第6話
文字数 3,091文字
四月に入ってすぐの日曜日、蕗子は両親と共に花見をしに散歩に出た。
蛇崩 川緑道に出て住宅街に入ると、桜並木が続く絶好の散歩コースとなる。
ずっと座っているばかりの仕事ではないが、運動不足だ。
花を見ながらの散歩は、意識せずに長距離を歩けるので丁度良かった。
この前の日曜日は、帰国する蘇芳夫婦を迎えるのに潰れた。
事務所は日曜定休ではあるが、仕事の関係上、出勤の場合も多い。だから、こうして日曜日に休めるのは貴重だった。
広志の休日は土日だけに、平日が休日だと顔を合わす事すらままならない。どちらも仕事で忙しいからだ。
両親が蘇芳達に一緒にどうかと声をかけたらしいが、忙しいからと断られたそうだ。
それを聞いて蕗子はほっとした。蘇芳だけなら大歓迎だが、その夫とはできれば顔を合わせたくない。
優しげな風貌で如才ないのだが、どこか迫って来るような存在感とでも言おうか、その場に居ると気づまりする何かがあると感じる。
「せっかく帰ってきたんだから、もう少しマメに顔を出してくれればいいのにねぇ」
真弓がひと際美しく咲いている桜の前で立ち止まった。
「全くだ。渡米中だって、ろくに便りも寄越さないし。なんでああ薄情なんだろうな」
「蘇芳は自分の事で精一杯なのよ、きっと。若いんだし」
蕗子は慰めるように声をかけた。
蘇芳は自己中心的な人間だ。自分を中心にしか物ごとを考えられない傾向にある。だから思う通りに突き進む。
回りの事など視界に入って来ないんだから、考えようも無いし気遣いなんてできる筈も無い。だからと言って冷たい訳ではない。
気付かないだけだから、指摘してやれば素直に反省するし思いやりも示せる。
おまけに愛嬌があるから、結局周囲は許してしまう。
「やったもん勝ち」って言葉は蘇芳の為にあるんだな、とよく思う。
自分はどうなんだろう?
よく考えるが、案外自分の事が一番わからない気がした。
周囲からは、大人しそうに見えるようだ。
だが実際に大人しいのかと言えばそうでも無い。言う時は言う。
ただ普段地味で目立たないだけに、いきなりの発言に驚かされるようだ。
付き合いの浅い人間にはびっくり仰天なんだそうだ。
それ程、大人しいと思われているのかと、逆にこちらの方がびっくり仰天だ。
両親との、花見を兼ねた散策でゆったりした気分にリフレッシュされた数日後、いきなり職場に蘇芳が尋ねて来た。
「いらっしゃいませ」
事務の前田波絵の声に軽く頷いて、蘇芳は入口付近で立ち止まったまま中を覗くように首を回していた。
「あの……五條蕗子の妹なんですけど……」
耳に入って来た言葉に驚いて、蕗子は慌てて入口に向かった。
「蘇芳!どうしたの?」
「あ、お姉ちゃん。良かった。居てくれた」
ホッとしたように満面の笑みを浮かべていた。
「来るなら来るで、前もって言っておいてくれなきゃ。外に出てる事も多いんだし」
「そうなんだけど、色々とたて込んでて、ちゃんとした予定が立てにくくて。それこそ、約束してもキャンセルになりかねないのよ。今だって、ちょっとした合間なの」
確かに落ち着かない様子には見える。
「まさか、顔を見に来ただけ、とか言うんじゃないでしょうね」
だとしたら、正直迷惑だった。とは言え、嬉しい気持ちも幾らかはあるが。
蘇芳は苦笑した。
「ごめん、私そんな暇人じゃない。今日は仕事の依頼に来たの」
「仕事?」
意外な言葉だった。
「蕗子さん、奥へ案内されたらどうですか?」
波絵が声を掛けて来た。仕事と聞けば客と言う事になる。
だが蕗子は確かめずにはいられない。
「仕事って、どういう事?」
「お姉ちゃん、何言ってるのよ。ここは設計事務所でしょ。自宅にダンススタジオを作って欲しいの。だから来たんだけど」
「ダンススタジオ?」
蘇芳が馬鹿にしたように笑った。
その顔を見てムッとする。
「どうも。こんにちは」
いきなり背後から財前が声を掛けて来た。
「所長の財前です。蕗子さんの妹さんですね。はじめまして」
挨拶しながら名刺を出されて、蘇芳は恐縮したように受け取った。
「はじめまして。蕗子の妹の阿部蘇芳です。今日は仕事のお願いに来たんですけど」
「ああ、今しがた耳にしたので、こうして出張って参りました。よく来て下さいましたね。さぁ、奥へどうぞ。詳しく聞かせて下さい」
財前は常の客と変わらぬ丁寧な応対で、蘇芳を奥の応接室に案内した。
蕗子も慌てて後に続く。だが、納得できない。
この、プー太郎同然のようなアメリカ帰りの娘が、ダンススタジオを作るとはどういう事だ。
一体、どれだけの費用がかかるのか理解しているんだろうか。
当の妹は、応接室へ行く道すがら、物珍しそうに見ている原田と吉田に愛想を振りまいていた。
「どうも、蘇芳と申します。姉がいつもお世話になっています」
何度もぺこぺこしている。
男たちは顔を赤らめて「いやどうも、こちらこそ」と挨拶を返していた。
同性から見ても綺麗だと思うんだから、異性にとっては尚更だろう。実際、道を歩いていると振り返って見る男が少なくない。
モデルにスカウトされた事も多々ある。
蕗子は、そのままモデルデビューすればいいのにと、勧めた事もある。
だが本人は、あくまでもダンサーとしてのデビューを望んでいて、ひたすらダンスのスキルを上げる事しか興味が無かった。
「でも、まずは芸能界にデビューした方が早道じゃないの?」
男も女も、モデル出身者が多い。
「ダンス以外の仕事なんて、したくないもん」
蘇芳はダンスに拘 っていた。
この我がままを突き通すには、確かに伊達にモデルなんてならない方が良いのかもしれない。ただ、何が何でも目的を果たしたいのであれば、嫌な事でもやらなきゃならない必要もあるのではないだろうか。
人気商売なのだから。
そう思うのは浅はかな考えだろうか。
自分自身は、進んで嫌な事でも引き受けて来た。
全て自分の為になると思ったからだ。実際、それで良かったと思っている。
考え方、生き方は人それぞれだから正しい道はないのだろう。だから余計な口出しはしないに限る。
そう思って、それからは何も言わずにいた。
「さて。では詳しいお話しをお伺いしましょうか」
にこやかに椅子を勧めて、財前は単刀直入に切り出した。
蕗子は財前の隣に着席した。
「先ほども言いましたけど、自宅にダンススタジオを作りたいんです」
瞳を輝かせて、落ち着いた態度で蘇芳は受け答えた。
「ほぉ。自宅にですか。失礼ですが、ご自宅はどちらですか?ああ、その前に、失礼しました。ご結婚されたそうですね。この度はおめでとうございます」
財前はいきなり立ち上がって深々とお辞儀をした。
蘇芳も慌てて立ち上がる。
「あ、ありがとうございます」
「すみません。突然の事ですっかり失念していました。……では、話しを続けましょうか」
財前のくだけた笑顔に、緊張気味だった蘇芳の顔もリラックスしたようで、緩い笑みが浮かんでいた。
「いきなり話しの腰を折ってしまって、申し訳無い。それで、ご自宅はどちらですか?」
「初台です。京王新線の駅から徒歩で十分少々の所です」
「なるほど。蘇芳さんとしては、どういう形態を考えていらっしゃるんでしょう?自宅を丸ごと改築、もしくは一部を壊してスタジオに改築されるのか。それとも敷地内の一部に独立した建物を建造するのか……」
「あの、自宅の一階に主人のアトリエとして増築したスペースがあるんですけど、そのアトリエをダンススタジオに作り替えて欲しいんですけど」
「ええっ?」
蕗子は目を見張った。アトリエをダンススタジオに?
ずっと座っているばかりの仕事ではないが、運動不足だ。
花を見ながらの散歩は、意識せずに長距離を歩けるので丁度良かった。
この前の日曜日は、帰国する蘇芳夫婦を迎えるのに潰れた。
事務所は日曜定休ではあるが、仕事の関係上、出勤の場合も多い。だから、こうして日曜日に休めるのは貴重だった。
広志の休日は土日だけに、平日が休日だと顔を合わす事すらままならない。どちらも仕事で忙しいからだ。
両親が蘇芳達に一緒にどうかと声をかけたらしいが、忙しいからと断られたそうだ。
それを聞いて蕗子はほっとした。蘇芳だけなら大歓迎だが、その夫とはできれば顔を合わせたくない。
優しげな風貌で如才ないのだが、どこか迫って来るような存在感とでも言おうか、その場に居ると気づまりする何かがあると感じる。
「せっかく帰ってきたんだから、もう少しマメに顔を出してくれればいいのにねぇ」
真弓がひと際美しく咲いている桜の前で立ち止まった。
「全くだ。渡米中だって、ろくに便りも寄越さないし。なんでああ薄情なんだろうな」
「蘇芳は自分の事で精一杯なのよ、きっと。若いんだし」
蕗子は慰めるように声をかけた。
蘇芳は自己中心的な人間だ。自分を中心にしか物ごとを考えられない傾向にある。だから思う通りに突き進む。
回りの事など視界に入って来ないんだから、考えようも無いし気遣いなんてできる筈も無い。だからと言って冷たい訳ではない。
気付かないだけだから、指摘してやれば素直に反省するし思いやりも示せる。
おまけに愛嬌があるから、結局周囲は許してしまう。
「やったもん勝ち」って言葉は蘇芳の為にあるんだな、とよく思う。
自分はどうなんだろう?
よく考えるが、案外自分の事が一番わからない気がした。
周囲からは、大人しそうに見えるようだ。
だが実際に大人しいのかと言えばそうでも無い。言う時は言う。
ただ普段地味で目立たないだけに、いきなりの発言に驚かされるようだ。
付き合いの浅い人間にはびっくり仰天なんだそうだ。
それ程、大人しいと思われているのかと、逆にこちらの方がびっくり仰天だ。
両親との、花見を兼ねた散策でゆったりした気分にリフレッシュされた数日後、いきなり職場に蘇芳が尋ねて来た。
「いらっしゃいませ」
事務の前田波絵の声に軽く頷いて、蘇芳は入口付近で立ち止まったまま中を覗くように首を回していた。
「あの……五條蕗子の妹なんですけど……」
耳に入って来た言葉に驚いて、蕗子は慌てて入口に向かった。
「蘇芳!どうしたの?」
「あ、お姉ちゃん。良かった。居てくれた」
ホッとしたように満面の笑みを浮かべていた。
「来るなら来るで、前もって言っておいてくれなきゃ。外に出てる事も多いんだし」
「そうなんだけど、色々とたて込んでて、ちゃんとした予定が立てにくくて。それこそ、約束してもキャンセルになりかねないのよ。今だって、ちょっとした合間なの」
確かに落ち着かない様子には見える。
「まさか、顔を見に来ただけ、とか言うんじゃないでしょうね」
だとしたら、正直迷惑だった。とは言え、嬉しい気持ちも幾らかはあるが。
蘇芳は苦笑した。
「ごめん、私そんな暇人じゃない。今日は仕事の依頼に来たの」
「仕事?」
意外な言葉だった。
「蕗子さん、奥へ案内されたらどうですか?」
波絵が声を掛けて来た。仕事と聞けば客と言う事になる。
だが蕗子は確かめずにはいられない。
「仕事って、どういう事?」
「お姉ちゃん、何言ってるのよ。ここは設計事務所でしょ。自宅にダンススタジオを作って欲しいの。だから来たんだけど」
「ダンススタジオ?」
蘇芳が馬鹿にしたように笑った。
その顔を見てムッとする。
「どうも。こんにちは」
いきなり背後から財前が声を掛けて来た。
「所長の財前です。蕗子さんの妹さんですね。はじめまして」
挨拶しながら名刺を出されて、蘇芳は恐縮したように受け取った。
「はじめまして。蕗子の妹の阿部蘇芳です。今日は仕事のお願いに来たんですけど」
「ああ、今しがた耳にしたので、こうして出張って参りました。よく来て下さいましたね。さぁ、奥へどうぞ。詳しく聞かせて下さい」
財前は常の客と変わらぬ丁寧な応対で、蘇芳を奥の応接室に案内した。
蕗子も慌てて後に続く。だが、納得できない。
この、プー太郎同然のようなアメリカ帰りの娘が、ダンススタジオを作るとはどういう事だ。
一体、どれだけの費用がかかるのか理解しているんだろうか。
当の妹は、応接室へ行く道すがら、物珍しそうに見ている原田と吉田に愛想を振りまいていた。
「どうも、蘇芳と申します。姉がいつもお世話になっています」
何度もぺこぺこしている。
男たちは顔を赤らめて「いやどうも、こちらこそ」と挨拶を返していた。
同性から見ても綺麗だと思うんだから、異性にとっては尚更だろう。実際、道を歩いていると振り返って見る男が少なくない。
モデルにスカウトされた事も多々ある。
蕗子は、そのままモデルデビューすればいいのにと、勧めた事もある。
だが本人は、あくまでもダンサーとしてのデビューを望んでいて、ひたすらダンスのスキルを上げる事しか興味が無かった。
「でも、まずは芸能界にデビューした方が早道じゃないの?」
男も女も、モデル出身者が多い。
「ダンス以外の仕事なんて、したくないもん」
蘇芳はダンスに
この我がままを突き通すには、確かに伊達にモデルなんてならない方が良いのかもしれない。ただ、何が何でも目的を果たしたいのであれば、嫌な事でもやらなきゃならない必要もあるのではないだろうか。
人気商売なのだから。
そう思うのは浅はかな考えだろうか。
自分自身は、進んで嫌な事でも引き受けて来た。
全て自分の為になると思ったからだ。実際、それで良かったと思っている。
考え方、生き方は人それぞれだから正しい道はないのだろう。だから余計な口出しはしないに限る。
そう思って、それからは何も言わずにいた。
「さて。では詳しいお話しをお伺いしましょうか」
にこやかに椅子を勧めて、財前は単刀直入に切り出した。
蕗子は財前の隣に着席した。
「先ほども言いましたけど、自宅にダンススタジオを作りたいんです」
瞳を輝かせて、落ち着いた態度で蘇芳は受け答えた。
「ほぉ。自宅にですか。失礼ですが、ご自宅はどちらですか?ああ、その前に、失礼しました。ご結婚されたそうですね。この度はおめでとうございます」
財前はいきなり立ち上がって深々とお辞儀をした。
蘇芳も慌てて立ち上がる。
「あ、ありがとうございます」
「すみません。突然の事ですっかり失念していました。……では、話しを続けましょうか」
財前のくだけた笑顔に、緊張気味だった蘇芳の顔もリラックスしたようで、緩い笑みが浮かんでいた。
「いきなり話しの腰を折ってしまって、申し訳無い。それで、ご自宅はどちらですか?」
「初台です。京王新線の駅から徒歩で十分少々の所です」
「なるほど。蘇芳さんとしては、どういう形態を考えていらっしゃるんでしょう?自宅を丸ごと改築、もしくは一部を壊してスタジオに改築されるのか。それとも敷地内の一部に独立した建物を建造するのか……」
「あの、自宅の一階に主人のアトリエとして増築したスペースがあるんですけど、そのアトリエをダンススタジオに作り替えて欲しいんですけど」
「ええっ?」
蕗子は目を見張った。アトリエをダンススタジオに?