第36話

文字数 2,744文字

 二人で過ごす休日も半ばを過ぎた。

 毎日が愛に満ちている。どうしようもなく求めあい、確かめあった。
 蕗子自身、こんなにも仕事に関係ない時間を過ごすのは、大学を出てから初めての事だ。
 大学に通っていた時だって、頭の中はいつでも建築のことばかりだった。だから、こんな自分が新鮮でもあり、また恐ろしくも感じるのだった。

 恋とはこんなにも人を壊すのか。そしていつか醒めてしまうのか……。

 自分はここで、建築とは無縁の時間を過ごしているが、晴明は違う。
 手が空けばスケッチしている。描くのはもっぱら蕗子ではあるが。

 彼の中には描く事が常にあり、それは呼吸するのと同じくらい、当たり前の事なんだと思う。
 それでも、外を散策する時、蕗子は矢張り樹木に目がいってしまう。
 建築材料として、あの樹が向いてるだとか、この樹が使えるようになるまで、あと何年もかかるだろうとか。

 晴明の家から少し離れた場所に小屋があった。
 そこから少し上った先に窯がある。

「里美の工房なんだ……」

 そう言った晴明は、少し暗くて辛そうな顔をした。
 晴明の愛した異母妹は、向坂里美と言う名前で、陶芸家だった。

 ここへ来て、ここが二人のかつての愛の巣だったのだと気付いた時から、蕗子の中に消えないわだかまりができた。

 晴明が自分をとても愛している事は分かっている。
 よく分かっているのに、その愛を亡くなった女性と比べてしまう。何故なら異母妹だったから。

 血の繋がった妹だと分かっても尚、止める事のできなかった愛とは、一体どれだけ深くて強い思いだったのだろう。
 そう思うと、自分との絆よりも深い物を想像してしまうのだ。

 それに。
 父のあの、ギラついた目。
 近親相姦だと思うから、一層、情念が燃え上がっていたのではないか。背徳の匂いが人を狂おしいほどに掻き立てる。

 二人の間にも、異母妹だと知った時に、そういう炎が燃え上がったんじゃないのか。
 そんな思いが蕗子にまとわりつく。

 そして、ネグリジェのボタンを外される度に、彼女にも同じようにしていたのか、との疑問が湧いてくるようになった。

 馬鹿だ。そう思う。

 晴明の過去を父から聞かされた時は、彼がどれだけ辛く悲しかったのか、そればかりだった。
 それほどに愛した人を亡くし、抜け殻のようになって生きて来た五年間を思うと切なくなった。
 それなのに、今は自分が過去に囚われている。

 彼の悲しみを拭いたいと思ったのに、過去から救いたいと思っていたのに、自分が過去に囚われるようになるとは。

 この家のどこにも、彼女の写真は無い。
 蕗子が来ると知った時、全て片づけたのだろうか。だが、食器棚の半分を占めていた和食器を
使おうとしたら、晴明に止められた。
 口調は静かだったが、表情が険しかった。

「どうして?こんなにあるのに。それに、味わい深い感じで素敵だし……」
「それは……里美が焼いたものなんだ」

 そう言われて、自分の軽率さを猛省した。
 普通の食器とは違っていた。察するべきだった。

 写真は片づけられても、これだけの焼き物は無理だったのだろう。
 きっと、彼女の死後、これらの焼きものをどうしたら良いのか分からなくて、そのままになってしまったに違いない。
 手放す事はできないだろう。
 かと言って使う事もできない。

 それと、もうひとつ気になるのがアトリエだった。
 アトリエは二階にある。寝室の隣だ。
 そのアトリエには鍵が掛っている。

 蕗子が来てから、晴明はアトリエの中には入っていない。
 だから閉まったままだが、「見てみたい」と言った蕗子に、「いずれそのうちにね」と言うまま、一向に見せないのだった。

 もしかしたら、そこに彼女の写真や絵が置いてあるのではないか。
 そう考えてしまう。

「どうしたの?」
 二人で愛し合った後、余韻を楽しむように蕗子の肩や腕に唇を這わせながら晴明が訊いてきた。

「どうして?」
「なんか、集中してない感じがした。最近、時々感じるんだ。心がどこかに飛んでるような……」

 言われて蕗子は晴明を見た。
 晴明は深く暗い眼で、蕗子の奥底を探るように見つめている。
 蕗子は暫くジッと晴明を見つめた後、心を決めた。訊こうと。

「私、あなたの事をもっと知りたいの」
「僕の事を?」

 晴明は不思議そうに首を捻った。

「一体、何だろう?そう言えば、仕事の事とか、収入の事とか、そういうのは全然話した事が無かったね」

「そういう事じゃなくて……。あ、それも知ってはおきたいけど、いずれ追々でいいわ。それよりも、私が知りたいのは、あなたの過去の事」

 晴明が体を硬くしたのが分かった。

「よくよく考えてみたら、父からあなたの過去の事を聞かされた時、ショックを受けるには受けたけど、でもそれって結局、また聞きでしょ?事実だとしても、羅列に過ぎない。真実って、それとは別の所にある事の方が多いって思うし。だから、あなたの口から直接聞きたいって思った。直接聞いて確かめたかったの。それって、間違ってる?あなたはやっぱり、嫌かしら。話すのが……」

 晴明は蕗子の申し出を聞いて最初は無表情になったが、やがて逡巡するように、表情が何度も変わり、最後は不安そうな顔になった。

「私、知りたいわ。でも、知ってはいけないの?知る権利、無い?」

 晴明は首を振った。

「君には、知る権利はあると思う。でも……」

 まだ迷っているような顔をしている。

「私ね。ここに来た時から、ずっと里美さんの影を感じるの。あなたの中にも。だから……」

 晴明は驚いたように蕗子を見ると、手を握って来た。

「この場所に、彼女の影を感じるのは仕方ないと思う。でも、僕の中にも感じるって言うのはどういう事だい?僕の中には、今はもう君しかいないのに」

「ごめんなさい……。でも私……」

 どう言ったら良いのか分からない。
 愛を比較している自分が悲しいし、それを彼に悟られたくない。
 ただ単に、嫉妬しているなんてレベルではない気がした。もしかしたら、愛の根底に関わる事かもしれない。
 晴明は、握った蕗子の手にそっと口づけた。

「いつかは、話さなきゃいけないとは思ってた。ただ、怖くてね。思い出すと辛いのもある。だけどやっぱり、事が事だけに、君がどう思うか。そればかりが気になって……」

 晴明は目を伏せた。睫毛の下に色濃い影ができ、彼の苦悩の度合いを現しているように感じた。

「気になるのは私も同じ。だから、聞きたいの」

 聞かないと前へ進めない。そう感じる。

 晴明はジッと蕗子を見つめた後、覚悟したような真剣な顔つきになった。

「わかった……。でも、何から話したらいいのかな……」

 蕗子は少し考えてから言った。

「あなたの、生い立ちから聞かせて?」

 晴明は頷いたが、その瞳には翳りが生じていた。
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