第46話

文字数 4,055文字

「そんな、非常識とまでは言わないよ。ただその……ハタチやそこらの子供ならまだしも、分別のある大人の二人がサ……。びっくりするしかないだろう?」

 情けないような顔をして、同意を求めて来た。

「それは、分かります。相当、驚かれるだろうと思ってましたから。自分でも今更ながらに驚きです。ただ、こんなに急いだのにはちょっと事情があるんです。彼も、来春くらいを目途にって考えていたそうですし」

 蕗子に言われて、財前も少し落ち着きを取り戻してきた。

「その事情ってやつは、聞かせては貰えないんだろうね」

「すみません。ただ今言える最大の理由は、誰にも邪魔をされたくない。引き裂かれたくないって思いが強いから、って事ですね」

「そんなにも好きなのか……」
 財前の顔は落胆していた。

「はい」
 蕗子は笑った。

「蕗ちゃん。蕗ちゃんは真面目だ。生真面目と言ってもいい。仕事虫と誰からも言われるほど、仕事に夢中だった。そういう人間が恋愛すると、夢中になって深みにはまりやすい。若い頃に遊びを知らなかった真面目人間が、中高年になってギャンブルにはまって身を滅ぼすのと似た道理だ。こんな事を言って気分を害するだろうが、俺は敢えて言わせて貰う。何故なら君が心配だからだ」

 財前は厳しい顔つきだった。
 
「お父さんの反対が拍車をかけてるんじゃないのかな。ムキになってないか?彼と始めるにしたって、もう少し時間をかけて愛を育んで、十分良く考えてから結婚するものだ。一生の問題なんだから。こんなにも、一挙に(なだ)れ込むように気持ちが傾斜していくのは、はっきり言って危険だと思うよ。まさに何も見えていないとしか言いようが無い」

 財前の真剣な面持ちから本当に心配している事が伝わってくる。
 ただのお節介でも、自分の恋が破れたから言っているのでもないと分かる。
 
「所長。ご指摘は御尤もだと思います。心配して頂いて、有難いです。父の事が拍車をかけてるって言うのも、そうなんだろうって思います。でも、私達、子供じゃないですから。確かにしてる事は、若い子たちと変わらないように見えるとは思いますけど。夢中になってるのも、そうだと思います。ただ、仕事への情熱も相変わらずちゃんと持ってますし、前よりも仕事への思いが深まったって感じてるんです。気力が一層充実しているのを感じてます。だから、大丈夫です」

 財前はマジマジと蕗子の顔を見つめた後、小さく息を吐いた。

「分かったよ。君がそう言うなら。……確かに午前中の君の仕事を見る限り、心配な様子は無いしな」

 そう言いながら、財前は僅かに首を横に振った。
 理解できはしたが、納得はしたくないのかもしれない。

「それであの、事務所の皆には、どうしたらいいでしょう?結婚した事で、色んな書類上の手続きが必要になってくると思うので、事務の波絵ちゃんにやって貰わないとなりませんし……」

「そうだな。……ただ少し心配なんだろう?相手が彼だから」

 蕗子は頷いた。晴明と自分の関係は、財前には早々に伝えてあるが、皆は知らない。
 蘇芳と離婚した為にスタジオの注文は御破算になってしまった、それだけだ。

 ここで蕗子が晴明と結婚したと知れば、どうしても妹との三角関係の結果の奪略婚だと思われるだろう。
 それに、結婚するにしても、どうしてもう少し後にしないのか、と思われるのも必須だ。

「なんなら、俺が書類の手続きはやってもいいぞ。年内いっぱいくらいは言わなくてもいいんじゃないかって気がするが」

「そうですね。でも……。所長の手を煩わせるのも申し訳無いって思うのと、あと、やっぱり色々と不具合も出てくるんじゃないかって。仕事上、役所とのやり取りが多いじゃないですか。それを考えると、一応、伝えておいた方がいいのかなって……」

 何より、保険証の氏名変更や税金の申告等がある。そういう書類をやりとりするのは波絵だ。
 財前がやったとしても、書類は事務所に送られてくるわけだから、波絵が受け取る事になる。名前を見れば不審に思うだろう。

「確かにな。じゃぁ、どうするか。いつ、どういう形で切りだすか」

 財前は眉間に縦皺を入れて考え込んだ。

「思うんですけど、この後じゃ駄目ですか?昼休み明けに」
「いいのか?そんな急に」
「言うなら早い方がいいのかな、って。それに、書類の手続きもできるだけ早くやってもらいたいですし。何かと不便ですから」

 蕗子は財前と話しているうちに、覚悟を決めた。
 周囲は色々と言うかもしれない。何も知らないのだから、それはそれで仕方が無い。
 そういう事の全てを覚悟して、早々に晴明と入籍したのだから、気にする必要などないのだ。

 昼休み終了後、財前は全員に集合をかけた。

「突然でみんなも驚くと思うが、蕗ちゃんが昨日、結婚したそうだ」

「ええー?」
 全員が驚いた顔で蕗子を見た。
 寝耳に水とはこの事だろう。

「け、結婚?なんでまた急に……。そういう相手、いたんですか?」

 波絵がそう思うのも当然だろう。そもそも皆そう思っていた筈だ。
 何せ仕事虫なのだから。

「急にね。決まったの。で、そういう事なので、保険とか各種書類の氏名変更等、波絵ちゃん、お手数だけどお願いします」

 蕗子は波絵にペコリと頭を下げた。

「え?はい。分かりました。それは大丈夫です。おめでとうございます。だけど、お相手は、どんな人なんですか?私達の知ってる人かな。新しい苗字は何ですか?」

 キラキラした目が訊いていた。
 蕗子が財前の方を見ると、彼は深刻そうに頷いた。

「阿部蕗子になりました」
「え?阿部?……え?ええ?阿部って……」

 驚いている波絵に蕗子が微笑んで頷くと、彼女の顔が見る見る青ざめていくのが分かった。傍にいた吉田や原田も信じられないような顔をしている。

「蕗ちゃんは、妹さんと離婚した阿部晴明さんと結婚したんだよ」

 財前の言葉に、皆はまるでとどめでも刺されたように固まった。
 暫く沈黙が続いた後、吉田が口火を切った。

「蕗ちゃん……。一体、どういう事?阿部さんと結婚って……」
「そうですよ。どうしてなんですか?」

 吉田に釣られたように、波絵が叫ぶような口調で問うた。

「もしかして……略奪?」

 原田の呟くような言葉に、皆の表情が硬くなった。
 蕗子は、自分の心が一瞬折れそうになるのを感じた。だが、すぐに立て直す。

「相手が相手だから、みんながそう思うのも当然だけど、略奪とは、ちょっと違います。初めて逢った時から惹かれていたのは事実だけれど、まさか彼が蘇芳と離婚してまで、とは思ってなかったの。でも、彼にも色々あってね。蘇芳と別れて私と一緒になりたいって言われた時はショックだったし、そんなの受け入れられなかったけれど、でも結局、こういう事になりました。結果的に略奪って言われても仕方ないけど、彼が結婚中に、付き合ってはいません。その事は信じて欲しいって思ってます」

 空気が重いと感じた。
 みんな何を言ったらいいのか分からずにいるに違いない。
 相手が晴明で無ければ、驚きながらも祝福ムードになったんだろうに。

「私……よく分かりません。蕗子さんの話しを聞く限りでは、不倫してたわけじゃないんですよね?でも、結婚してるのに……、結婚したばかりだって言うのに、阿部さんは、自分の妻のお姉さんを好きになってしまったって、そういう事なんですよね?そして、蕗子さんも……」

「簡単に言えば、そういう事だけど……」

 事実だけを端的に言えば、そういう事になる。
 言葉がいかに真実を伝えられないか、改めて分かる。

「酷くないですか?」
「……酷いと思う」
「なら、どうして……」

 やめなさい、と財前が割って入った。

「波絵ちゃん。そんな事は蕗ちゃんには分かっている事だ。それでも一緒になったって事は、それだけの深い理由があっての事だろう。周囲がどう思うのかも、子供じゃないから十分承知している筈だ。それを覚悟で一緒になったんだ。僕は、蕗ちゃんとは長い付き合いだから、蕗ちゃんの事はそれなりに分かっているつもりだ。好きになったから一緒になります、心変わりしたから別れます、そんな簡単な事じゃないと思ってる。今すぐは分からなくても、少しずつ分かってやってくれないかな。……みんなも」

 財前はみんなを見まわした。
 吉田も原田も憮然としていた。矢張り納得できないんだろう。それも仕方が無い。
 ただ、こう言ってくれた財前には深く感謝する。
 さっきは気に入らないような顔をしていたが、矢張りこの人は懐の深い人なんだと思った。

 財前は、溜息交じりに言った。

「いいか、みんな。阿部さんは、ちゃんと蕗ちゃんと付き合いたいから離婚したんだ。たまたま蕗ちゃんと蘇芳さんが姉妹だったってだけなんだ。で、それほどの情熱で求愛されたんだから、蕗ちゃんがそれに応えるのも当然だろう。まぁ、この急な入籍は、さすがの俺も早いと思うが、当人同士の問題なんだし、周囲があれこれ口出す事じゃない。二人とも三十過ぎの大人なんだからな」

 そう言った後、改めるように毅然とした態度になった。

「それでだ。この事が自分の中で納得できないからと言って、蕗ちゃんに辛く当ったり、仕事に支障をきたすような事をしたら、俺は許さない。プライベートの問題だ。仕事には持ち込まないでくれ。いいな。以上、解散!」

 財前はそう言うと、自分のデスクへ戻って行った。
 財前の言葉を受けて、三人とも少し自分を取り戻したように、小さな笑顔を浮かべた。

「蕗子さん、ごめんなさい。責めるような事を言って……。まだ私、正直言って良くわからないんですけど、でも、略奪じゃないって事はわかりました。結婚、おめでとうございます。幸せになってくださいね」

「僕もすみませんでした。変な事を言って。おめでとうございます」

 二人は蕗子と軽く握手をして自分のデスクに戻っていった。

「蕗ちゃん、おめでとう。すごいショックだ」
 吉田は笑いながらそれだけ言って自席へ戻った。

「みんな、ありがとう」
 蕗子は深々とお辞儀をした。

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