第22話

文字数 2,968文字

「すまない。君にとっては辛い話しだよね」

 晴明が蕗子に済まなそうな暗い視線を向けた。

「ううん。話してくれて良かったわ。知りたかったし」

 そう。知りたかった。
 結局どうなったのかを。

「その日の後だったんだと思うけど、父から携帯に電話がかかってきたの。あなたを酷い男だって言ってたわ。それで、離婚はほぼ決定だって。でも、相変わらず頭から私たちの事を決めてかかってたし、諦めるなら家に戻って来ても構わないって」

「それで君は何て?」

 蕗子は笑った。

「何ても何も、言うだけ言って一方的に電話を切られたわ」

「ごめん。悲しかっただろう?」

「あなたが謝る事じゃないわ。何て親なんだろうって思ったけどね。……それより、蘇芳がそれでも離婚を渋ってるって父が言ってたけど……」

「ああ……。翌日、蘇芳から電話があってね。昨日は興奮したから暫く落ち着いてよく考えたいって。だから、そうして貰ったんだよ。あまり長いと僕も手段を講じると言ってね。これって、ある種の脅迫だよな。ほんとに酷い男だ」

 それから暫くして、離婚を了承する連絡が来た。
 そして昨日、離婚届を提出した。

「日本に帰ってこなければ良かった。そしたらずっと、晴明のそばにいられたのに」

 別れ際に蘇芳はそう言ったそうだ。

 そうなのかも知れない。
 そうしたら自分も、相変わらずの仕事虫でいられた筈だと蕗子は思った。
 果たしてそれが良いのか悪いのかは分からないが。

「そろそろ帰ろうか」

 言われて時計を見ると十時を回っていた。
 財布を出したら、「ここは僕が払う」と言われた。

「迷惑料って事で」

 片目を瞑って笑ったので、その様が可笑しくてつられて笑った。

「さて。家まで送るよ。三軒茶屋じゃないよね?もう引っ越したんでしょ?」

 わざと首を傾げておどけている。

「大丈夫。近いから」

 蕗子もおどけて笑顔で歩きだしたら、いきなり背後から抱きすくめられた。

「近くてもいいから、送らせてくれ」

 蕗子は震えた。胸が高鳴っている。
 やっとの事で声を出す。

「わかったから、離して」

 晴明はギュッと腕に力を一度入れてから、蕗子を解放した。

「もうっ、恥ずかしいじゃない……」

 蕗子は赤くなりながらぼやいた。

「君が冷たい事を言うからだよ」
「だからって、若い子じゃあるまいし」

 自分はもう三十路に入ったし、晴明だって三十五だ。
 いい年をした、オバサンとオジサンだ。

「恋愛に年齢は関係ないよ」
「それはそうだけど……」

 要するに照れくさかっただけだ。
 それに、突然の事で心臓が破裂せんばかりに喘いでいて苦しかったのもある。

「さぁ。ご自宅はどこですか?近いって、この辺?」

 そう言って、手をかざしてキョロキョロと辺りを見回している。

「もう……。幾らなんでもそんなに近くはないわよ。家賃が高過ぎるでしょう?」

 こんなにお茶らけた面がある人だとは思っていなかった。

(もしかして、吉田さんと同類かも?)

 だとしたら、吉田を好きになっていた方が、遥かに良かったのではないか?

「そんな、呆れたように笑わなくても……」
「だって、呆れるほど子供っぽいって言うか」
「若い子じゃないのにな」
「自分で言うか!」

 送って貰う事に(いささ)かの抵抗を感じていたが、諦めた。

 東横線の方へ歩いて行くと、「電車に乗るんじゃ、近いとは言えないよ」と、晴明が抗議でもするような口調で言った。
 しかも、祐天寺で降りたら「なんだ、全然近くないじゃないか」と更に文句口調になった。

「ここよ」と、マンションの前まで来た時に、腕時計を確認して、「約五分か。駅からは近くて取り敢えず安心した」と言った。

「じゃぁ」
 蕗子は笑顔で片手を挙げた。

「何だよ。『寄ってかない?』とか『お茶でもどお?』とか、普通言いませんでしょうか?」

 ふてくされたように言う。

 蕗子は溜息をつくと、マンションの入口近くにある自販機でお茶を買った。

「はい。お茶。じゃぁ」

 手にしたお茶を晴明に押し付けて、蕗子は踵を返してエントランスの中に入ろうとした。

「おい、ちょっと待て」
 後から肩を掴まれて、引き戻された。

「どうして、ここで『じゃぁ』なんだ?」

(だから、送ってもらいたくなかったのに……)

 蕗子は晴明を見上げた。
 整った顔が不満げに蕗子を見おろしている。

「どうして、入れないといけないの?」

 晴明はショックを受けたような顔をした。
 当然だと思っていたのだろう。だからショックを受けるんだ。
 だがすぐに、呆れたような顔になった。

「全く君は。そんなだから冷たいって言われるんだ。だが僕は、そう思わない。ただの意地っ張りなだけだ。僕はただ、君がどんな所に住んでるのか知りたいだけだ。家を出る事になったのは僕のせいでもあるしね。本当なら、一緒に部屋を探してあげたかった。一人で心細い思いをしてるに違いないって。その事でもし怒っているなら謝るよ。だから、部屋を見せて欲しい。長居はしない。電車が無くなったら困るからね」

 真剣な目でそう言われてまで、拒否する気力は無かった。

「わかったわ。だけど、狭いし、なんにもないから。お茶だって、今渡したのしか無いから」
「ええ?」

 晴明は手にしたお茶を改めて見た。
 蕗子はオートロックを解除して中に入る。晴明も慌ててその後を追って来た。
 エレベーターに乗り五階のボタンを押す。エレベーターの中ではお互いに無言だった。

「ここよ……」

 蕗子は自室の鍵を開けた。正直見せるのが恥ずかしい。
 何も無いから散らかっていないが、本当に何も無い殺風景な部屋だ。きっと驚くだろう。
 狭い玄関で靴を脱ぐと、電気のスイッチを入れた。

「ああ、典型的なワンルームだ」

 声にどこか懐かしい場所へ来たような感情がこもっているように聞えた。

「お邪魔します」
 遠慮気味に靴を脱いで、辺りをキョロキョロと見まわしている。

「なんか、変な感じがするな」

 晴明が首を傾げ始めた。
 晴明の言葉に、蕗子は真っ先にガスの元栓を確認した。

「ガス洩れとか、無いと思うけど……」
「いや、そういうのじゃなくて。何て言うか、受ける印象?」

 晴明は左右にあるドアを開き、トイレとユニットバスを確認しながら、なおも不思議そうな顔をしていたが、やがて得心がいったような表情に変わった。

「分かった!なんにもないって、本当に何も無いんだ。って言うか、なんで冷蔵庫が無い?洗濯機も無いよな?」

 晴明は奥の部屋との間にあるスライド扉を開いて、立ちすくんだ。

「なんだ、これ」
 恐ろしい物でも見るように、そっと蕗子を振り返った。

「だから言いました。なんにも無いって。お茶すらも。だから、寄ってけとかお茶どーぞとか、言えないでしょ?お客様をお通ししても、おもてなしができるような部屋じゃないの」

 暫く唖然とした顔で蕗子を見た後、晴明はジッと目を凝らすような顔になった。

「君が几帳面な事は蘇芳から聞いて知ってる。いつだって、部屋はきちんと片付いて綺麗なんだって言ってたよ。蘇芳にとっては息が詰まるほどらしい。だから、散らかってるから入れたくないって事は無いだろうとは思ってたけど……」

 晴明は再び部屋の方へ頭をやると、肩を落として溜息をついた。

 まぁ、誰だって、この部屋を見たら呆れるだろう。
 引っ越してきて間が無いとは言え、生活必需品とも言える、冷蔵庫まで無いんだから。
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