第11話
文字数 3,727文字
コンペのプレゼンを無事に終え、αT設計事務所への正式採用通知が届き、事務所では祝賀パーティが催された。
財前と蕗子が中心ではあったが、他の所員たちも全員でアイデアを出し合い、意見を交わして作り上げたものだけに、感動はひとしおだった。
独立して三年目に大きな仕事を獲得できた事で、財前はいつになく興奮していた。
大手建設会社にいた時に、何度もコンペを勝ち抜いてきているのに、それとはまた違うのだろう。
会社のネームバリューが無い、個人事務所としての勝負に勝利できた事が更に大きな自信に繋がったようだ。
「所長のあんな笑顔、初めてじゃないですか?」
隣で料理を食べている波絵が蕗子に囁いた。
「そうよね。前の会社でも、あんな笑顔は無かったかも」
まさに手放しで喜んでいる、といった感じだ。
「まぁ、私たちだけの身内パーティですもんね。だから多少ハメを外しても、恥ずかしいなんて事もないのかも」
それは言えているかもしれない。会社にいた時には、それは多くの上司まで参加したものだ。
今は自分が最高責任者であり、部下四人とは気心が知れている。
だが、それにしてもな量を飲んでいた。呆れるほどだ。
吉田も原田もあまり強くなく、さすがに所長を差し置いてベロンベロンになる程は飲めないと思っているのか、そこそこに自重しているようだが、財前は際限が無い程の飲みっぷりで、用意していた酒だけでは足りず、途中で波絵と原田が買いに出たほどだった。
「所長……。もう、いい加減にしないと、飲みすぎじゃないですか?」
時計の針は十一時になろうとしている。終電に乗れないと困るからと、皆はお開きの準備に入っていた。
「みんなが思うほど、飲んで無いよ」
酒臭い息をかけられて蕗子は閉口した。
そんな蕗子に笑顔を向けると、財前は軽やかな口調で皆にお開きを告げた。
「みんな、本当にありがとう。これから更に忙しくなるが、事務所で一丸となって進んでいきたいと思ってる。だから、まだまだみんなの協力が必要です。これからも、よろしく頼みます」
深々とお辞儀をする財前に、皆は拍手を送った。
そう。これからだ。これからが本当の勝負だと蕗子は心を新たにする。
「片づけはその辺でいいから、これで解散。電車に遅れると困るだろう?」
財前の言葉を合図に、蕗子以外は早々に事務所を後にした。
こういう時、所長と共にタクシー帰宅になるのは既に通例となっていた。
皆が出たのを確認し、蕗子はタクシー会社に電話をした。財前はホッとしたのか椅子に座ってテーブルに頬杖をつき、目を瞑っている。
「所長。すぐにタクシー来るそうですから、外で待ちましょう」
「ああ、すまないね。さすがにちょっと、疲れたかな」
見開かれた目は、少し赤くなっていた。
「お水、飲みますか?」
「いや、いい。大丈夫。水なんて飲んだら折角の酔いが醒めて勿体ないじゃないか」
「はいはい、そうですね」
立ち上がった財前の足取りは思いの外しっかりしている。
あれだけ飲んだのに凄いなと思う。矢張り大分強いに違いない。
外に出て鍵を閉め、通りに立つとすぐにタクシーがやってきた。
二人で乗り込むと、財前が「豪徳寺まで」と言った。驚いて財前の顔を見る。
いつも最初は三軒茶屋なのに。
「蕗ちゃん、済まない。ちょっと先にうちへ寄っていってくれないか?君に見せたい物があるんだ……」
「あの、でも……」
蕗子が戸惑って返事に窮していると、財前は小さな寝息をたて始めた。
(どうしよう)
こんな事は初めてだった。
財前の家にお邪魔した事は過去に何度かある。会社帰りに寄っていけと呼ばれた事もある。だが、どの時も蕗子一人ではなく、誰かが一緒だったし、家には夫人がいてお茶や料理を御馳走になった。
「所長……」
声を掛けて肩をゆすったが、タヌキ寝入りしているわけではなく、本当に寝入っているようだ。蕗子は溜息をついて、シートに深く体を沈めた。
見せたい物って、何だろう?職場では見せられない物なんだろうか。
(それにしても……)
改めて考えてみると、今日の財前の飲みっぷりは異常とも言えた。
いくらザルと言われるほど強いとは言え、その飲み方はまるで何かに取りつかれてでもいるような様子だったと思う。
そっと横の財前の顔を見ると、心なしか目の下に隈が出来ているように感じる。
(何かあったんだろうか)
タクシーは一直線に豪徳寺に向かって走っていた。いつもと違う夜景が窓の外に広がっている。
夜景を見ていると何故か晴明を思い出す。きっと、夜しか描かない画家だからだ。
タクシーから見る夜空には、全く星は見えなかった。月すらも出ていない。
新月ではない筈だから、きっと曇っているのだろう。
(あの絵を直接見てみたい)
ふと、そう思った。
初めて五條家にやってきた時に持ってきた画集を見たきりだ。とても印象的だった。
あれらの絵は、どのくらいの号数なんだろう。質感は?それに、何故、夜しか描かないのか。
優しげで暖かい笑顔、屈託のない笑顔……。その一方で暗く翳りのある鋭い視線。
彼を目の前にすると何故か落ち着かなくなる。
その癖、こうしてふと思い出す度に気になって仕方が無い。
彼には人を惹きつける何かがあるのだろうか。一種の磁場のような。
「そろそろ豪徳寺ですが、どの辺ですか」
運転手の言葉に、「その先の十字路を右に曲がってください」と、隣の財前がはっきりした口調で告げたので、蕗子は驚いて彼を見た。
「すまないね。でもお陰で大分楽になったよ」
財前は口許に柔らかな笑みを浮かべた。いつの間に目覚めていたのだろうか。
それとも矢張りタヌキ寝入りだったのか。
財前の誘導で、タクシーは財前家の前で車を止めた。蕗子は促されて取り敢えず降りた。
財前は「また呼べばいいから」と言って、料金を払うとタクシーを帰らせた。
蕗子はモヤモヤしたものが生じるのを感じた。
財前が玄関のカギを開けて中に入ると、廊下の先の部屋に灯りがついていた。
「あれ?出る時に消し忘れたかな」
不思議そうに靴を脱ぎかけた財前の後で蕗子がためらっていると、いきなり奥の部屋のドアが開いたのでびっくりした。
「晴美……」
「こういう事だったのね」
財前の妻だった。彼女は蕗子を睨みながら近づいてきた。
「ずっと前から怪しいと思ってた」
「あの……」
蕗子は思いも寄らない展開に呆然とし、どうしたら良いのか分からずに身を竦めた。
「晴美、何を言ってるんだ。完全に誤解だ」
蕗子に掴みかからんばかりの勢いに、財前は蕗子を庇うように晴美の前に出た。
だが、その様が、余計に相手に誤解を与えたようだった。
「高行が死んだ時、あなたは平然と仕事に打ち込んでたわね。仕事に打ち込む事でしか心のやり場が無いからだろうって私なりに思ってた。一緒に悲しんでくれなくてもね。でも一方で、事務所に行けばあの娘がいる。そう感じてもいたのよ。まだまだ新米のその子を事務所に引き抜いたのも、そういう想いがあったからでしょ。結局、私と別れるのだって、この女と一緒になりたかったからなんでしょうよ。自分ひとりだけ救われようって言うの?」
顔を赤くして憤怒の形相だった。
息子の高行が生存中から、財前と蕗子の仲を疑っていた事を知って、蕗子は愕然とした。
この人は誤解している。
けれども息子さんを亡くした時から、この人の人生は狂い始めてしまい、以前からの疑惑が溢れ出てしまったのかもしれないと、蕗子は思った。
「晴美、落ち着きなさい。誤解なんだよ。たまたま寄ってもらっただけなんだ」
晴美はギロリと財前を睨んだ。
「知ってるわよ?プレゼンが通ったんですってね。前田建設の人から連絡があったのよ。私たちの離婚をまだ知らないものだから『おめでとうございます』ってね。だから、今日事務所で祝賀会だって事も知ってるのよ。それが終わって、今度はここで二人きりで乾杯しようって魂胆だったんでしょ?」
「だから、違うんだ」
「何が違うって言うのよっ。ねぇ、蕗子さん!あんた一体どういうつもりなの?一人息子を亡くして憔悴している夫婦の仲を裂いて、一体何が面白いって言うの?財前を癒せるのは自分しかいないとかって、思いあがってるんでしょう!」
財前を押しのけて蕗子に手を伸ばそうとしてくる姿を見て、蕗子は逃げ出した。
「失礼します」
玄関を開けて外へ駈け出す。
背後から「蕗ちゃん!」と財前が呼んだが、無視してそのまま住宅街の中を走った。
矢張り失敗だった。行くんじゃなかった。
どうしてこんな目に遭わなきゃいけないのだ。
自分は何も悪い事をしていないのに。
今回はたまたま一人だったが、これまでずっと訪れる時は複数だったのだ。それなのに仲を疑われていたなんて心外としか言いようが無い。
それに財前。
彼も一体どういうつもりで蕗子を自宅に呼んだのか。それもこんな夜分に。
息が切れて立ち止まると、空を見上げた。黒々として何も見えない。矢張り曇りか。
曇ってはいなくても、東京の空は星が見えづらい。いつだって薄いモヤがかかっている。
(綺麗な夜空が見たいな)
そう思った瞬間に晴明の顔が浮かんで、何故か頬に涙がつたった。
財前と蕗子が中心ではあったが、他の所員たちも全員でアイデアを出し合い、意見を交わして作り上げたものだけに、感動はひとしおだった。
独立して三年目に大きな仕事を獲得できた事で、財前はいつになく興奮していた。
大手建設会社にいた時に、何度もコンペを勝ち抜いてきているのに、それとはまた違うのだろう。
会社のネームバリューが無い、個人事務所としての勝負に勝利できた事が更に大きな自信に繋がったようだ。
「所長のあんな笑顔、初めてじゃないですか?」
隣で料理を食べている波絵が蕗子に囁いた。
「そうよね。前の会社でも、あんな笑顔は無かったかも」
まさに手放しで喜んでいる、といった感じだ。
「まぁ、私たちだけの身内パーティですもんね。だから多少ハメを外しても、恥ずかしいなんて事もないのかも」
それは言えているかもしれない。会社にいた時には、それは多くの上司まで参加したものだ。
今は自分が最高責任者であり、部下四人とは気心が知れている。
だが、それにしてもな量を飲んでいた。呆れるほどだ。
吉田も原田もあまり強くなく、さすがに所長を差し置いてベロンベロンになる程は飲めないと思っているのか、そこそこに自重しているようだが、財前は際限が無い程の飲みっぷりで、用意していた酒だけでは足りず、途中で波絵と原田が買いに出たほどだった。
「所長……。もう、いい加減にしないと、飲みすぎじゃないですか?」
時計の針は十一時になろうとしている。終電に乗れないと困るからと、皆はお開きの準備に入っていた。
「みんなが思うほど、飲んで無いよ」
酒臭い息をかけられて蕗子は閉口した。
そんな蕗子に笑顔を向けると、財前は軽やかな口調で皆にお開きを告げた。
「みんな、本当にありがとう。これから更に忙しくなるが、事務所で一丸となって進んでいきたいと思ってる。だから、まだまだみんなの協力が必要です。これからも、よろしく頼みます」
深々とお辞儀をする財前に、皆は拍手を送った。
そう。これからだ。これからが本当の勝負だと蕗子は心を新たにする。
「片づけはその辺でいいから、これで解散。電車に遅れると困るだろう?」
財前の言葉を合図に、蕗子以外は早々に事務所を後にした。
こういう時、所長と共にタクシー帰宅になるのは既に通例となっていた。
皆が出たのを確認し、蕗子はタクシー会社に電話をした。財前はホッとしたのか椅子に座ってテーブルに頬杖をつき、目を瞑っている。
「所長。すぐにタクシー来るそうですから、外で待ちましょう」
「ああ、すまないね。さすがにちょっと、疲れたかな」
見開かれた目は、少し赤くなっていた。
「お水、飲みますか?」
「いや、いい。大丈夫。水なんて飲んだら折角の酔いが醒めて勿体ないじゃないか」
「はいはい、そうですね」
立ち上がった財前の足取りは思いの外しっかりしている。
あれだけ飲んだのに凄いなと思う。矢張り大分強いに違いない。
外に出て鍵を閉め、通りに立つとすぐにタクシーがやってきた。
二人で乗り込むと、財前が「豪徳寺まで」と言った。驚いて財前の顔を見る。
いつも最初は三軒茶屋なのに。
「蕗ちゃん、済まない。ちょっと先にうちへ寄っていってくれないか?君に見せたい物があるんだ……」
「あの、でも……」
蕗子が戸惑って返事に窮していると、財前は小さな寝息をたて始めた。
(どうしよう)
こんな事は初めてだった。
財前の家にお邪魔した事は過去に何度かある。会社帰りに寄っていけと呼ばれた事もある。だが、どの時も蕗子一人ではなく、誰かが一緒だったし、家には夫人がいてお茶や料理を御馳走になった。
「所長……」
声を掛けて肩をゆすったが、タヌキ寝入りしているわけではなく、本当に寝入っているようだ。蕗子は溜息をついて、シートに深く体を沈めた。
見せたい物って、何だろう?職場では見せられない物なんだろうか。
(それにしても……)
改めて考えてみると、今日の財前の飲みっぷりは異常とも言えた。
いくらザルと言われるほど強いとは言え、その飲み方はまるで何かに取りつかれてでもいるような様子だったと思う。
そっと横の財前の顔を見ると、心なしか目の下に隈が出来ているように感じる。
(何かあったんだろうか)
タクシーは一直線に豪徳寺に向かって走っていた。いつもと違う夜景が窓の外に広がっている。
夜景を見ていると何故か晴明を思い出す。きっと、夜しか描かない画家だからだ。
タクシーから見る夜空には、全く星は見えなかった。月すらも出ていない。
新月ではない筈だから、きっと曇っているのだろう。
(あの絵を直接見てみたい)
ふと、そう思った。
初めて五條家にやってきた時に持ってきた画集を見たきりだ。とても印象的だった。
あれらの絵は、どのくらいの号数なんだろう。質感は?それに、何故、夜しか描かないのか。
優しげで暖かい笑顔、屈託のない笑顔……。その一方で暗く翳りのある鋭い視線。
彼を目の前にすると何故か落ち着かなくなる。
その癖、こうしてふと思い出す度に気になって仕方が無い。
彼には人を惹きつける何かがあるのだろうか。一種の磁場のような。
「そろそろ豪徳寺ですが、どの辺ですか」
運転手の言葉に、「その先の十字路を右に曲がってください」と、隣の財前がはっきりした口調で告げたので、蕗子は驚いて彼を見た。
「すまないね。でもお陰で大分楽になったよ」
財前は口許に柔らかな笑みを浮かべた。いつの間に目覚めていたのだろうか。
それとも矢張りタヌキ寝入りだったのか。
財前の誘導で、タクシーは財前家の前で車を止めた。蕗子は促されて取り敢えず降りた。
財前は「また呼べばいいから」と言って、料金を払うとタクシーを帰らせた。
蕗子はモヤモヤしたものが生じるのを感じた。
財前が玄関のカギを開けて中に入ると、廊下の先の部屋に灯りがついていた。
「あれ?出る時に消し忘れたかな」
不思議そうに靴を脱ぎかけた財前の後で蕗子がためらっていると、いきなり奥の部屋のドアが開いたのでびっくりした。
「晴美……」
「こういう事だったのね」
財前の妻だった。彼女は蕗子を睨みながら近づいてきた。
「ずっと前から怪しいと思ってた」
「あの……」
蕗子は思いも寄らない展開に呆然とし、どうしたら良いのか分からずに身を竦めた。
「晴美、何を言ってるんだ。完全に誤解だ」
蕗子に掴みかからんばかりの勢いに、財前は蕗子を庇うように晴美の前に出た。
だが、その様が、余計に相手に誤解を与えたようだった。
「高行が死んだ時、あなたは平然と仕事に打ち込んでたわね。仕事に打ち込む事でしか心のやり場が無いからだろうって私なりに思ってた。一緒に悲しんでくれなくてもね。でも一方で、事務所に行けばあの娘がいる。そう感じてもいたのよ。まだまだ新米のその子を事務所に引き抜いたのも、そういう想いがあったからでしょ。結局、私と別れるのだって、この女と一緒になりたかったからなんでしょうよ。自分ひとりだけ救われようって言うの?」
顔を赤くして憤怒の形相だった。
息子の高行が生存中から、財前と蕗子の仲を疑っていた事を知って、蕗子は愕然とした。
この人は誤解している。
けれども息子さんを亡くした時から、この人の人生は狂い始めてしまい、以前からの疑惑が溢れ出てしまったのかもしれないと、蕗子は思った。
「晴美、落ち着きなさい。誤解なんだよ。たまたま寄ってもらっただけなんだ」
晴美はギロリと財前を睨んだ。
「知ってるわよ?プレゼンが通ったんですってね。前田建設の人から連絡があったのよ。私たちの離婚をまだ知らないものだから『おめでとうございます』ってね。だから、今日事務所で祝賀会だって事も知ってるのよ。それが終わって、今度はここで二人きりで乾杯しようって魂胆だったんでしょ?」
「だから、違うんだ」
「何が違うって言うのよっ。ねぇ、蕗子さん!あんた一体どういうつもりなの?一人息子を亡くして憔悴している夫婦の仲を裂いて、一体何が面白いって言うの?財前を癒せるのは自分しかいないとかって、思いあがってるんでしょう!」
財前を押しのけて蕗子に手を伸ばそうとしてくる姿を見て、蕗子は逃げ出した。
「失礼します」
玄関を開けて外へ駈け出す。
背後から「蕗ちゃん!」と財前が呼んだが、無視してそのまま住宅街の中を走った。
矢張り失敗だった。行くんじゃなかった。
どうしてこんな目に遭わなきゃいけないのだ。
自分は何も悪い事をしていないのに。
今回はたまたま一人だったが、これまでずっと訪れる時は複数だったのだ。それなのに仲を疑われていたなんて心外としか言いようが無い。
それに財前。
彼も一体どういうつもりで蕗子を自宅に呼んだのか。それもこんな夜分に。
息が切れて立ち止まると、空を見上げた。黒々として何も見えない。矢張り曇りか。
曇ってはいなくても、東京の空は星が見えづらい。いつだって薄いモヤがかかっている。
(綺麗な夜空が見たいな)
そう思った瞬間に晴明の顔が浮かんで、何故か頬に涙がつたった。