第24話
文字数 2,055文字
晴明と蕗子は時々渋谷で一緒に食事をするようになった。仕事の後に待ち合わせる。
帰りが遅くなるので、その度に晴明はマンションまで着いてくるが、部屋へは入らずに帰るのだった。その代り、たまの日曜日にやってくる。
そんな時は、他愛のないお喋りをしながらお互いが勝手にやりたい事をやって過ごしていた。
蕗子は仕事、晴明はスケッチブックをいつも持参してきて、蕗子をスケッチしていた。
最初はスケッチされる事に抵抗があった。
ジッと見られている訳だから緊張しない筈が無い。
それに、人物を描くなんて意外な気がした。
「人間も描くの?」
そう訊ねたら思いきり笑われた。
「当たり前じゃないか。プロの画家に対して非常に失礼な質問をするんだね」
「ごめんなさい」
「まぁ、夜の絵しか見たことがないんだから、仕方ないか」
そう言われて興味が湧いた。
「他のテーマの絵もあるの?あるなら見たい」
「ごめん、無いんだ」
寂しげな笑みを浮かべた事を不思議に思った。
「デッサンはするんだ。人も静物も。でもキャンバスには描けない」
どうしてと問いたかったが問わなかった。
訊ねたら晴明が困るような気がしたからだ。
「じゃぁ、蘇芳の事もスケッチしたの?」
「うん……。踊ってる所だけ、だけどね」
済まなそうな顔をするので、蕗子は笑った。
「そんな顔しなくていいのに。私は気にして無いし」
「こんな事を言うと言い訳めいて聞えるかもしれないけど、蘇芳をスケッチしたのは、純粋に被写体としての興味からだよ。肉体を使った動きの中の躍動感とか生命力とか、そう言うものに興味を持った。均整の取れた体と顔立ちでもあるからね。モデルとして恵まれてる」
「そっか。なんか、ごめんなさい。私はいつもジッとしてるか、ゴロゴロしてるわよね。まるで対照的」
晴明は明るい笑顔を蕗子に向けた。
「君はそんな事を気にしなくていいんだ。君はそのままでいいんだ。何もしなくても、そのままで」
「ほんとに?」
「本当に」
「そんなの、つまらなくない?」
「全然。面白くてたまらない」
顔が赤くなった。矢張り、画家という生き物は理解できないと思った。
晴明がトイレに立った時、こっそりとスケッチブックを覗いてみた。
そこには様々な表情をした蕗子がいた。
自分の知らない自分がたくさんいて驚いた。
そして、心が暖かくなった。優しいタッチだったからだ。
晴明の蕗子への思いが伝わってくるようだった。偽りの無い心が。
それなのに、とスケッチブックを閉じながら思う。
晴明は、初めて蕗子の部屋を訪れた時からずっと、唇以外を求めて来なかった。
あの日、あのまま求められるのかと思っていたのに。
だが、離婚が成立してすぐにと言うのも何だか節操が無いように思われた。
蕗子自身、躊躇 う心があったのでホッとした。
いつも何気に蕗子の気持ちに配慮してくれていると感じていたから、あの時も察してくれたのかもしれないと思った。
正直なところ、蕗子は晴明の離婚を手放しでは喜べないでいた。
最初から、何の縁もゆかりもない、ただの男と女として出逢っていたら良かったのにと思うばかりだ。
そう思っても仕方のない事だと分かっているのに。
だからなのか、未だに気持ちが一定の線から先へ進んで行かないと感じている。
蕗子のそんな逡巡を晴明も感じているからこそ、求めて来ないのかもしれない。
それでも、『僕たちは愛し合ってる』と強く言いきって、自分の心を認めようとしない蕗子を強く抱きしめて蘇芳と離婚する程の強引さを持っているのに。
キスだって、決して激しくはない。
そっと、その存在を確かめるような、静かで、臆病な感じさえするものだった。
そして、離れた時に一瞬だけ、切なげな視線を寄越す。それから、安堵したように優しく微笑むのだった。
「暫く、作品制作に入る事になるんで、東京を留守にする」
七月の半ば頃、帰り際に晴明から告げられた。
突然の事だったので、蕗子は驚いた。
「え?どういう事?まさか、またアメリカとか?」
「いや。作品の注文が入ったのと、幾つか描きたい物がまとまってきたんで、一挙に片づけようと思うんだ。ちょうど大学でも前期の試験が終わって夏休みに入るからね」
「あ、夏休みね……」
晴明は私大の講師だから、夏休みの期間を大学に拘束されていない。
「それで、東京を離れるってどこへ行くの?」
「蓼科に家があるんだ」
「家?蓼科に?別荘とかじゃなくて?」
「そう。昔住んでた家。夏も比較的涼しいし、東京より空気が乾いてるから絵を描くには丁度いいんだよ」
「そう……」
(なんだか寂しいな)
「そんなに、しょげないで。こっちに用事が全然無いわけじゃないし。それにいずれ、君を案内するよ。本当は、そこで君と暮らしたいくらいだけど、君には大事な仕事があるからね。新しい住まいを見つけたら、蓼科へ行くのは避暑を兼ねて君と二人でだ。でも今はまだ暫くは、アトリエとして使おうと思ってる」
晴明は優しく蕗子の唇に唇を重ねた後、そっと髪を撫でて「また」と去っていった。
帰りが遅くなるので、その度に晴明はマンションまで着いてくるが、部屋へは入らずに帰るのだった。その代り、たまの日曜日にやってくる。
そんな時は、他愛のないお喋りをしながらお互いが勝手にやりたい事をやって過ごしていた。
蕗子は仕事、晴明はスケッチブックをいつも持参してきて、蕗子をスケッチしていた。
最初はスケッチされる事に抵抗があった。
ジッと見られている訳だから緊張しない筈が無い。
それに、人物を描くなんて意外な気がした。
「人間も描くの?」
そう訊ねたら思いきり笑われた。
「当たり前じゃないか。プロの画家に対して非常に失礼な質問をするんだね」
「ごめんなさい」
「まぁ、夜の絵しか見たことがないんだから、仕方ないか」
そう言われて興味が湧いた。
「他のテーマの絵もあるの?あるなら見たい」
「ごめん、無いんだ」
寂しげな笑みを浮かべた事を不思議に思った。
「デッサンはするんだ。人も静物も。でもキャンバスには描けない」
どうしてと問いたかったが問わなかった。
訊ねたら晴明が困るような気がしたからだ。
「じゃぁ、蘇芳の事もスケッチしたの?」
「うん……。踊ってる所だけ、だけどね」
済まなそうな顔をするので、蕗子は笑った。
「そんな顔しなくていいのに。私は気にして無いし」
「こんな事を言うと言い訳めいて聞えるかもしれないけど、蘇芳をスケッチしたのは、純粋に被写体としての興味からだよ。肉体を使った動きの中の躍動感とか生命力とか、そう言うものに興味を持った。均整の取れた体と顔立ちでもあるからね。モデルとして恵まれてる」
「そっか。なんか、ごめんなさい。私はいつもジッとしてるか、ゴロゴロしてるわよね。まるで対照的」
晴明は明るい笑顔を蕗子に向けた。
「君はそんな事を気にしなくていいんだ。君はそのままでいいんだ。何もしなくても、そのままで」
「ほんとに?」
「本当に」
「そんなの、つまらなくない?」
「全然。面白くてたまらない」
顔が赤くなった。矢張り、画家という生き物は理解できないと思った。
晴明がトイレに立った時、こっそりとスケッチブックを覗いてみた。
そこには様々な表情をした蕗子がいた。
自分の知らない自分がたくさんいて驚いた。
そして、心が暖かくなった。優しいタッチだったからだ。
晴明の蕗子への思いが伝わってくるようだった。偽りの無い心が。
それなのに、とスケッチブックを閉じながら思う。
晴明は、初めて蕗子の部屋を訪れた時からずっと、唇以外を求めて来なかった。
あの日、あのまま求められるのかと思っていたのに。
だが、離婚が成立してすぐにと言うのも何だか節操が無いように思われた。
蕗子自身、
いつも何気に蕗子の気持ちに配慮してくれていると感じていたから、あの時も察してくれたのかもしれないと思った。
正直なところ、蕗子は晴明の離婚を手放しでは喜べないでいた。
最初から、何の縁もゆかりもない、ただの男と女として出逢っていたら良かったのにと思うばかりだ。
そう思っても仕方のない事だと分かっているのに。
だからなのか、未だに気持ちが一定の線から先へ進んで行かないと感じている。
蕗子のそんな逡巡を晴明も感じているからこそ、求めて来ないのかもしれない。
それでも、『僕たちは愛し合ってる』と強く言いきって、自分の心を認めようとしない蕗子を強く抱きしめて蘇芳と離婚する程の強引さを持っているのに。
キスだって、決して激しくはない。
そっと、その存在を確かめるような、静かで、臆病な感じさえするものだった。
そして、離れた時に一瞬だけ、切なげな視線を寄越す。それから、安堵したように優しく微笑むのだった。
「暫く、作品制作に入る事になるんで、東京を留守にする」
七月の半ば頃、帰り際に晴明から告げられた。
突然の事だったので、蕗子は驚いた。
「え?どういう事?まさか、またアメリカとか?」
「いや。作品の注文が入ったのと、幾つか描きたい物がまとまってきたんで、一挙に片づけようと思うんだ。ちょうど大学でも前期の試験が終わって夏休みに入るからね」
「あ、夏休みね……」
晴明は私大の講師だから、夏休みの期間を大学に拘束されていない。
「それで、東京を離れるってどこへ行くの?」
「蓼科に家があるんだ」
「家?蓼科に?別荘とかじゃなくて?」
「そう。昔住んでた家。夏も比較的涼しいし、東京より空気が乾いてるから絵を描くには丁度いいんだよ」
「そう……」
(なんだか寂しいな)
「そんなに、しょげないで。こっちに用事が全然無いわけじゃないし。それにいずれ、君を案内するよ。本当は、そこで君と暮らしたいくらいだけど、君には大事な仕事があるからね。新しい住まいを見つけたら、蓼科へ行くのは避暑を兼ねて君と二人でだ。でも今はまだ暫くは、アトリエとして使おうと思ってる」
晴明は優しく蕗子の唇に唇を重ねた後、そっと髪を撫でて「また」と去っていった。