第8話
文字数 2,601文字
十八時の閉店間際に、男が一人、店に入って来た。阿部晴明だった。
「すみません。もう少し早く来るつもりだったんですが……」
所員たちは既に帰り支度を始めていた。
晴明はすぐに蕗子を認めて、春の軽やかな風のような、爽やかで優しげな笑顔になった。
その笑顔を見て、暖かい何かが蕗子の体を包んだような感覚を覚えた。
「どちら様でしょう?」
波絵に声をかけられて、晴明は慌てて名刺を差し出した。
「昼間、妻が来たと思うのですが……」
「ああ、阿部さんですね」
財前が立ち上がり、晴明の方へ歩き出したので、蕗子も慌てて席を立った。
「今日はお忙しくて来られないと、奥様から伺ってましたが」
「すみません。仕事の方がもう少し早く終わると思っていたので、夕方顔を出せれば出したいと思ってはいたんです。予想より遅くなってしまいましたが、まだ間に合うかと思いまして。妻から契約の事とか連絡がありましたので」
「そうですか。お忙しい中、わざわざありがとうございます。間もなく閉店なので、間に合って良かったです」
財前に案内されて晴明が応接室へ向かう間に、蕗子は蘇芳が帰った後に用意した様々な書類を準備してから応接室に入り、財前の隣に着席した。
おおよその事は蘇芳から聞いているようだった。どんなスタジオにしたいのかもしっかりと把握している。
夫婦で事前の打ち合わせができているようで、息が合った様が伺える。
この人と蘇芳は相性が良さそうだ。そもそも移り気な蘇芳が結婚したくらいだから、余程の愛情と信頼で結ばれているのだろう。
そう思いながら、何気なく晴明の手に視線がいった。大きめで骨っぽく、長い指先は黒っぽい色で汚れていた。
絵具だろう。夜しか描かない人の特徴的な色だ。
だけど、何故、夜しか描かないのだろう……。
「蕗子さん」
突然、声を掛けられた。
「はい?」
慌てて晴明に視線を移す。
晴明は口の辺に淡い笑みを浮かべていた。
「これからよろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げて来た。
「あ、あの。こちらこそ」
条件反射のように、こちらも頭を下げる。
「なんだか、とても忙しいんだそうですね。それなのに無理を言いまして。蘇芳からも、何も蕗子さんに拘らなくても、他の設計師さんでもいいのにって言われたんですが、あなたの担当された仕事をホームページで拝見して、何かこう、心が温まると言うか、そう言う物を感じて、あなたに是非にって思ってしまいまして」
照れくさそうな笑みを浮かべた。
「心温まるって、スタジオなのにですか?」
家を建てると言うのなら、まだ理解できる。だが、ダンススタジオなんて、そうどこも変わり映えのしない空間だ。誰が担当しても大差ない気がした。
「スタジオだけじゃないです。色んな仕事ぶりを見て、そう感じました。お願いするのはスタジオですが、殺風景な空間だからこそ、使う人が使いやすいように、細かい気配りが大事なんじゃないですか?そういう配慮が行き届く人なんだって感じたんですよ」
真摯な瞳で見つめられた。
その視線にドキリとした。
「そんな……。買い被りですよ」
どぎまぎして、俯く。そんな眼で見ないで欲しい。
「阿部さんは、よくそこまで分かりますね。蕗子さんの事を色々と妹さんからお聞きしてるからなんでしょうか」
財前が口を挟んだ。
「こんな事を自分で言うのもおこがましいですが、画家の目、とでも言いましょうか。蘇芳からは、蕗子さんの仕事ぶりについてはあまり聞いていないんですよ。仕事の虫、とくらいしか」
そう言って笑った。
「仕事の虫かぁ。確かにそれは的を射てますね」
財前も笑う。
「ホームページに掲載されている写真だけでは詳細は分かりにくいですが、僕は商売柄、色々な角度や価値観から対象を見る癖がついてるせいか、蕗子さんの扱ってきた建築物から、丁寧で細やかな仕事ぶりが伺えたと言いますか。伝わってくるものがあると言いますか……」
晴明は目を細めて、ジッと蕗子を見た。
(観察者の眼だ)
そう感じた。
この人はいつなん時も、こんな風に対象を見つめるのだろうか。
その眼に晒されて、何故か居心地が悪くなってきた。自分の中の全てを見透かされるような危惧を感じる。
電話が鳴った。どうやら、財前の携帯らしい。
「ちょっと、失礼します」
財前は慌てて応接室を出た。
二人だけになった。晴明は蕗子を見つめたまま、黙っている。
一層、気づまりに感じた。
「あの……、本当によろしいんですか?」
「何がです?」
「だって……、その……アトリエです。仕事場じゃないですか」
「ああ、その事ですか」
意外な事を訊くと言いたげな顔をした。
「最初に蘇芳から聞いた時には、驚きました」
「そうですか。まぁ確かにそうかもしれませんね。傍から見れば」
「アトリエ、新設されます?」
「あはは。営業ですか」
「いえ、そんなわけでは」
明るい笑顔になったので、少しホッとした。
「絵なら、自分の部屋で描きますよ。あのアトリエ、親が作ってくれたはいいけれど、あまり使い勝手が良く無いと言うか。周囲の住環境が変わって来たって言うのもありますけどね。自分の部屋の方が余程落ち着いて描けるんですよ。だから蘇芳が、使って無いなら自分の空間にさせて欲しいって言ってきたので、その方が良いと思いまして」
「そうなんですか。でも、普通は、そんなに簡単な話しじゃないとかって思いませんか?」
「すみません。思いませんでした」
にっこり微笑まれて、思わず苦笑する。
「蘇芳も貴方のような方と一緒になって良かったみたい。あの子のワガママぶりにも、なんのそのって感じなんですもの」
「それは……」
いきなり怪訝そうな顔をした。
「ごめんなさい。余計な事だったでしょうか」
「いえ。……ただ……」
その先の言葉を探すように、眉根を寄せている。
蕗子は黙って待った。
「そうですね……。これは一種の贖罪かな」
「贖罪?」
思いもかけない言葉が出てきて戸惑う。
「そうです。僕から蘇芳への……」
「ごめんなさい。おっしゃる意味がよくわからないんですけど」
晴明は、妙に生真面目そうな顔をすると、「今にわかります」と言った。
「それは……」
後に続ける言葉を逡巡していると、それを遮るように晴明が言った。
「良かったらこれから、うちに来ませんか?現場の下見と言う事で」
いつの間にか生真面目な顔は消え、子供のような無邪気な笑顔に変わっていた。
「すみません。もう少し早く来るつもりだったんですが……」
所員たちは既に帰り支度を始めていた。
晴明はすぐに蕗子を認めて、春の軽やかな風のような、爽やかで優しげな笑顔になった。
その笑顔を見て、暖かい何かが蕗子の体を包んだような感覚を覚えた。
「どちら様でしょう?」
波絵に声をかけられて、晴明は慌てて名刺を差し出した。
「昼間、妻が来たと思うのですが……」
「ああ、阿部さんですね」
財前が立ち上がり、晴明の方へ歩き出したので、蕗子も慌てて席を立った。
「今日はお忙しくて来られないと、奥様から伺ってましたが」
「すみません。仕事の方がもう少し早く終わると思っていたので、夕方顔を出せれば出したいと思ってはいたんです。予想より遅くなってしまいましたが、まだ間に合うかと思いまして。妻から契約の事とか連絡がありましたので」
「そうですか。お忙しい中、わざわざありがとうございます。間もなく閉店なので、間に合って良かったです」
財前に案内されて晴明が応接室へ向かう間に、蕗子は蘇芳が帰った後に用意した様々な書類を準備してから応接室に入り、財前の隣に着席した。
おおよその事は蘇芳から聞いているようだった。どんなスタジオにしたいのかもしっかりと把握している。
夫婦で事前の打ち合わせができているようで、息が合った様が伺える。
この人と蘇芳は相性が良さそうだ。そもそも移り気な蘇芳が結婚したくらいだから、余程の愛情と信頼で結ばれているのだろう。
そう思いながら、何気なく晴明の手に視線がいった。大きめで骨っぽく、長い指先は黒っぽい色で汚れていた。
絵具だろう。夜しか描かない人の特徴的な色だ。
だけど、何故、夜しか描かないのだろう……。
「蕗子さん」
突然、声を掛けられた。
「はい?」
慌てて晴明に視線を移す。
晴明は口の辺に淡い笑みを浮かべていた。
「これからよろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げて来た。
「あ、あの。こちらこそ」
条件反射のように、こちらも頭を下げる。
「なんだか、とても忙しいんだそうですね。それなのに無理を言いまして。蘇芳からも、何も蕗子さんに拘らなくても、他の設計師さんでもいいのにって言われたんですが、あなたの担当された仕事をホームページで拝見して、何かこう、心が温まると言うか、そう言う物を感じて、あなたに是非にって思ってしまいまして」
照れくさそうな笑みを浮かべた。
「心温まるって、スタジオなのにですか?」
家を建てると言うのなら、まだ理解できる。だが、ダンススタジオなんて、そうどこも変わり映えのしない空間だ。誰が担当しても大差ない気がした。
「スタジオだけじゃないです。色んな仕事ぶりを見て、そう感じました。お願いするのはスタジオですが、殺風景な空間だからこそ、使う人が使いやすいように、細かい気配りが大事なんじゃないですか?そういう配慮が行き届く人なんだって感じたんですよ」
真摯な瞳で見つめられた。
その視線にドキリとした。
「そんな……。買い被りですよ」
どぎまぎして、俯く。そんな眼で見ないで欲しい。
「阿部さんは、よくそこまで分かりますね。蕗子さんの事を色々と妹さんからお聞きしてるからなんでしょうか」
財前が口を挟んだ。
「こんな事を自分で言うのもおこがましいですが、画家の目、とでも言いましょうか。蘇芳からは、蕗子さんの仕事ぶりについてはあまり聞いていないんですよ。仕事の虫、とくらいしか」
そう言って笑った。
「仕事の虫かぁ。確かにそれは的を射てますね」
財前も笑う。
「ホームページに掲載されている写真だけでは詳細は分かりにくいですが、僕は商売柄、色々な角度や価値観から対象を見る癖がついてるせいか、蕗子さんの扱ってきた建築物から、丁寧で細やかな仕事ぶりが伺えたと言いますか。伝わってくるものがあると言いますか……」
晴明は目を細めて、ジッと蕗子を見た。
(観察者の眼だ)
そう感じた。
この人はいつなん時も、こんな風に対象を見つめるのだろうか。
その眼に晒されて、何故か居心地が悪くなってきた。自分の中の全てを見透かされるような危惧を感じる。
電話が鳴った。どうやら、財前の携帯らしい。
「ちょっと、失礼します」
財前は慌てて応接室を出た。
二人だけになった。晴明は蕗子を見つめたまま、黙っている。
一層、気づまりに感じた。
「あの……、本当によろしいんですか?」
「何がです?」
「だって……、その……アトリエです。仕事場じゃないですか」
「ああ、その事ですか」
意外な事を訊くと言いたげな顔をした。
「最初に蘇芳から聞いた時には、驚きました」
「そうですか。まぁ確かにそうかもしれませんね。傍から見れば」
「アトリエ、新設されます?」
「あはは。営業ですか」
「いえ、そんなわけでは」
明るい笑顔になったので、少しホッとした。
「絵なら、自分の部屋で描きますよ。あのアトリエ、親が作ってくれたはいいけれど、あまり使い勝手が良く無いと言うか。周囲の住環境が変わって来たって言うのもありますけどね。自分の部屋の方が余程落ち着いて描けるんですよ。だから蘇芳が、使って無いなら自分の空間にさせて欲しいって言ってきたので、その方が良いと思いまして」
「そうなんですか。でも、普通は、そんなに簡単な話しじゃないとかって思いませんか?」
「すみません。思いませんでした」
にっこり微笑まれて、思わず苦笑する。
「蘇芳も貴方のような方と一緒になって良かったみたい。あの子のワガママぶりにも、なんのそのって感じなんですもの」
「それは……」
いきなり怪訝そうな顔をした。
「ごめんなさい。余計な事だったでしょうか」
「いえ。……ただ……」
その先の言葉を探すように、眉根を寄せている。
蕗子は黙って待った。
「そうですね……。これは一種の贖罪かな」
「贖罪?」
思いもかけない言葉が出てきて戸惑う。
「そうです。僕から蘇芳への……」
「ごめんなさい。おっしゃる意味がよくわからないんですけど」
晴明は、妙に生真面目そうな顔をすると、「今にわかります」と言った。
「それは……」
後に続ける言葉を逡巡していると、それを遮るように晴明が言った。
「良かったらこれから、うちに来ませんか?現場の下見と言う事で」
いつの間にか生真面目な顔は消え、子供のような無邪気な笑顔に変わっていた。