第38話

文字数 5,930文字

 十歳で父親が舞妓と心中した後、紗枝さんと里美は大変な思いをしたようだ。

 金銭的には問題はなかったらしい。離婚してないから、行人の遺産を継いだしね。
 だが世間の目が厳しかった。

 本当なら、一番の被害者なのに。
 それから五年後、紗枝さんは再婚したんだ。働いていた文房具会社の専務とね。
 それで、苗字が倉山から向坂に変わった。

 紗枝さんが再婚していなかったら、もしくは、里美が倉山姓のままだったら、きっとすぐに行人の娘と知って、僕たちが異母兄妹であることが分かっただろうにね。

 その当時僕は、自分が倉山行人の息子である事を知っていたんだ。
 大学に入って美術史を勉強している時に、行人の存在を知った。
 最初は気付かなかったけど、行人の絵には、独特の毒々しさと言うか、禍々しさがあって、それが僕を惹きつけた。

 図書館で彼の画集を借りてきて、家で観ていたら母が真っ青になってね。泣きそうな顔になったんだ。
 それを見て、行人の自殺を報じた新聞を見て泣いていた母を思い出した。
 それで問い詰めたんだ。今にして思えば、母には悪い事をしたと思ってる。

 それからの僕は行人を否定して生きるようになった。
 だから、本当に、もっと早くに分かっていればって思ったよ。
 僕たちを捨てた後の行人の人生に興味はあったものの、それを調べるのは母に悪いと思ったからしなかった。だから、里美の存在は知らなかったんだ。

 愛し合い、求め合い、埋め合って、生涯の伴侶はこの人しかいないと互いに思った。

 里美はね。美大に入ると同時に一人暮らしをしていてね。
 親と疎遠になってた。

 紗枝さんの再婚相手はDV男だったんだ。普段は優しいのに、些細な事で突然豹変する。
 連れ子なのに結婚してやったんだと、事あるごとに紗枝さんを殴ったり蹴ったりし、感情がおさまると、さめざめと泣いて赦しを請う。自分がつけた傷を丁寧に手当するそうだ。

 そういう姿を十五歳の時から見せつけられて、そのうちに、義父の目が里美に向くようになった。
 男の目で見られている事に気付いて、自分の部屋に鍵を付けた。
 案の定、夜更けになって、そっとドアノブを回される気配に目が覚めて、ゾッとしたと言っていた。鍵を付けておいて良かったと。

 鍵を付けた事について、何も言われなかったけど、時々、夜更けにドアノブが回される。掛け忘れでも期待していたのかもしれない。

 冬場、家族でコタツに入っていると、足や手が伸びて来て、里美の足に触れて来る。
 スカートだったら、裾の中に入れて来るらしい。
 慌てて足蹴を喰らわせると、厭らしい笑みを浮かべて行為を止めるが、暫くするとまた始まる。

 何かにつけ、性的な嫌がらせを受け、油断したらレイプされるんじゃないかって恐怖が常に付きまとってたと言っていた。
 だから、大学は東京にする事に決めたって。

 義父は反対したらしい。家から通える場所にしろ、と。
 お母さんの紗枝さんも、夫の手前、反対したそうだ。
 逆らえないんだよ、向坂さんに。それでも強引に上京したんだ。

 そういう事があったから、彼女も天涯孤独のようなものだった。
 ただ一人で、都会の空の下、突っ張って生きてたんだ。

 行人の奔放な生き方と壮絶な死にざまを子供の時に体験し、思春期の多感な時に母親と再婚相手の異様な結婚生活を見させられ、尚且つ、その義父に性的対象として見られていた事で、里美は男性不信になってた。

 自分は一生誰も好きにはならないし、結婚もしない。
 陶芸の道に生きると決めていた。
 だから、まさか自分が恋に落ちるとは想像もしてないかった。

「私にはあなたしかいない」って言われたよ。
 僕も、彼女を守り愛し続けられるのは自分しかいないと思った。

 里美はお母さんの紗枝さんに報告した。好きな人ができたから結婚したいと。
 ちょうど里美の二度目の個展が開催されたんで、お母さんが上京してきて、紹介された。
 僕たちは既に一緒に暮らしてた。
 里美が借りていたアパートに僕が転がり込んだんだけどね。

 初台の家の方が広いし、借りる必要も無いのに、何故里美のアパートだったかと言えば、里美が初台の家を嫌がったからだ。
 里美が開いていた陶芸教室から遠いと言う事も一因かもしれないけど、それ以上の理由は分からない。

 僕たちが住むアパートを訪ねて来た紗枝さんは、僕たちの結婚を賛成してくれた。喜んでくれたよ。
 自分の結婚が恵まれて無かったからなんだろうけど、里美の幸せそうな顔を見て嬉しそうにしてた。

 だけど、僕の名前を聞いた時、一瞬、変な顔をした。多分、阿部って苗字に聞き覚えがあったんだろう。
 僕の母の旧姓を知っていたんだろうと思うけど、阿部なんてどこにでもある名前だからね。その時は偶然の一致だろうと思ったみたいだ。

「ご両親は?」と聞かれたから、二人とも死んでいませんと答えた。
 事実だからね。だから、僕の方では、特に結婚の許しを得なければならない家族はいないから、安心して下さいって言ったよ。

 僕と里美はね。幸か不幸か、二人して母親似だった。
 父親が行人だと言われて、行人の面影を探してみれば多少はあるんだよ。
 親子と言われて、初めて、そう言われれば少し似てるかも……ってタイプだね。

 紗枝さんは、ジッと僕の顔を見つめてた。食い入るように。
 探していたのかもしれない、行人の面影を。

 紗枝さんが帰郷して、二週間か三週間経った頃、疎遠だった僕の叔母が大学まで訪ねて来たんだ。
「今付き合ってる女性がいると聞いたけど、その娘さんとは別れなさい」って言うんだ。

 母が亡くなった葬儀の時を最後に、何年も会って無い、音信不通でもあった叔母がいきなり来て、そんな事を言う。
 驚いたよ。
 何の権利があってそんな事を言うのかって叔母に対して怒鳴った。

 悪い事は言わないから、それがあなたの為だから、相手の娘さんの為でもあるんだからって。理由を訊ねても嫌そうな顔をするだけで言わない。

 そんな事を言われて納得できるわけがない。絶対に駄目だの一点張りだ。
 もう僕らは子供じゃない。誰の了解を得なくとも結婚できるんだ。

 憤懣やるかたない思いでアパートに帰ったら、里美が泣いていた。
 紗枝さんから、結婚してはいけないと電話があったと言うんだ。

 僕は思ったよ。これは、僕の実家の連中の差し金だって。
 何が気に入らないのかは知らないが、向坂家と縁つづきになるのが嫌だから、紗枝さんにも圧力をかけたに違いないってね。

 里美は「何があっても絶対に別れない。一緒になる」って言った。
 僕も同じ気持ちだった。お互いに、相手がいない人生なんて、もう考えられなくなっていた。

 あまりに頑固な僕たちに業を煮やしたんだろうね。
 紗枝さんが再び上京してきて、僕たちに真実を告げた。

 あなたたちが、それ程までに強く惹かれあったのは、血が繋がった兄妹だからだって。
 お互いが、失くした半身を得たように思えるんだろうって。
 辛いのは当然だし、よくわかるけど諦めるしかないって。

 夫婦であれば、上手くいかなくて別れる事もあるが、兄妹ならば何があっても縁が切れる事は無い。一生助け合って生きていけるんだから、逆に良かったじゃないかって最後には言われてね。

 この人は、何を寝ぼけた事を言ってるんだって思ったよ。正直、憎かった。
 あんたが再婚しなければ、もしくは里美だけでも父親の姓のままでいれば、って心の中で叫んでた。

 でも、そんな事をした所で無駄だ。事実は変わらないんだ。
 僕たちは愛し合ってしまった。兄妹でありながら。そうとは知らなかったとは言え。

 二人とも、絶望した。
 何日も互いに口をきかないまま、ただ泣き暮らした。

 確かに、こんなにも惹かれあうのは、血が呼び合ったのかもしれない。
 そう思ったけど、別れたくない気持ちも強かった。
 それも、血の為せるわざだったのか……。
 僕はどうしたら良いのか分からなかった。最初に口を開いたのは里美だ。

「ごめんなさい。あなたからお父さんを奪って」そう言った。
 彼女は自分の母親が最初は愛人だった事を知らなかったんだ。
 自分達の前に、行人に妻と子供がいた事も。
 だけど里美が謝るような事じゃない。それでも、彼女は罪の意識を感じていた。

 もし、紗枝さんの存在が無かったとしても、いずれ僕たちは捨てられていたんだ。
 紗枝さんと里美のようにね。だから、その事で里美が罪の意識を感じる事は無いし、紗枝さんに対しても同じように思ってる。

 それよりも、これからの事だ。僕たちはどうしたらいいんだ。
 兄妹だと知ったからと言って、はいそうですか、と簡単に諦めがつくような間柄じゃない。
 だけど、既に男女の結びつきを持ってしまっている事に対する、背徳感が生まれていた。

 知らなかった事とは言え、恐怖を感じたよ。
 でもこういう時、女性の方が強いのかな。それとも、里美だったからなのか。

……里美は「やっぱり別れたくない。別れられない」って射るような眼差しで僕に言った。
 僕は正直、臆した。妹だと知って、突然愛が冷めたわけではない。
 愛しているのは変わらない。それでも、やっぱり怖かったんだ。

 だからと言って、別れるなんていうのも無理だった。況してや、これからは兄妹として接して付き合って行こうなんてのは到底考えられない。

 里美は言ったよ。
「何があっても別れないって私たち言いました。その気持ちは今でも変わらない。別れられないのなら、一緒に生きていくしかない。今までのように」って。

 怖くは無いのか訊いた。里美は怖くなんかないって言うんだ。怖いのはこの愛を失う事だって。
 それを聞いた時、僕も同じ気持ちなんだって事が分かったよ。
 それからは、狂ったように愛し合った。ただ、子供は絶対に作らないと約束した。子供だけは駄目だ。

 アパートを引き払って、ここへ越してきた。
 ここは里美の陶芸の師匠の伝手(つて)で、使われなくなった工房だったんで、譲って貰ったんだ。

 全てを忘れて、ただ愛だけを見つめて、二人でここで新生活をスタートさせた。
 殆ど、自給自足の生活だった。彼女は土をこねるのが好きだから農作業も楽しそうにやってた。僕も、空気が澄んで自然の豊かなここで絵を描くのは、心が洗われる思いだった。

 彼女も僕も、親から受け継いだ財産があるから、贅沢さえしなければ会社勤めをしなくても生活はできた。
 足りないものだけ、街へ買いに出るくらいで、殆どここで、ひっそりと二人の時間を生きていた。

 だけど、時々ふっと自分が生きているこの時間に疑問を抱く時があったんだ。
 互いが兄妹である事を忘れたように愛し合っていたけれど、それは単なる誤魔化しに過ぎなくて、無意識のうちに罪の意識が、日々溜まっている。
 それはほんの塵くらいなんだと思うけど、確実に積もっていってる気がした。

 そんな僕を見る里美は、寂しそうだった。そして、そんな里美を見て僕は罪悪感を感じながら、自分に言い聞かせてた。
 もう決めたんだ。絶対に後悔なんてしてないし、これからだってしないんだって。

 ……ここに越してきて、一年半が過ぎた頃だったな。
 二度目の秋を迎えた時期で、凄く寒い朝だった。
 三寒四温って冬の現象だけど、ここら辺では、秋からそうなんだ。

 その日の朝は酷く冷え込んでね。
 霜が凍結してたんだ。そんな道路状況をよく知らない観光客が運転した車がスリップしてね。
 里美が運転していた車に衝突したんだ。

 こちらは上りで、向こうは下り坂だった。
 かなりスピードが出てたみたいで、里美は肺をやられてね。病院に着いてから一時間ほどで息を引き取ったんだ。

 僕は唖然とした。何もかもが信じられなかった。
 どうして、こんな目に遭わなきゃいけないんだって思った。
 兄妹と知りながら、夫婦として暮らした二人に対する天罰が下ったのか?

 だけどそれなら、何故最初から、兄妹なのに愛し合うような運命を与えたんだ。
 神のいたずら?神の試練?
 そんなの、人間の勝手な妄想だ。
 本当に神がいるのだとしたら、そんな事をするだろうか?
 するんだとしたら、そんなのは神じゃ無くて悪魔だ。

 何が何だか分からないまま、里美との人生が終わってしまった。
 里美の人生が終わった時に、僕の人生も終わったと思ったよ。

 それなのに、なぜ生きているんだろう。
 僕も彼女を追いかけて死ぬべきなんじゃないのか。

 暫くここで、悶々と暮らしてた。
 暮らしてたと言っても、ろくな暮らしじゃなかったけどね。
 里美と暮らしているうちに、この辺の人達と少しは繋がりができて、その人達が僕を心配して時々世話をしてくれていた。

 だから僕は生かされていたんだ。

 夏でも夜は冷えるけど、秋の夜となったら、もう冬と変わらないよ。
 ずっと空を見ながら、このまま凍死してもいいかもしれないって思った。
 あまりにも綺麗な星空で、魅入っているうちに死ねるんじゃないかって。
 それほど、吸いこまれるような星空だった。

 やがて月が昇って来て、星が動いて行く。
 目の隅に木々の枝が揺れるのが映って、なんだか分からないけど、僕はその夜の光景を絵に描きたくなったんだ。
 そう思ったら、矢も盾もたまらない気持ちになって、アトリエに駆け込んだ。

 まだ君に見せていないアトリエだけど、凄く良く空が見えるんだ。
 見晴らしが良くてね。風景を描くには絶好なんだ。だから、当然、夜も見晴らしがいい。

 夢中になって描いたよ。毎晩、毎晩……。
 何かがね。そこにいるような気がしてならなかった。里美がそこから見てるのかもしれない、とも思った。

 一方で、僕と出逢ってしまったが為に、不幸で短い人生になってしまったとも思えて、気付くと涙が流れてた。

 僕たちは、最初から兄妹として出逢っていたなら、きっと互いに良き理解者として、其々の道で充実した人生を歩けていたかもしれない。
 そう思うと、運命の全てを呪いたくなった。

 でも、全て済んでしまった事だ。
 考えれば考えるほど、虚しくなる。そんな虚無を抱えたまま、ただ描くだけの毎日を僕は過ごしてきたんだ。

 心配した友人が訪ねて来てね。アメリカ行きを勧めてくれた。
 大学の恩師にも勧められて、それでアメリカへ行ったんだ。
 日本とまるで違う文化と社会の中に入って、日本みたいに要らぬお節介をやいてくる人間もいなくて、僕の心は大分落ち着いた。

 もう、人生の何も考えず、将来の事もまるで考えずに、ただ今を生きるだけとなった。
 或る日、セントラルパークの中で凍死しててもいいし、ストリートで銃に撃たれて死んでも構わない。
 そんな思いで生きてたんだ……。
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