第58話

文字数 2,941文字

 晴明の体は順調に回復し、予定通り二週間で退院した。
 外傷は殆ど良くなっていて、内臓の方も機能を完全に回復していた。
 ただ、回復したと言うだけで元通りになった訳では無く、また体力も落ちているので無理はしないよう注意された。

 長時間立ってはいられない。完治するにはまだ二週間くらいはかかるだろう。
 絵を描く時も座って無いと痛くなるし、授業の時も同じだ。

 晴明は、毎日無理のない程度に筋力トレーニングをした。
 元々知らず知らずのうちに多くを歩いていたから脚力もあったし、畑仕事や薪割りもしていたから腕力もあった。

 腕も足も筋力が落ちて前より細くなってしまっていた。
 体力をつけないと、絵を描くにもすぐに疲れてしまう。それが最も困る事だった。

「あまり無理しちゃ駄目よ」
「うん。だけど、もどかしい」
「本当なら、入院しててもいいくらいなのよ?それを自宅療養にしてもらってるんだから、無理したら病院帰りになっちゃうでしょう?我慢しないと。徐々に少しずつよ」

「そうだな。わかってはいるんだよ。だけど、あれだね。足の傷はすっかり治ってるのに、体の力が戻って来ないっていうのは変な感じがする。自分の体なのに」

「内臓を怪我したんだから、しょうがないわ。目に見えないだけに様子がわからないんだから、確かにもどかしいとは思うけどね」

 本人のもどかしさは、そばで見ている方でも分かる気がした。
 病気では無い証拠に顔色は良いのだ。なのに、病人のように力が出ない。
 事情を知らない人が見たら、軟弱者と言いそうだ。

 それでも徐々に力を付けていた。
 個展を控えているだけに、のんびりした気持ちにはなれないのだろう。

「ねぇ。温泉にでも行きましょうよ。箱根ならすぐだし」

 蕗子は提案した。

「それはいいね。でも、君の方の仕事は大丈夫なの?」
「休みの日くらいあるじゃない」

 二人はそれから、休日のたびに箱根へ出かけた。
 出かける度に紅葉が進んでいくのが気持ち良く、スケッチブックを持参している晴明は、目を輝かしてスケッチしていた。
 固形の水彩絵の具も持参しているので、紅葉の変化がよく分かる。

「蕗子さんも、絵を描くんだね」

 意外そうに言われた。今回は蕗子もスケッチブックを持参していた。
 蕗子が描くのは風景ではなく、珍しい意匠や建築物だった。
 自然の面白い形状の物もスケッチする。

「私だって、絵ぐらい描くわよ。画家じゃないけど、デザインするには、まずはスケッチじゃない」
「それはそうなんだけど、君の場合は、全て頭とパソコンだと思ってた」
「いつもそうとは限りません」

 本当は、画家である晴明の前で、例えスケッチとは言え絵を描くのが恥ずかしかったから、見せて来なかっただけだ。

「ふ~ん……。新しい発見ができて、嬉しいよ」
 晴明は笑顔でそう言った。

「あんまり見ないでね。恥ずかしいし。アドバイスとかも要らないから」

 ちょっとつっけんどんに言う。

「恥ずかしがる事なんか無いのにな。君は君で、それでいいんだよ。それに、アドバイスなんてする訳が無い。自分の生徒なわけじゃなし。そもそも君だって建築家としてプロなんだからね。プロの描くものにあれこれ言える筋合いなんて無いよ」

 尤もな事だった。
 それに蕗子の描く絵は人に見せる為のものではなく、あくまでも仕事の延長だった。

 十二月に入る頃には、晴明の体の調子もかなり良くなって、小さな丘陵なら登れるようになっていた。

「いよいよ作品も仕上がるし、あとは会場の準備とか些末な事に追われそうだから、こうして紅葉の中で君を愛せるのは最高のひとときだよ」

 久しぶりだった。
 晴明自身は、ずっと求める心があって、蕗子にちょっかいを出していたのだが、蕗子がそれを断っていた。
 どう考えても良くないだろう。
 早く直さなきゃならないと言うのに。

 湯上りの、ほんのりと色づいた肌が、晴明の唇を受けて震えた。
 この人はいつもそっと口づけながら、愛おしむように、ゆっくりと愛撫を重ねていく。
 壊れそうな陶器でも扱うような丁寧さだ。
 時にもどかしさを感じもするが、そのもどかしさが一層の高みへと蕗子を連れていくのだった。

 晴明の手で押し開かれる。快感が痺れとなって全身が脈打ち震える。
 体の血管の全てが快感を訴えていると思うほどだった。

「蕗子さん……」

 唇が重なり、手が重なり、指が絡んだ。
 甘い吐息が混じりあい、深い想いが互いを包んだ。
 この人を失わずにすんで、本当に良かったと思う。

「凄く綺麗だ……」

 蕗子の白い体に、周囲の樹々の紅葉が照り返していた。
 蕗子は二人の間に漂っている紅葉の光を見て、蓼科のステンドガラスを思い出した。
 あれを、これから手がける建物に取り入れたいと思った。勿論、自分達の家にも……。

 何度も極みに達し、晴明の広い胸に抱かれて蕗子はまどろむ。
 既に空には星が瞬き、月が二人を照らしていた。
 夢の世界にいるような、ロマンティックな心地だった。

「個展が終わったら……、お墓参りに行きましょう。里美さんの……」
「いいの?」

 晴明の声に僅かだが躊躇いが感じられた。

「あなたが瀕死の状態にあった時、そばに里美さんがいるのを感じたの。……里美さんは、私にとっては超えられない存在だった。妹でありながら愛する事を止められなかった、それほどの存在だった筈なのに、その愛を忘れて今は私を愛してる。凄く嬉しかったけれど、いつか、この恋も冷める時が来るんじゃないか、そう思ったら、結局、最後にいつまでも存在するのは里美さんなんじゃないかって……」

 晴明は、蕗子を強く抱きしめた。

「馬鹿な事を言うな。そんなわけないじゃないか」

「でも、結局、血のつながりには勝てないような気がしたのよ」

「蕗子さん。君の言う事もわからなくはない。でも、結局、妹は妹なんだよ。それ以上でも以下でもないんだ。僕ひとりが、こうして生き残って幸せになって、里美にはすまないって思うよ。それでも僕は、君と生きていきたいんだよ。冷める時なんか、来やしない。来る筈が無い」

「ありがとう。私もそう思いたい。ううん、思ってる。だからね。絶対に渡さないって思ったの。あなたを誰にも渡したくない。私ひとりで独占したい。その為には、里美さんを追い出すしかなかった。だから、強引にひとりで帰ってもらった。ごめんなさい、でも渡したくないの、帰って、って。酷い事してるって思ったけど、仕方ないよね。だから、里美さんの墓前で、お詫びして、それからお礼を言いたいのよ」

 自分が里美だったら、矢張りきっと去っただろう。
 晴明の人生は、まだまだこれからなのだ。
 やっとこれから花が咲く。

 でもきっと、ひとりで寂しいに違いない。だから、奪ってしまってごめんなさい。
 その代わり必ず幸せになります。彼を幸せにします。ずっと見守ってて下さい。
 そう伝えたかった。

「ありがとう……。君の気持ちが嬉しいよ。誰にも渡したくないなんて言葉を君から聞けるなんてね。僕も里美の墓前で詫びるよ。あの時の里美の寂しそうな顔……。でもきっと、里美も僕の幸せを望んでくれてるんだと思う。だから、里美は分かってくれる筈だ」

 蕗子は頷いた。
 二人で幸せになる事。それが何よりの供養だと思うのだった。
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