第4話
文字数 2,823文字
「お疲れ様」
まずはアペリティフで乾杯した。
「取り敢えず、目途はついてきたね。何とかいけるんじゃないかな」
財前は上品な笑みを口許に浮かべた。
現在、五十歳だが、年齢よりも若く見える。
髪もまだ黒々としていて、目を凝らすと僅かに白いものが確認できる程度だ。
こうしてレストランで寛 いでいる時は、とても落ち着いた中年紳士な雰囲気だが、仕事に向かっている時は精悍な顔つきをしている。
最初の頃は、そのギャップに驚かされた。
「大丈夫でしょうか」
コンペが通るかと言う事だ。
他に四社と競合している。どこも手堅く攻めてくるだろう。
四社の中には大手企業も入っている。
こういう大きな施工の場合、大手は豊かな物量で攻めてくる。
コストダウンだって向こうのほうが有利だ。
「僕はいけると信じてる」
その目は自信に溢れていた。
「どうしてですか?」
個人事務所には荷の重い仕事だ。依頼する方も不安を持っているに違いない。
確かに財前には力があるし信用もある。だが規模が大きい。
全てを取り仕切るには当な負担だ。
「多分、うちが一番独創的だと思う。だが、ただ独創的なだけでも駄目だ。公共施設だからね。あまり突飛な物は受け入れられない。お役所ってのは、そういう所だ。何事もバランスが大事。今回はそれが良くできたと思うよ」
テーブルの上で指を組んで、落ち着いている様に少し胸がときめく。
彼はずっと、蕗子にとっては憧れの存在だ。強くて優しくて頼りになる男だ。
この人についていけば間違いない。ずっとそう思ってきた。
だが、個人的にどうこうなりたいと思った事は一度も無い。
だから、このときめきも、恋愛感情とは少し違うのだと思っている。
ただ普通に、ステキな人を見て胸がときめく、そういった類のものだ。
「まだ、不信そうな顔をしてるねぇ」
可笑しそうに笑った。屈託が無い。
「所長のおっしゃる事は尤もだと思いますけど、余所がうちの上をいってるって事だって考えられるじゃありませんか」
「それは無いね」
にべも無い返答に蕗子は目を見開いた。
そんな蕗子に、今度はお茶目な笑顔を浮かべた。まるで子供のような笑みだ。
「まぁ、そこはそこ。君たちの知らない間にね。余所のスパイをしてたんだ」
「はぁ?」
(ス、スパイ?何それ……)
「スパイってどういう事ですか?どこだって、機密事項の事でしょうに」
「はは、言葉の綾だよ。色々方々にアンテナを張ってね。それとなーく探ったのさ。まぁ、余所もやってる事だよ。だから、余所は余所でウチに持ってかれそうだと認識して、決定的に負ける前に既に歯ぎしりしてるんじゃないのかなぁ」
どう返したら良いのか分からなくなった。
財前は愉快そうな顔をしてメインディッシュにナイフを入れている。
不思議な人だと思うばかりだ。
前の会社に入社してからの付き合いだから、かれこれ七年だが未だによく分からない。
「君はまだまだ当分は、設計施工の仕事をどんどんこなして、顧客や現場との駆け引きを学んでいかなきゃならないが、いずれは他社との競合の駆け引きや、事務所の運営をしていく上で必要な事も覚えて貰うつもりだよ」
「それって……」
「いつかは独立するかもしれないじゃないか。しないとしたら、うちの事務所の後継者になるかもしれないんだしな」
「あの……」
「なんだよ。そんなに戸惑う事でもないじゃないか。何も今すぐと言ってる訳じゃない。今は手堅く目の前の仕事に取り組んで、その後の話しって言ってるんだし。あまり堅苦しく考えない方がいい。当分先の事だ。ただ、将来の見通しを少しは付けておいた方がいいと思ってね。気が引き締まるだろう?」
確かにその通りなのだが、『後継者』と言う言葉に引っ掛かる。
「あのね。後継者に、なるかもしれない、って俺は言ったんだよ。なるとは言って無いんだからね。早とちりしないように」
すっかり読まれている。
「俺の事務所だからさ。頑張れるまで頑張るが、いずれは死ぬ。誰でもね。その後、事務所を畳むかもしれないが、良い後継者がいれば継いでもらうかもしれない。今の時点では、吉田と君を考えているけど、その時になってみなけりゃぁ、わからないからね」
財前は、素面 の時には自分を「僕」と言うが、酔ってくると「俺」と言う。
弱い方ではないが、酒が入るとくだけてくる。
「まぁ、まだ十五年かそこらは現役で頑張るつもりだけど、十五年って短いぜ」
確かにそう思う。
財前が独立したのは四十八歳の時だ。その時点で財前は相当な力を蓄えていた。
それを考えると、うかうかしてはいられない。
「そうですね。所長のおっしゃる通りだと思います。そう考えると、人生って長いようで短いものですね」
「あははは。君が言うには早すぎるよ」
その後、他愛ない会話で食事を楽しみ、店を出た。
「いつになく、今夜は酔ったなぁ」
「そうですか?」
それ程飲んだようには思えないが、少し顔は赤くなっている。
「最近ちょっと、弱くなった気がするよ。疲れたし、今夜はタクシーで帰る。乗ってくといい」
蕗子は甘える事にした。
蕗子の家は三軒茶屋にあり、財前の家は豪徳寺にある。
少し寄り道をする形にはなるが大した距離では無いので、こういう状況になった時はよく乗せてもらっていた。
だがそれは、今の事務所に移ってからの事だ。
会社にいた時は遠慮していた。二人の仲が噂されるようになったからだ。
財前は、自分の担当する部下には押し並べて熱心に対していた。
自分の仕事だけでも忙しいのに、部下の育成にも力をかけていた。
どの部下にも分け隔ては無い。
だがどうしても、能力の差は出てくる。
蕗子は誰よりも熱心で、誰よりも努力した。何でも進んで取り組んだ。
何でも受け身な人間と、進んで取り組む人間では、それに対する相手の心証も自ずと変わって来るのは当然だ。
いつしか、財前の秘蔵っ子と呼ばれるようになっていた。
何かとパートナーを組み、一緒にいる時間が多くなると、社内で不倫関係にあるのではないかと囁かれるようになった。根も葉もない噂である。
会社側は、そんな噂は全く信じていなかった。
財前の事をよく理解していたし、信用していたからだ。
それに、財前の秘蔵っ子は蕗子だけではなかった。
吉田剣もいたし、他にも数人おり、二人きりになる時間は殆ど無かった。
だからタクシー帰宅も、他に一緒に乗る人間がいる時だけ、同乗させてもらうように蕗子も気を使っていた。
そんな気づかいも、独立してからは無くなった。今の事務所で、二人の仲を疑う人間は誰もいない。誰もが同じように財前に可愛がってもらっている。
この人は若い人が好きなんだな、といつも感じる。
だから、いつまでも若いのかもしれない。
「こんな事を聞くのも何だけど、……君は結婚はしないの?」
タクシーが走りだして五分ほど経った頃、うたた寝しているように目を瞑っていた財前が、突然そんな事を口にした。
まずはアペリティフで乾杯した。
「取り敢えず、目途はついてきたね。何とかいけるんじゃないかな」
財前は上品な笑みを口許に浮かべた。
現在、五十歳だが、年齢よりも若く見える。
髪もまだ黒々としていて、目を凝らすと僅かに白いものが確認できる程度だ。
こうしてレストランで
最初の頃は、そのギャップに驚かされた。
「大丈夫でしょうか」
コンペが通るかと言う事だ。
他に四社と競合している。どこも手堅く攻めてくるだろう。
四社の中には大手企業も入っている。
こういう大きな施工の場合、大手は豊かな物量で攻めてくる。
コストダウンだって向こうのほうが有利だ。
「僕はいけると信じてる」
その目は自信に溢れていた。
「どうしてですか?」
個人事務所には荷の重い仕事だ。依頼する方も不安を持っているに違いない。
確かに財前には力があるし信用もある。だが規模が大きい。
全てを取り仕切るには当な負担だ。
「多分、うちが一番独創的だと思う。だが、ただ独創的なだけでも駄目だ。公共施設だからね。あまり突飛な物は受け入れられない。お役所ってのは、そういう所だ。何事もバランスが大事。今回はそれが良くできたと思うよ」
テーブルの上で指を組んで、落ち着いている様に少し胸がときめく。
彼はずっと、蕗子にとっては憧れの存在だ。強くて優しくて頼りになる男だ。
この人についていけば間違いない。ずっとそう思ってきた。
だが、個人的にどうこうなりたいと思った事は一度も無い。
だから、このときめきも、恋愛感情とは少し違うのだと思っている。
ただ普通に、ステキな人を見て胸がときめく、そういった類のものだ。
「まだ、不信そうな顔をしてるねぇ」
可笑しそうに笑った。屈託が無い。
「所長のおっしゃる事は尤もだと思いますけど、余所がうちの上をいってるって事だって考えられるじゃありませんか」
「それは無いね」
にべも無い返答に蕗子は目を見開いた。
そんな蕗子に、今度はお茶目な笑顔を浮かべた。まるで子供のような笑みだ。
「まぁ、そこはそこ。君たちの知らない間にね。余所のスパイをしてたんだ」
「はぁ?」
(ス、スパイ?何それ……)
「スパイってどういう事ですか?どこだって、機密事項の事でしょうに」
「はは、言葉の綾だよ。色々方々にアンテナを張ってね。それとなーく探ったのさ。まぁ、余所もやってる事だよ。だから、余所は余所でウチに持ってかれそうだと認識して、決定的に負ける前に既に歯ぎしりしてるんじゃないのかなぁ」
どう返したら良いのか分からなくなった。
財前は愉快そうな顔をしてメインディッシュにナイフを入れている。
不思議な人だと思うばかりだ。
前の会社に入社してからの付き合いだから、かれこれ七年だが未だによく分からない。
「君はまだまだ当分は、設計施工の仕事をどんどんこなして、顧客や現場との駆け引きを学んでいかなきゃならないが、いずれは他社との競合の駆け引きや、事務所の運営をしていく上で必要な事も覚えて貰うつもりだよ」
「それって……」
「いつかは独立するかもしれないじゃないか。しないとしたら、うちの事務所の後継者になるかもしれないんだしな」
「あの……」
「なんだよ。そんなに戸惑う事でもないじゃないか。何も今すぐと言ってる訳じゃない。今は手堅く目の前の仕事に取り組んで、その後の話しって言ってるんだし。あまり堅苦しく考えない方がいい。当分先の事だ。ただ、将来の見通しを少しは付けておいた方がいいと思ってね。気が引き締まるだろう?」
確かにその通りなのだが、『後継者』と言う言葉に引っ掛かる。
「あのね。後継者に、なるかもしれない、って俺は言ったんだよ。なるとは言って無いんだからね。早とちりしないように」
すっかり読まれている。
「俺の事務所だからさ。頑張れるまで頑張るが、いずれは死ぬ。誰でもね。その後、事務所を畳むかもしれないが、良い後継者がいれば継いでもらうかもしれない。今の時点では、吉田と君を考えているけど、その時になってみなけりゃぁ、わからないからね」
財前は、
弱い方ではないが、酒が入るとくだけてくる。
「まぁ、まだ十五年かそこらは現役で頑張るつもりだけど、十五年って短いぜ」
確かにそう思う。
財前が独立したのは四十八歳の時だ。その時点で財前は相当な力を蓄えていた。
それを考えると、うかうかしてはいられない。
「そうですね。所長のおっしゃる通りだと思います。そう考えると、人生って長いようで短いものですね」
「あははは。君が言うには早すぎるよ」
その後、他愛ない会話で食事を楽しみ、店を出た。
「いつになく、今夜は酔ったなぁ」
「そうですか?」
それ程飲んだようには思えないが、少し顔は赤くなっている。
「最近ちょっと、弱くなった気がするよ。疲れたし、今夜はタクシーで帰る。乗ってくといい」
蕗子は甘える事にした。
蕗子の家は三軒茶屋にあり、財前の家は豪徳寺にある。
少し寄り道をする形にはなるが大した距離では無いので、こういう状況になった時はよく乗せてもらっていた。
だがそれは、今の事務所に移ってからの事だ。
会社にいた時は遠慮していた。二人の仲が噂されるようになったからだ。
財前は、自分の担当する部下には押し並べて熱心に対していた。
自分の仕事だけでも忙しいのに、部下の育成にも力をかけていた。
どの部下にも分け隔ては無い。
だがどうしても、能力の差は出てくる。
蕗子は誰よりも熱心で、誰よりも努力した。何でも進んで取り組んだ。
何でも受け身な人間と、進んで取り組む人間では、それに対する相手の心証も自ずと変わって来るのは当然だ。
いつしか、財前の秘蔵っ子と呼ばれるようになっていた。
何かとパートナーを組み、一緒にいる時間が多くなると、社内で不倫関係にあるのではないかと囁かれるようになった。根も葉もない噂である。
会社側は、そんな噂は全く信じていなかった。
財前の事をよく理解していたし、信用していたからだ。
それに、財前の秘蔵っ子は蕗子だけではなかった。
吉田剣もいたし、他にも数人おり、二人きりになる時間は殆ど無かった。
だからタクシー帰宅も、他に一緒に乗る人間がいる時だけ、同乗させてもらうように蕗子も気を使っていた。
そんな気づかいも、独立してからは無くなった。今の事務所で、二人の仲を疑う人間は誰もいない。誰もが同じように財前に可愛がってもらっている。
この人は若い人が好きなんだな、といつも感じる。
だから、いつまでも若いのかもしれない。
「こんな事を聞くのも何だけど、……君は結婚はしないの?」
タクシーが走りだして五分ほど経った頃、うたた寝しているように目を瞑っていた財前が、突然そんな事を口にした。