 料理はおススメコースを注文した。

「元気そうで良かった……」

 店員が去った後、晴明は安堵した顔でそう言った。

「あなたは?元気にしていたの?」
「ええ。でないと戦えない」
「じゃぁ……」

 蕗子は逡巡してから言葉を継いだ。

「戦い終えて、今は疲れてますか?」

 蕗子の言葉に晴明は少し驚いたような顔をしたが、すぐに微笑んだ。

「疲れてるように見えるのかな。まぁ確かに、肩の荷が下りて、張り続けていた糸が緩んだとは言えるけど……」

 綺麗な顔に少しだけ翳りが浮かんだが、すぐに消えた。

「ずっと連絡しなくて、悪かったと思ってます。心配したよね」
「あんまり」

 蕗子は笑った。

「お陰で仕事に集中できました。あなたもご存じの通り、コンペが通って、それはもう大忙しなの。あなたとの事で随分と精神がかき乱されてパニック状態だったから、どうなる事かと仕事の方が心配だったけど、良かったわ~」

「酷い事を言うなぁ、君は」
 晴明は呆れたような、困ったような顔をして笑った。

「あなただって、悪かったなんて思ってないんじゃないの?だって、本当にそう思っていたら連絡してきたでしょ?」
「それって、ひょっとして僕を責めてる?」
「まさかぁ~」

 蕗子は満面に笑みを湛えたが、強がっているだけだと思われている事だろう。
 晴明がふぅと溜息まじりに息を吐いた所で、飲み物と料理が運ばれてきたので、暫く会話は中断した。

「ああ、そうそう。スマホを買ったんだよ。今日ね。番号を交換させてくれないかな」

 晴明がそう言って懐から出した携帯を見て、蕗子は「あっ」と驚いた。

「それ……」
「うん……」

 晴明は頷いただけで、操作している。蕗子もドキドキしながらバックから取りだした。
 同じ機種、同じ色。

「無いとやっぱり不便なんで、今日買いに行ったんだ。そしたらさ。偶然同じのがあったの。おまけに安かった」

 照れくさそうに笑っている。

「偶然だよ、偶然。故意じゃないから」

 弁解している。なんだか可愛い。
 男のこういう姿って胸をくすぐられるものなんだな、と新しい発見をしたような気持ちになった。
 晴明は番号を交換したら、そそくさとスマホをしまった。

「どうして今なの?大学での仕事もあるんだし、あった方が便利だったのに」
「確かにそうだね。向こうでは使ってたから、帰国したら買い替えるつもりだったんだ。最初はね。でも、君と出会って考えを変えた」

 晴明の雰囲気が少し暗くなったように感じた。

「どうして?」
「君を好きになってしまったから、蘇芳と別れたいって切に思った。そうしたら、携帯は持たないでいた方が得策だって考えた」
「ごめんなさい。よく分からないんだけど」

 晴明は僅かに口角を上げた。

「携帯を持ったら、蘇芳がしょっちゅう連絡してくる。一日に何度も。それから帰宅すると僕の携帯をチェックする。自分は束縛を嫌う癖に、相手は束縛するんだよ。もしかしたら、自分が平気で浮気してるから、僕もしてるんじゃないかと疑ってたのかもしれない。携帯の電話帳に登録している名簿を開いて、女性名を見つけては相手を確認してたよ」

「ええ?そんな事まで?」

 人の携帯をチェックするなんて、蕗子からしたら信じられない行為だった。
 世間的にはよく聞く話しだが、まさか自分の妹がそういう人間だったとは思ってもみなかった。

「僕には女性の顧客も多くてね。みんな金持ちのマダムなんで、誘惑でもされてるんじゃないかって心配してたみたいだ。だから日本に帰る事になった時には大喜びしてたよ」

 自嘲気味な笑みを浮かべていた。

「君を好きになってなければ、携帯を買い換えても問題は無かった。別に見られて困るわけでは無かったから。だけど、君を好きになってしまったから、持ったら逆に危険だ。持っていたら、きっと僕は君の声が聞きたくなって、我慢できずに電話しただろうし、ラインやメールだってしたに違いない。深い仲にならなくても、それだけでも不利になるし君にももっと迷惑をかける事になってただろう。だから、敢えて持たなかったんだ」

「そっか……」
 答えようも無くて、そっけなくそう言うと蕗子は料理をつまんで、そば茶ハイに口を付けた。理由はよく分かった。
 分かったがここまで聞かされると少々切なくなってくる。それに、胸が熱い。
 話題を変える事にした。

「あの……、それで話し変わるけど、蘇芳との事。どんな風になったのか、教えて貰えないかしら」

「ああ……、そうだね。何よりそれが本題だったんだ」

 晴明は箸を置くと、話し始めた。
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