第2話

文字数 4,966文字

 玄関のベルが鳴ったのは、夕方の6時半を過ぎた頃だった。

「ただいま~、久しぶり~」

 迎えに出た母に対する第一声だ。

「なんなんだ、あの挨拶は」

 半ば怒り口調の父の後について、蕗子も玄関へ迎えに出た。

「ただいま。お父さん、お母さん、それにお姉ちゃん」

 三年ぶりの妹は、前にも増して美しくなっていた。溌剌(はつらつ)としている。

「お、おお。おかえり」

 それまでの怒りも何処へその、広志は眩しそうに娘を見た。
 華やぎのある美しい娘は、父の自慢の娘でもあったのだ。
 それは母も姉も同じで、どんなに我がままを言われても、理不尽な目に遭わされても、この眩しい笑顔に接すると許さずにはいられなくなる。

 突然の渡米、不誠実な音信、そして勝手な結婚と急な帰国。
 先ほどまで皆で交わしていた彼女への不満は、この瞬間に綺麗に消え去った。
 とにかく、帰って来てくれて嬉しい。その一言に尽きるのだった。

 だが。

 蘇芳(すおう)のすぐ後ろに立っている見知らぬ存在が、五條家だけの暖かい空気を破った。
 その男が蘇芳の肩を抱くように手を掛けた。それに気付いた蘇芳が皆に男を紹介した。

「阿部はるあきさん。私の夫よ」
「はじめまして。阿部はるあきです」

 スラリとして、端正な顔立ちをしている。
 三十五歳と聞いていたが、見た目は三十そこそこにしか見えなかった。

「この度は、何もかも急な事で申し訳ありませんでした」

 男は深々と頭を下げた。

「はるあき、ったら、何を馬鹿丁寧に挨拶してるの。みんな気にしてないわよ」

 蘇芳は笑いながら彼の腕を取り、靴を脱いで上がると、慌てて続くように靴を脱ぐ彼を引っ張って奥へと入っていく。そんな様子を三人は唖然として見ていた。

 まさに、開いた口が塞がらない、そんな感じだ。
 僅かな間の後、三人は顔を見合わせた。
 どの顔も釈然としないと言っている。

「また俺たちは、蘇芳にしてやられたって事なのかな」

 広志がポツリと呟くように言った。真弓も蕗子も黙って頷く。

 三人が後を追うようにダイニングに入ると、二人の姿はそこにはなく、隣の和室で畏まったように座っていた。

「ごめんなさい」
「申し訳ありませんでした」

 二人同時にそう言うと、畳に手をついて深々とお辞儀をした。
 その光景に、三人は再び戸惑う。そして蕗子は思う。いつだってこうやって蘇芳のペースに皆が乗せられていくんだと。

 いつだってそうだった。そうして、どれだけ自分は傷つけられてきたんだろう。

 そう思いつつ、よくよく考えれば大した傷でも無かったとも思う。
 それに今度の事は別段蕗子を傷つけるような事では無い。敢えて言うなら、姉より先に結婚したと言う事くらいか。

「まずは、こっちに座って貰えないかな」

 唖然として立ったままでいる家族に対し、蘇芳は照れくさそうに笑った。

「お、おお……」
 広志の言葉を合図のようにして、五人は座卓を挟んで向き合って座った。
勿論、三対二だ。

(なんだか、居心地が良くないな)

 こんな風に、ここで家族の中に他人を迎えたことは今まで一度も無かった。
 勿論、来客を接待する事はあったが、両親と娘二人の全員が揃っての事は皆無だ。

 家族の中に他人が一人いる。
 それだけで、息苦しさを覚えるのだった。面と向かって畏まっているからかもしれない。

 ふと、顔をあげた。

 何となく視線を蘇芳の隣にやると、蘇芳の夫と目が合った。

 その瞬間、ドキリとした。

 何かがコトリと心臓の中に落ちたような気がした。

 蕗子と目が合った彼は、にっこりと微笑んだ。優しげな雰囲気の男だ。
 蕗子は思わず腰を上げた。

「お姉ちゃん?」
「あ、お茶淹れるね」
「そんなのいいのに……」

 引き止めるように言う妹を無視して、蕗子は隣のキッチンに入りお茶の支度をした。
 和室とダイニングキッチンの間の襖は開け放たれているので、お茶を淹れながらでも話しは聞える。

「改めまして、阿部晴明と申します。この度は急な事ですみませんでした。本来なら、きちんと前もってご挨拶に伺い、お許しを得て結婚すべきところを、……その……」

 少し低めの良く通る声だった。口調もはっきりしている。
 だがさすがに語尾には不明瞭さが漂っていた。
 こういう時、どう言ったら良いのか誰でも戸惑うのが普通だろう。

「とりあえず……」

 そう続けて、名刺を差し出した。
 肩書きの部分には某私大の名前と教養学部講師と言う肩書きと共に、画家とあった。

「画家さんでいらっしゃるんですか。失礼ですが、どういった絵を?」

 画家だと言う事は、蘇芳からの電話で既に知っていた事だが、父の広志は初めて聞いたような顔をして訊ねた。

「そうですね。簡単に言えば現代アート……でしょうか。いや、かえって分かりにくいですよね」

 晴明は持っていたカバンからそう分厚くはない本を出して、座卓の上に広げた。
 画集だった。

 蕗子はお茶を置きながら、その絵を見た。

(ファンタジーだ)

 ひと目見て、そう思った。

 夜の風景だ。
 濃い藍色をバックに、植物が影のように(うごめ)き、月と星が瞬いている。

「ステキでしょ?ここ数年、アメリカで評判なのよ。結構、人気作家なんだから」

 晴明の隣から蘇芳が身を乗り出すようにして、目を輝かせている。

「ほぉ~」
 広志が感心したような顔をした。人気作家と聞いて気を良くしたようだ。

 画家と聞くと売れない貧乏画家とのイメージがどうしても湧くようで、この二日間、相手の男に対する不満で鬱々としていた広志だったのだ。
 しかも、大学の講師なんて給料は高が知れている。

 蘇芳自身もダンサーだなんて言ったって、遊んでいるような御身分だ。そんな人間同士が結婚だなんて、あまりにも向こう水すぎる。
 二十歳やそこらの若者ならいざ知らず、蘇芳は二十六だし、男は三十五だ。
 いい大人が呆れて物も言えない。

 そんな言葉を、蕗子はどれだけ聞かされてきた事か。

 広志が次々とページをめくる。出てくるのは、どれも同じような絵だった。
 勿論、其々に構図は違うし印象も違うが、自然の中の夜の風景だ。

 広志が画集を閉じて表紙を見た。

“Scenery of a moo n and the star”

「月と星の風景……?」
「そうなの。晴明は、もうずっと、そのテーマで描いてるのよ」
「ずっと?」

 不思議そうな顔を向けた広志に、晴明は「はい」と笑顔で頷いた。

「画家に、作品のテーマについて深く聞いちゃ駄目よ?言葉で表せないから描くんだから」

 ねー?と笑顔で晴明に同意を求める蘇芳に、晴明は笑顔を返した。
 そんな二人を見て、両親は呆れたように顔を見合わせた。

「ダンスだって同じよ。言葉ではなく、体全身で表現するの。だからアタシ、分かるのよ。そう言う点で、同じアーティスト同士、晴明と共鳴したの。だから、ね?一緒になったの」

「アーティストねぇ……」

 真弓はヤレヤレと言った感じで首を振った。

「全くだ。晴明君はともかく、蘇芳がアーティストだなんてな」
「酷いわねー」

 蘇芳は二人を睨みつけた。

「それで、その。……晴明君の事をその、もう少し聞かせて貰えないかな」

 場の盛り上がりがひとしきり治まったところで、広志が改めたように名刺を見て、少し驚いたような顔をした。

「あ、あれ?阿部……はるあきって、こう言う字なんだね。これって……」

 蕗子は横から名刺を覗きこんだ。そして目を見開いた。

「あ、あら~……、これってもしかして、アベノセイメイと同じ?」

 驚いた。名刺だけを見たら、『あべのせいめい』と読んでしまうだろう。

「よく言われます」
 当の本人は恥ずかしそうな笑みを浮かべていた。

「ねぇねぇ、何それ?アベノセイメイって?」
「あなた、知らないの?」

 母の真弓がびっくりした顔を蘇芳に向けた。
 蕗子も驚く。名前も驚きだが、知らない蘇芳の方が更に驚きだ。

「呆れちゃうわ~。曲がりなりにも大卒だって言うのに」

 母は溜息をこぼしている。

「日本人だよね?アタシ英文科だから~」

 隣で晴明がクククと我慢したように笑っている。

「セイメイの場合は『安倍』なんですが、僕の場合は『阿部』なんですよ」
「だとしても、ご両親は苗字を意識して名付けたとしか思えないな~」
「いえ、そういう訳では……」

 広志の言葉を遮りかけた晴明に気付かないように、真弓が後を続けた。

「ご近所にね。佐々木さんってお宅があるんだけど、そこのお宅、飼い犬に小次郎って名付けたのよ。小次郎よ、小次郎!佐々木小次郎!」

「あはははっ、それは傑作だ」

 広志が臆面も無く大笑いした。蕗子も思わず噴き出す。

「これで、お隣が宮本さんで、犬に武蔵とかって名付けたら、もう爆笑ね」

 蕗子は思わずそう言った。勿論、冗談だ。だが、大いに受けた。
 疎い蘇芳は憮然とした顔で三人を睨みつけていたが、晴明の方はと言えば、堪え切れずに大笑いしだした。

「いやー、愉快なご家族ですね」

 そう言いながら腹を抱えている。
 確かに、客の名前を肴にしてジョークを飛ばして大笑いしているんだから、愉快だろう。人によっては失礼千万他ならないかもしれない。

「あ、いや、すまないね、つい……」

 まだ治まりきらない笑みをこぼしたまま、広志は軽く手刀を切った。

「いえ、とんでもないです」

「それで、その、ご両親は?」

 場が和んでいた。緊張していた晴明も(くつろ)いだ雰囲気になっていた。

「実は、両親は僕が幼少の頃に離婚してまして。だから『阿部』は母の旧姓なんです」

 晴明の言葉に、皆が「えっ?」と固まった。

「あ、そんなに気にしないで下さい。もう、三十年も前の話しですし」

 そう言われても、どう切り返したら良いのか皆分からなくなった。

「晴明の言う通りよ。そんな大昔のこと、皆気にしてもしょうがないわよ?本人が気にしていないのに」

 蘇芳は何でもないように言った。

「こういう、彼女の明るいと言うか、ポジティブな所に惹かれたんですよね」

 照れ笑いを浮かべた晴明を見て、両親はほっとしたように笑みを浮かべた。

「いや、確かに蘇芳はポジティブと言えばそうかもしれないが、デリカシーが無くてね。我がままだし。よく貰ってくれる人がいたもんだと」

 そこまで言うかと蕗子は内心で突っ込んだ。
 目の前の男は悪そうには見えない。
 勤め先の大学もそこそこ名のある大学だ。

 だが冷静に考えれば、まだまだ不安要素は満載なのではないか?
 すっかり、父は場の雰囲気に呑まれていると思うばかりだ。

 そもそもそれは、今に始まった事ではない。
 銀行マンとして出世街道を順調に上って来た程の男なのである。
 海千山千の筈なのに、蘇芳の事となるとまるでなっていない。目が曇るとしか思えない。

 そこまで甘い娘の結婚相手なのだから、逆にもっと厳しくても良さそうなものなのに。

「そろそろ、ご飯にしませんか。お話しは食べながらゆっくりしましょうよ」

 真弓が腰を上げた。

「ああ、そう言えば、さっきチラッと見たけど美味しそうな御馳走がいっぱいよね」

 どんな相手を連れてくるのか分からないのに、歓迎の意を込めた手の掛けようだった。

「晴明さんは、好き嫌いは?お口に合えばよろしいんですけど」
「大丈夫です。嫌いな物はありませんし、何でも美味しくいただけますから」

(それって、不味くても大丈夫って意味にもならないのかしら?)

 つい、捻くれた考えが湧いてくる。
 こういうのを揚げ足とりと言うのだろうか。
 直接口に出してはいないが。

「綺麗ですね」

 晴明がテーブルに飾ってある花に目を留めた。
 眩しそうに目を細めている。

「ほんとー。これって、もしかして、お姉ちゃんが?」

 晴明が蕗子を見た。不思議そうな眼をしている。
 どうして、そんな眼で見るのだろう。

 蕗子は戸惑った。

「まるで、花嫁のブーケのようだ」

 蕗子を見たまま晴明が言った。

「えー?どこが?」

 不思議そうに言う蘇芳の言葉に、晴明は口許に微かな笑みを浮かべた。

「アートだよ。言葉じゃなくて」
 晴明の瞳が僅かに揺れた。

「アート、ねぇ……。お姉ちゃんのアートは、私には分からないな」

 蘇芳は無邪気に笑うと、目の前の料理を食べだした。

「さぁ、晴明さんも遠慮なさらずに」

 真弓にそう促されるまで、晴明は蕗子と視線を合わせたままだった。
 蕗子はそんな晴明の視線を外せずに、胸がざわつくのを不思議に感じるのだった。
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