第31話
文字数 5,609文字
リビングに戻ると、テーブルに朝食の支度がしてあった。
いい匂いに一気に空腹感が湧いてきた。
「さっぱりしたようだね」
「おかげさまで」
「じゃぁ、食べようか」
晴明に促されて、揃って「いただきます」と手を合わせた。
トーストにベーコンエッグ、サラダにスープの簡単な朝食だったが、何と言ってもサラダが旨かった。野菜が新鮮で都会の野菜より野菜らしいと思った。
「野菜が凄く美味しいのね」
思わず蕗子が言うと、晴明は軽く微笑んだ。
「地元の野菜だからね。毎朝、採りたてを持ってきてくれるんだ。ついでにパンもね」
「ええー?本当?凄い。なんか羨ましいかも」
毎朝、こんな新鮮な野菜が食べれるなんて、本当に羨ましい。
おまけにパンまで届けてくれるなんて。
「それって、男所帯だからって事もあるの?」
蕗子の問いに晴明は首を横に振った。
「お願いしておけば、どこでも持ってきてくれる」
「それって、まるで生協の宅配みたい。生産者直通の」
蕗子の家では母が生協の宅配を頼んでいた。
それでも、距離からすれば、ここには劣る。
「うーん……。ちょっと違うと思うけど、まぁ、似たようなものか」
あっと言う間に平らげて、ホットミルクに口を付けると、こちらも濃くて旨かった。
「スーツ、あとでクリーニングに出しとくよ」
晴明の言葉に、蕗子は顔を上げた。
食事中、ずっと故意に彼の顔を見ないようにしていた。
見上げてみると、顔色が悪い印象だった。表情は相変わらず硬い。
「あ、いい。出さなくて。帰るから」
「えっ?」
「ごちそうさまでした。美味しかった」
蕗子は立ち上がってソファの所まで移動した。バックと一緒に着て来たスーツが置いてある。不本意ではあるが、仕方が無い。どうせ車だ。
だが、どうするか。取り敢えず部屋へは直行せずに、また渋谷のビジネスホテルでも行くか。渋谷には古着屋も沢山あるし、適当に調達し、今後の事を考えるしかないだろう。
「蕗子さん」
蕗子はその声を無視して、服を持ち、着替えの為にまた洗面所へ行こうと足を踏み出した。
「蕗子さん」
晴明がドアの前に立ち、蕗子の行く手を遮った。心なしか表情が怖い。
「ごめんなさい。着替えたいの」
蕗子は平静を保つように、無表情を装った。
「どうして……、ここへ来た?」
低く呟くような声だった。
眼が暗い。底なし沼のように。
蕗子は胸が締め付けられるのを感じたが、わざと笑顔を作った。
「ごめんなさい。勝手に来ちゃって。だから、帰るわ」
ドアを塞ぐように立つ晴明を押し避けるようにドアノブに伸ばした蕗子の手を、晴明が掴んだ。
蕗子は思わず晴明を睨みつけたが、すぐに怯んだ。
晴明の顔が、悲しみに満ちて歪んでいたからだ。
晴明は蕗子の手を掴んだまま、ソファまで引っ張るように歩き、蕗子をソファに投げつけるように座らせて、自分もその横に腰を下ろした。
「どうして来た」
怖い顔で訊いてくる。
「だから、ごめんなさいって言ってるじゃない。帰るわよ。その方が良さそうだから」
「そんな事は訊いてない。どうして来たか訊いている」
ドスの利いたような低い声に、蕗子は震えた。何も言えない。
何と言ったら良いのか分からない。首を横にひたすら振った。振りながら、着ているジャージから晴明の匂いが立ち上ってくるような感じがした。
微かに残る絵具の匂いが。そして、目の前の人からも。
「蕗子さん……」
「分からないわ。私にも分からないの。気付いたら来てた。それだけよ。そう言わなかった?どうして、どうしてってあなたは訊くけど、私の方こそ、どうして?って訊きたいわ。どうしてずっと、何の連絡もくれなかったの?」
蕗子は込み上げそうになる涙を堪えながら、晴明をそっと見た。
晴明は悲しそうな顔をしていた。
蕗子の視線を受けて、そっと視線を外した。
こうして間近で見ると、心なしか眼の下に隈 らしきものが伺える。
(やつれた?)
そう感じた。
「ねぇ、どうしてなの?人に訊いてばかりいないで、答えてよ」
蕗子の問いかけに、晴明は視線を戻した。
「僕は……、こうなる事を恐れてた。それでも、突き進まずにはいられなかったんだ。それほど君を……」
晴明は切なそうに蕗子を見ると、手を伸ばして自分の体に引き寄せて抱きしめた。
蕗子は、やっと抱きしめて貰えて喜びが湧いてくる一方で、自分の中に生まれてしまった疑惑が、自分の心の上に重石となっている事をハッキリと感じていた。
それこそ、「どうして」が付きまとう。
今、そんな事を言われて抱きしめられても、昨日の電話の対応からずっと続いている、硬くて冷たい態度が理解できない。
何故今更、こんな事を?
この人はもしかして、二重人格?
過去の出来事のせいで、精神がすっかり崩壊しているのではないか。
こんな風にコロコロと態度が変わられると、素直には喜べないし、不信感が募るばかりだ。
「蕗子さん」
晴明は抱きしめる手を緩めると、蕗子の瞳の奥を探るようにジッと見た。
暗くて悲しいが、何かを求めているようにも感じる。
「蕗子さん、君は本当に、どうしてここにいるんだ?君は、僕を……拒絶したんじゃなかったのか?」
「えっ?」
思いがけない晴明の言葉に、蕗子は驚き戸惑った。
「どういう意味?私、あなたを拒絶した?……拒絶したって言うなら、私は最初から拒絶してたわよ?だって、あなたは蘇芳の夫だったんだから。それなのに……、それなのに……。私ったら馬鹿みたいだわ。私は本当は、あなたの事なんか好きじゃないのかも。あなたがあまりにしつこく愛を語るから、うっかりそうなのかも、なんて思うようになっちゃって。馬鹿よね。妹や親まで敵に回して。そのせいで、お父さんは私を……、私を……」
蕗子は急に恐怖が蘇ってきて、顔を歪めた。
いつの間にか、涙が頬を濡らしていた。
あまりの蕗子の恐怖に満ちた顔を見て、晴明は尋常ならざるものを感じたようだ。
蕗子の両肩を掴んで揺すった。
「蕗子さん、どうした?何かあったのか?いや、君は、お父さんから聞いたんだろう?僕の事を……」
蕗子は涙で濡れた目で晴明を見た。晴明の顔も恐怖で歪んでいる。
そうか。この人はそれを気にしているんだ。当然と言えば当然だろう。
何よりその事が二人の間に横たわり、二人の仲を邪魔しているんだ。
「あなたが連絡をくれなかったのは、お父さんのせいなのね?」
全てが分かった気がした。
「お父さんから、あなたと亡くなった人の事は聞いたわ。その事をあなたにも封書で送ったって言ってた。その中に、私がショックを受けて、あなたを拒絶しているような事でも書いてあったの?」
晴明は頷いた。
「あなたは、それを信じたのね」
蕗子は悲しかった。
「普通に考えれば……。お父さんの言う事は尤もだよ。当たり前の反応だと思う」
「そうかもね……。でも、どうして直接、確かめてくれなかったの?」
晴明は驚愕したように、目を見開いた。
「君は、平気なのか?平気なわけが無いよな?傷つけてしまった事に負い目を感じたし、軽蔑されても当たり前だ。それをわざわざ君の口から言われたら、僕はもう、立ち直れないと思った……」
そうだったのか……。
それは確かに、そうなのかもしれない。
「蘇芳の素行調査の結果を提示した時、自分達の事を調べて貰っても構わないとお父さんに言ったが、一抹の不安はあったんだ。僕たち二人の事だけだったなら、なんら疾しい事は無い。だけど事が過去に及んだら……。そんな危惧が湧いた。それでも僕は、君を愛する事をやめられなかった」
だが一方で、もし知られたら、と思うと恐怖心が湧いてきた。
離婚が成立して、やっと誰に遠慮する事なく愛せると言うのに、その恐怖心が自分を責め立る。
「知られたら軽蔑される。こんな僕に愛された自分を呪うようになるんじゃないかって、そう思った。……君は潔癖症なくらい高潔だから」
やっと得心がいった。
離婚が成立したと言うのに、それまでの強引な印象から遠慮がちな印象に変わった事に違和感を覚えていた。
矢張りこうなる事を恐れていたんだ、ずっと。
「蘇芳は、僕との事を酷く後悔したんじゃないか?僕と交わった自分を呪ったんじゃないのか?」
蕗子は視線を伏せた。彼の言う通りだったが、それを肯定できない。
だが否定しない以上、肯定したも同然だ。
「あっ!」
蘇芳の名前が出てきて、蕗子はいきなり思い出した。
夕べ帰宅した時に、マンションのポストの中にあった、エアメール。
あれだけ罵声を浴びせていったのに、なぜ手紙を?
追いうちでもかけようと言うのか?
それとも、少しは反省したか。
部屋に入ったら読もうと、その場でバックへしまったのだが、その後の事ですっかり忘れていた。思い出したら気になって仕方が無い。
もともと、早く読みたくて急いで部屋へ戻ったのだから。
「ちょっと、ごめんなさい」
蕗子はソファの周囲を見回して、下に落ちていたバックを拾うと、中を開けて手紙を取り出した。
蕗子が手にした手紙がエアメールである事に、晴明も驚いた顔をした。
「何だい、それは?」
「蘇芳からよ。彼女がアメリカへ行った事は、聞いてるわよね?」
晴明は神妙な面持ちで頷いた。
「気になってしかたないから、ちょっと読ませてね」
蕗子は晴明に断って、エアメールの封を切った。
『お姉ちゃん。私は無事にアメリカに到着しました。
こっちに来てみて、改めて自分はこちらの水の方が合うような気がしてならないの。
自分を解放できて気持ちいい感じとでも言ったらいいのかな。
ところで、こうして手紙を書いているのは、お姉ちゃんに謝る為ではなく、忠告しておいた方が良いと思っての事だから、誤解しないでね。
長年、五條家は平和にやってきたけれど、本当の所では実は違うんだって事は、薄々気付いていたと思うし、今となっては、それが顕実化しちゃったけど、どうしてなのかってお姉ちゃんは考えた事がある?
多分、ずっと謎には思っていたんだろうけど、お姉ちゃんはいつだって現実を見ようとはせず、 何か薄い膜越しに見てるように私には感じてた。
だから疑問に思っても、その答えはずっと分からずにきたんだろうし、今だって分かってないよね。
その答えを教えてあげる。
私はずっと感じてた。
お父さん達がお姉ちゃんよりも私を猫っかわいがりして、お姉ちゃんには、どこかよそよそしい理由を。
知ったらきっと、驚くよ。ショックを受けると思う。
その理由はね。お父さんにあります。
お父さんは、お姉ちゃんが好きなんだ。
ものすごーく好きで好きでたまらないの。
そう言ったら、疑問に思うでしょ。
なら、どうして私ばかりがひいきされてたのか。
それはお父さんの愛情の裏返し。
私の事は、本当に自慢の自分の娘として溺愛してたけど、お姉ちゃんの事はね。違うのよ。
お父さんにとって、お姉ちゃんは女なの。
お父さんはお姉ちゃんを女として見てた。
私がおかしいなって気付いたのは幼稚園に入った頃かな。
自分を見る目とお姉ちゃんを見る目が違うって。
最初は、自分の方が好かれてるんだって思ってた。
でも、違うの。お姉ちゃんは全然気付いて無かったけど、お姉ちゃんに会う度に、お父さんはこっそりとお姉ちゃんを異様な目つきで見てた。
でも、お父さん、単身赴任ばっかりで留守がちだったでしょ。
だから、それがどういう事なのか、見る機会が少ない事もあってよく分からなかったけど、本店勤務になって、ずっと一緒に暮らすようになってから、はっきりと分かった。
私自身、男を知るのが早かったから、余計によく分かった。
男の目で女を見てるって。
お母さんも、その事に早くから気付いてたんだと思う。
だから、お母さんも、お姉ちゃんに対してどことなく
冷たかったんだよ。
思い返してみると、お父さんが留守にしている時よりも、帰って来てる時の方が、態度が冷たかった。
そう思わない?
母親もね。女なんだよね。自分の娘なのに、自分の夫を奪いかねない敵として見るんだよ。
だから、お姉ちゃんが出ていった時、お母さんは晴れ晴れとした顔をしてた。
お父さんは逆に、凄い失望した顔してたよ。
だから、お父さんは凄くお姉ちゃんに執着してる。
お父さんはお姉ちゃんを表面上は冷遇しながらも、ずっと自分のそばに置いておきたかった。
誰とも結婚させたくなかったみたい。
だから、仕事の虫であることを喜んでた。
お姉ちゃんの過去の男達もね。
誘惑したのは私の意志でした事だけど、男たちの情報を、何気なく私に教えて来てたんだよ、お父さんが。
「また蕗子に彼氏ができたようだ。あいつも懲りないな。何度捨てられてるんだ」って、また誘惑しろと言わんばかりに。
私が楽しんで誘惑してたのは、誰よりお父さんが一番好きなのは、自分じゃなくてお姉ちゃんなんだと知った時から、ずっとお姉ちゃんに嫉妬してたから。
お父さんが望む事をして、お父さんが喜んで、お姉ちゃんが悲しむのを見れたら最高だった。
でも悔しい事に、お姉ちゃんは悲しまないんだ。
今はもう、晴明の事を知って、悲しんでいる筈。
いい気味だ。人の気持ちも知らないで、いつもシレっと自分の道を歩いてるお姉ちゃん。
お姉ちゃんが晴明の事を知って、それからどうするのか興味があるけど、お父さんは激怒してる。
首に縄を付けてでも、家に連れ帰るって気炎吐いてたよ。
それに、目がギラついてて、正直気持ち悪かった。
今のお父さん、何をするか分からない感じ。
気をつけた方がいいよ。それが忠告です。
私は、結局、五條家を壊したのは、お父さんの暗い情念のせいだと思っています。
じゃあね。 蘇芳 』
いい匂いに一気に空腹感が湧いてきた。
「さっぱりしたようだね」
「おかげさまで」
「じゃぁ、食べようか」
晴明に促されて、揃って「いただきます」と手を合わせた。
トーストにベーコンエッグ、サラダにスープの簡単な朝食だったが、何と言ってもサラダが旨かった。野菜が新鮮で都会の野菜より野菜らしいと思った。
「野菜が凄く美味しいのね」
思わず蕗子が言うと、晴明は軽く微笑んだ。
「地元の野菜だからね。毎朝、採りたてを持ってきてくれるんだ。ついでにパンもね」
「ええー?本当?凄い。なんか羨ましいかも」
毎朝、こんな新鮮な野菜が食べれるなんて、本当に羨ましい。
おまけにパンまで届けてくれるなんて。
「それって、男所帯だからって事もあるの?」
蕗子の問いに晴明は首を横に振った。
「お願いしておけば、どこでも持ってきてくれる」
「それって、まるで生協の宅配みたい。生産者直通の」
蕗子の家では母が生協の宅配を頼んでいた。
それでも、距離からすれば、ここには劣る。
「うーん……。ちょっと違うと思うけど、まぁ、似たようなものか」
あっと言う間に平らげて、ホットミルクに口を付けると、こちらも濃くて旨かった。
「スーツ、あとでクリーニングに出しとくよ」
晴明の言葉に、蕗子は顔を上げた。
食事中、ずっと故意に彼の顔を見ないようにしていた。
見上げてみると、顔色が悪い印象だった。表情は相変わらず硬い。
「あ、いい。出さなくて。帰るから」
「えっ?」
「ごちそうさまでした。美味しかった」
蕗子は立ち上がってソファの所まで移動した。バックと一緒に着て来たスーツが置いてある。不本意ではあるが、仕方が無い。どうせ車だ。
だが、どうするか。取り敢えず部屋へは直行せずに、また渋谷のビジネスホテルでも行くか。渋谷には古着屋も沢山あるし、適当に調達し、今後の事を考えるしかないだろう。
「蕗子さん」
蕗子はその声を無視して、服を持ち、着替えの為にまた洗面所へ行こうと足を踏み出した。
「蕗子さん」
晴明がドアの前に立ち、蕗子の行く手を遮った。心なしか表情が怖い。
「ごめんなさい。着替えたいの」
蕗子は平静を保つように、無表情を装った。
「どうして……、ここへ来た?」
低く呟くような声だった。
眼が暗い。底なし沼のように。
蕗子は胸が締め付けられるのを感じたが、わざと笑顔を作った。
「ごめんなさい。勝手に来ちゃって。だから、帰るわ」
ドアを塞ぐように立つ晴明を押し避けるようにドアノブに伸ばした蕗子の手を、晴明が掴んだ。
蕗子は思わず晴明を睨みつけたが、すぐに怯んだ。
晴明の顔が、悲しみに満ちて歪んでいたからだ。
晴明は蕗子の手を掴んだまま、ソファまで引っ張るように歩き、蕗子をソファに投げつけるように座らせて、自分もその横に腰を下ろした。
「どうして来た」
怖い顔で訊いてくる。
「だから、ごめんなさいって言ってるじゃない。帰るわよ。その方が良さそうだから」
「そんな事は訊いてない。どうして来たか訊いている」
ドスの利いたような低い声に、蕗子は震えた。何も言えない。
何と言ったら良いのか分からない。首を横にひたすら振った。振りながら、着ているジャージから晴明の匂いが立ち上ってくるような感じがした。
微かに残る絵具の匂いが。そして、目の前の人からも。
「蕗子さん……」
「分からないわ。私にも分からないの。気付いたら来てた。それだけよ。そう言わなかった?どうして、どうしてってあなたは訊くけど、私の方こそ、どうして?って訊きたいわ。どうしてずっと、何の連絡もくれなかったの?」
蕗子は込み上げそうになる涙を堪えながら、晴明をそっと見た。
晴明は悲しそうな顔をしていた。
蕗子の視線を受けて、そっと視線を外した。
こうして間近で見ると、心なしか眼の下に
(やつれた?)
そう感じた。
「ねぇ、どうしてなの?人に訊いてばかりいないで、答えてよ」
蕗子の問いかけに、晴明は視線を戻した。
「僕は……、こうなる事を恐れてた。それでも、突き進まずにはいられなかったんだ。それほど君を……」
晴明は切なそうに蕗子を見ると、手を伸ばして自分の体に引き寄せて抱きしめた。
蕗子は、やっと抱きしめて貰えて喜びが湧いてくる一方で、自分の中に生まれてしまった疑惑が、自分の心の上に重石となっている事をハッキリと感じていた。
それこそ、「どうして」が付きまとう。
今、そんな事を言われて抱きしめられても、昨日の電話の対応からずっと続いている、硬くて冷たい態度が理解できない。
何故今更、こんな事を?
この人はもしかして、二重人格?
過去の出来事のせいで、精神がすっかり崩壊しているのではないか。
こんな風にコロコロと態度が変わられると、素直には喜べないし、不信感が募るばかりだ。
「蕗子さん」
晴明は抱きしめる手を緩めると、蕗子の瞳の奥を探るようにジッと見た。
暗くて悲しいが、何かを求めているようにも感じる。
「蕗子さん、君は本当に、どうしてここにいるんだ?君は、僕を……拒絶したんじゃなかったのか?」
「えっ?」
思いがけない晴明の言葉に、蕗子は驚き戸惑った。
「どういう意味?私、あなたを拒絶した?……拒絶したって言うなら、私は最初から拒絶してたわよ?だって、あなたは蘇芳の夫だったんだから。それなのに……、それなのに……。私ったら馬鹿みたいだわ。私は本当は、あなたの事なんか好きじゃないのかも。あなたがあまりにしつこく愛を語るから、うっかりそうなのかも、なんて思うようになっちゃって。馬鹿よね。妹や親まで敵に回して。そのせいで、お父さんは私を……、私を……」
蕗子は急に恐怖が蘇ってきて、顔を歪めた。
いつの間にか、涙が頬を濡らしていた。
あまりの蕗子の恐怖に満ちた顔を見て、晴明は尋常ならざるものを感じたようだ。
蕗子の両肩を掴んで揺すった。
「蕗子さん、どうした?何かあったのか?いや、君は、お父さんから聞いたんだろう?僕の事を……」
蕗子は涙で濡れた目で晴明を見た。晴明の顔も恐怖で歪んでいる。
そうか。この人はそれを気にしているんだ。当然と言えば当然だろう。
何よりその事が二人の間に横たわり、二人の仲を邪魔しているんだ。
「あなたが連絡をくれなかったのは、お父さんのせいなのね?」
全てが分かった気がした。
「お父さんから、あなたと亡くなった人の事は聞いたわ。その事をあなたにも封書で送ったって言ってた。その中に、私がショックを受けて、あなたを拒絶しているような事でも書いてあったの?」
晴明は頷いた。
「あなたは、それを信じたのね」
蕗子は悲しかった。
「普通に考えれば……。お父さんの言う事は尤もだよ。当たり前の反応だと思う」
「そうかもね……。でも、どうして直接、確かめてくれなかったの?」
晴明は驚愕したように、目を見開いた。
「君は、平気なのか?平気なわけが無いよな?傷つけてしまった事に負い目を感じたし、軽蔑されても当たり前だ。それをわざわざ君の口から言われたら、僕はもう、立ち直れないと思った……」
そうだったのか……。
それは確かに、そうなのかもしれない。
「蘇芳の素行調査の結果を提示した時、自分達の事を調べて貰っても構わないとお父さんに言ったが、一抹の不安はあったんだ。僕たち二人の事だけだったなら、なんら疾しい事は無い。だけど事が過去に及んだら……。そんな危惧が湧いた。それでも僕は、君を愛する事をやめられなかった」
だが一方で、もし知られたら、と思うと恐怖心が湧いてきた。
離婚が成立して、やっと誰に遠慮する事なく愛せると言うのに、その恐怖心が自分を責め立る。
「知られたら軽蔑される。こんな僕に愛された自分を呪うようになるんじゃないかって、そう思った。……君は潔癖症なくらい高潔だから」
やっと得心がいった。
離婚が成立したと言うのに、それまでの強引な印象から遠慮がちな印象に変わった事に違和感を覚えていた。
矢張りこうなる事を恐れていたんだ、ずっと。
「蘇芳は、僕との事を酷く後悔したんじゃないか?僕と交わった自分を呪ったんじゃないのか?」
蕗子は視線を伏せた。彼の言う通りだったが、それを肯定できない。
だが否定しない以上、肯定したも同然だ。
「あっ!」
蘇芳の名前が出てきて、蕗子はいきなり思い出した。
夕べ帰宅した時に、マンションのポストの中にあった、エアメール。
あれだけ罵声を浴びせていったのに、なぜ手紙を?
追いうちでもかけようと言うのか?
それとも、少しは反省したか。
部屋に入ったら読もうと、その場でバックへしまったのだが、その後の事ですっかり忘れていた。思い出したら気になって仕方が無い。
もともと、早く読みたくて急いで部屋へ戻ったのだから。
「ちょっと、ごめんなさい」
蕗子はソファの周囲を見回して、下に落ちていたバックを拾うと、中を開けて手紙を取り出した。
蕗子が手にした手紙がエアメールである事に、晴明も驚いた顔をした。
「何だい、それは?」
「蘇芳からよ。彼女がアメリカへ行った事は、聞いてるわよね?」
晴明は神妙な面持ちで頷いた。
「気になってしかたないから、ちょっと読ませてね」
蕗子は晴明に断って、エアメールの封を切った。
『お姉ちゃん。私は無事にアメリカに到着しました。
こっちに来てみて、改めて自分はこちらの水の方が合うような気がしてならないの。
自分を解放できて気持ちいい感じとでも言ったらいいのかな。
ところで、こうして手紙を書いているのは、お姉ちゃんに謝る為ではなく、忠告しておいた方が良いと思っての事だから、誤解しないでね。
長年、五條家は平和にやってきたけれど、本当の所では実は違うんだって事は、薄々気付いていたと思うし、今となっては、それが顕実化しちゃったけど、どうしてなのかってお姉ちゃんは考えた事がある?
多分、ずっと謎には思っていたんだろうけど、お姉ちゃんはいつだって現実を見ようとはせず、 何か薄い膜越しに見てるように私には感じてた。
だから疑問に思っても、その答えはずっと分からずにきたんだろうし、今だって分かってないよね。
その答えを教えてあげる。
私はずっと感じてた。
お父さん達がお姉ちゃんよりも私を猫っかわいがりして、お姉ちゃんには、どこかよそよそしい理由を。
知ったらきっと、驚くよ。ショックを受けると思う。
その理由はね。お父さんにあります。
お父さんは、お姉ちゃんが好きなんだ。
ものすごーく好きで好きでたまらないの。
そう言ったら、疑問に思うでしょ。
なら、どうして私ばかりがひいきされてたのか。
それはお父さんの愛情の裏返し。
私の事は、本当に自慢の自分の娘として溺愛してたけど、お姉ちゃんの事はね。違うのよ。
お父さんにとって、お姉ちゃんは女なの。
お父さんはお姉ちゃんを女として見てた。
私がおかしいなって気付いたのは幼稚園に入った頃かな。
自分を見る目とお姉ちゃんを見る目が違うって。
最初は、自分の方が好かれてるんだって思ってた。
でも、違うの。お姉ちゃんは全然気付いて無かったけど、お姉ちゃんに会う度に、お父さんはこっそりとお姉ちゃんを異様な目つきで見てた。
でも、お父さん、単身赴任ばっかりで留守がちだったでしょ。
だから、それがどういう事なのか、見る機会が少ない事もあってよく分からなかったけど、本店勤務になって、ずっと一緒に暮らすようになってから、はっきりと分かった。
私自身、男を知るのが早かったから、余計によく分かった。
男の目で女を見てるって。
お母さんも、その事に早くから気付いてたんだと思う。
だから、お母さんも、お姉ちゃんに対してどことなく
冷たかったんだよ。
思い返してみると、お父さんが留守にしている時よりも、帰って来てる時の方が、態度が冷たかった。
そう思わない?
母親もね。女なんだよね。自分の娘なのに、自分の夫を奪いかねない敵として見るんだよ。
だから、お姉ちゃんが出ていった時、お母さんは晴れ晴れとした顔をしてた。
お父さんは逆に、凄い失望した顔してたよ。
だから、お父さんは凄くお姉ちゃんに執着してる。
お父さんはお姉ちゃんを表面上は冷遇しながらも、ずっと自分のそばに置いておきたかった。
誰とも結婚させたくなかったみたい。
だから、仕事の虫であることを喜んでた。
お姉ちゃんの過去の男達もね。
誘惑したのは私の意志でした事だけど、男たちの情報を、何気なく私に教えて来てたんだよ、お父さんが。
「また蕗子に彼氏ができたようだ。あいつも懲りないな。何度捨てられてるんだ」って、また誘惑しろと言わんばかりに。
私が楽しんで誘惑してたのは、誰よりお父さんが一番好きなのは、自分じゃなくてお姉ちゃんなんだと知った時から、ずっとお姉ちゃんに嫉妬してたから。
お父さんが望む事をして、お父さんが喜んで、お姉ちゃんが悲しむのを見れたら最高だった。
でも悔しい事に、お姉ちゃんは悲しまないんだ。
今はもう、晴明の事を知って、悲しんでいる筈。
いい気味だ。人の気持ちも知らないで、いつもシレっと自分の道を歩いてるお姉ちゃん。
お姉ちゃんが晴明の事を知って、それからどうするのか興味があるけど、お父さんは激怒してる。
首に縄を付けてでも、家に連れ帰るって気炎吐いてたよ。
それに、目がギラついてて、正直気持ち悪かった。
今のお父さん、何をするか分からない感じ。
気をつけた方がいいよ。それが忠告です。
私は、結局、五條家を壊したのは、お父さんの暗い情念のせいだと思っています。
じゃあね。 蘇芳 』