第52話

文字数 3,090文字

 晴明は翌日、大学を休んだ。
 初台にも行かず、家で一日静養した。

 蕗子は早めに職場に行き、夕べの痕跡を綺麗に掃除した。
 カッターナイフは洗ってから捨てた。

 こういうのって、まさか証拠隠滅?と思ったが、考え直す。

 昼休みに財前に報告した。ただ、父にレイプされそうになった事は言わなかった。晴明とばったりここで出くわして、口論が嵩じて父がナイフを手にしたと話した。
 財前は厳しい顔で蕗子の話しを聞いていた。

「一体、君のお父さんはどうしちゃったんだろうな。立派な銀行マンだと思っていたのに」

 本当にそう思う。ただ、父がもうずっと蕗子に異常な感情を持っていたのは信じられない思いだった。今にして突然目覚めた訳では無かった。

 晴明との事はきっかけに過ぎず、元々ずっと持っていたものだった。
 そして、母はそれに気付いていた。今母はどうしているのだろう。
 父のこの行動を知っているのか。

 いずれにしても、きっと蕗子を恨んでいる事だろう。
 もう、どちらにも会えないし、会う気も無い。

「十代の家出娘ならいざしらず、既に結婚して孫ができてても可笑しくない歳だろうに。何なら俺から取りなそうか?」
「いえ。そうして貰っても無駄だと思います。父は、所長との仲も疑ってるんですよ?」
「ええ?」

「所長が離婚された事、どういう訳かうちの父、知ってます。勿論、私は何も言ってませんよ。お前は既婚者キラーだな、的に言われました。頭きちゃいますよね」

「はっ!とんでもない事を言うんだな。自分の娘をそんな風に言うなんてな。そうやって貶めておいて、なぜ連れ戻そうとするんだろう。本来なら、勘当する方だろうよ」

 財前が首を傾げて考え込んだので、蕗子は話しを打ち切った。
 父の行動はまともじゃない。それを深く突き詰めて、その異常な感情を感じ取られたら困る。

「これからも、もしかしたら何か迷惑をかけることをするかもしれないので、相手にしないようにお願いします。下手に構うと、とばっちりを受けかねないですからね」
「そうか。わかった」

 全く、これが実の父親でなかったら警察にストーカーとして届けるところだ。
 色々あったものの、晴明と一緒になって良かった、幸せだと思っていた矢先に、こんな事が起きるとは思ってもみなかった。

 父の事を甘く見ていたと思う。油断していたと言ってもいい。
 これからはもう少し警戒しなくては。

 二日目には晴明も、左足を少し引きずりながら大学へ出かけていった。
 大した怪我ではないものの、力を入れると痛いらしい。
 刺された直後はズキズキしたらしいが、治療されて痛み止めも飲んだので、それからは普通にしている分には痛くないらしい。

「女生徒たちがさ。『先生大丈夫ですか?』って心配げに寄ってくるんだ。普段だったら、ウザイの一言なんだけど、こういう時って何だか心配してくれるのが嬉しく思えちゃうんだね。『肩をお貸ししましょうか』なんて子もいるんだよ」

 嬉しそうに笑って話しているのが、憎たらしく思える。

「何、鼻の下を伸ばしてるのかしら?それで、肩をお借りしたの?」

 つっけんどんに言う。こんな人とは思わなかった。
 心配して損したとまで思う。

「借りるわけないでしょう。ただ、人の親切が身に沁みたって言ってるだけだよ」
「人?そうじゃなくて、女性の、でしょう?」
「蕗子さん。ご機嫌斜めだなぁ。もしかして焼きもち?君がそんなに嫉妬深いとは思って無かったな」

 カチンときた。

「とんでもない。この私が、焼きもちなんて有り得ないでしょ?客観的に誰が見ても同意する事実を述べただけじゃない。あなただって普通に男なんだから、当たり前の反応でしょうしね。だからと言って、生徒に手を出しちゃ駄目よ?大学にいられなくなっちゃうし、白川教授にもご迷惑をおかけする事になっちゃうんだから」

 蕗子は嫌味っぽくそう言って、コーヒーカップを持つと仕事部屋へ入った。

「蕗子さーん……」
 情けなさげな声で自分を呼ぶ晴明を無視した。

(あー、それにしても、むしゃくしゃする)

 パソコンの電源を入れて、蕗子はゴクリとコーヒーを飲んだ。
 あの人は、なんでわざわざ、あんな事を言うんだ。妬いてもらいたいのだろうか。
 まったく訳が分からない。

 よく悪ふざけをする人ではある。
 翳りのある繊細そうな男なのに、その実、妙な茶目っけがあり、その一方で、暗く湿った面も持ち合わせていて、時に扱い難い時がある。

 パソコンが起動してファイルを開けたら、蕗子はそれに没頭した。
 晴明の事も忘れて、目的のフォルムを出す為の計算式にはまりこみ、思考錯誤を繰り返す。
 デザインだけでは作れない大変さがあるが、それを解決できた時の爽快感はたまらない。
 数学の難問が解けた時以上だと蕗子は思っている。

 ドアをノックする音に気付いて時計を見たら、零時を回っていた。
(もう、こんな時間……)

 一人暮らしをした時には、パソコンを開いたまま、寝てしまう事もあった。
 目が覚めたら朝だった。そんな事もザラだった。

「蕗子さん……」
 ドアがそっと開いて、遠慮勝ちに晴明が声をかけてきた。

「うん。もう寝るから……」

 蓼科にいた時とは違う。あの時のように、毎日二人の時間を満喫するなんて事は無理だった。あの時は、仕事を休めて嬉しかったが、東京に戻って来てからは以前の自分に戻ったと思う。
 何より仕事が優先になった。

 晴明も、蕗子が仕事に没頭している時にはリビングでデッサンをしたり、ちょっとした絵を描いて過ごしている。
 雑誌の挿絵の仕事などもちょこちょこと入って来て、それはこの恵比寿の家でやっていた。

 蕗子はネグリジェに着替えて寝室へ入った。元々、寝る時はTシャツとレギンスなどの格好だった。だが、蓼科以降、すっかりネグリジェになった。
 ネグリジェ派になった訳ではない。半ば強制的に着用させられているのだった。

 蓼科で晴明が買ったネグリジェは、そのまま蓼科に置いてある。
 あちらへ行った時用として置いておくよう晴明に言われた。そして、東京で新しいネグリジェを晴明と共に買いに行った。

 晴明なりの拘りがあるようで、自分好みの物を着て欲しいらしい。だから一緒に選ぶ。
 一緒に選ぶのは、蕗子自身も納得した上で着用できる物、との晴明らしい気遣いからだった。
 独断で選ばれて着させられる訳ではないので、蕗子は受け入れている。

「おお、我が天使」
 晴明が嬉しそうに腕を伸ばして蕗子を抱き寄せた。

「心配したよ。機嫌はもう、治った?」

 晴明の胸に頭を(もた)せ掛けて「悪くさせたのは、あなたでしょ」と言った。

「やっぱり、悪かったんだ。僕は事実を報告しただけなのに」
「私も事実を指摘しただけよ」

 お互いにクスリと笑った。

「ねぇ……。事実だとしても、どうしてなの?時々、意地悪よね」

 晴明は抱いている手を緩めて、蕗子の体を少し離した。

「君に、妬いて欲しいんだ、きっと」
「はぁ?それこそ、なんで?」
「好きだからに決まってるじゃないか」

 蕗子は呆れた。

「子供みたいな事をするのね」

「そうなんだろうね。自分でもそう思うよ。でも、仕方が無い。ただ、本気で君を怒らせようとしてる訳じゃない。君のそういう姿が可愛くてさ。でも意地っ張りだから、いつまでも怒ってられたら、それはそれで困るんだけどね。勝手だって分かってるよ」

「結局……、私って遊ばれてる?」

 晴明は静かに微笑むと、そっと唇を重ねて来た。
 柔らかくて温かい唇から、吐息が洩れて蕗子の心をくすぐった。

 そして、その唇が言った。

「僕の方こそ、遊ばれてるんだよ」

 二人の夜が静かに更けていった。

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