第34話

文字数 2,463文字

「スーツ、クリーニングに出していいかな」

 ジャージを着終えた時に、晴明が言った。

「ついでに服を何着か買わないとな」
 照れくさそうに笑っている。

「ねぇ……。どうして買ってあるのは下着だけなの?」

 蕗子は率直に訊いてみた。
 晴明の白い顔に赤みが差した。

「服はさ。万一無くても僕ので間に合うだろ。でも下着はそうはいかないじゃないか」
「それはそうだろうけど、どうせ買うならついでに買っても良くなくて?」
「服はサイズも難しいし、買うなら一緒に選びたい。それに何より、好きな女が、自分の服を着て、そのブカブカな様がサ、可愛いでしょう、そういうの」
「はい?」

 目を合わせずに、うろたえている。
 蕗子は可笑しくて笑いだした。可愛いって、そっちこそ可愛い。
 いい歳した大人の男が、こんな事を言うなんて。

「笑うなよ」
「だって……」

 見た目は若々しいが、内に凄く暗いものを秘めているせいか、落ち着きがあると言うのに、時々見せる子供っぽさが妙に女心をくすぐってくる。
 晴明は笑う蕗子をいきなり抱きしめた。

「あっ……」
 ジャージの上から乳房を掴まれた。

「ブカブカのジャージ姿……、凄く、可愛いよ……」
 耳元で囁くように言って、首筋に唇を這わせてきた。

「晴明さん……」
「自分のものだって、実感するんだよ……。僕の選んだ下着を着けて、僕の服を着て。……愛してる。誰にも渡したくないよ」

 唇が重なり合った。啄ばむように、互いの唇を吸い合った。
 そっと離して見つめ合う。

「分かってくれた?」
 蕗子はこくりと頷いた。

「じゃぁ、クリーニングに出すついでに、服を一緒に買おう」
「そうね……って、あーっ!!」
「どうしたの?」

 蕗子は壁の時計を見て驚いた。九時を回っていたからだ。

「やだ、しまった!!もう九時過ぎてる!」
「えっ?」

 蕗子は急いでバックを掴むと、中からスマホを取り出した。
 着信ランプが点いていた。

「ヤバイ!」
 と言いながら、ボタンを押す。

「あっ、私です。五條です。ごめんなさい!!今日、都合で行けそうにないの。お休みします。ごめんなさい!……あ、はい……」

 晴明は呆気に取られた顔をしていた。

「あ、もしもし、所長?すみません。本当に申し訳ありません。……あの……、夕べあれから、ちょっと色々あって……。差し迫ってたので、東京を脱出しちゃったんです。今日休む事は、ちゃんと連絡するつもりだったんですけど、なんか取り込んでしまって……。はい、はい、大丈夫です。……え?でも……。それじゃぁ、そちらは困るんじゃ……。本当にいいんですか?……はい……。ありがとうございます。それじゃ、お言葉に甘えさせてもらいます。……はい。詳しい事は、また後日にお話ししますので。……はい。はい。はい、わかりました。はい。はい。どうも失礼します」

 蕗子はペコリと頭を下げて、電話を切った。
 ふぅ~、と大きく溜息をつく。とんでもない、大失敗だった。会社に休む連絡を入れ忘れるとは。無断欠勤するところだった。

「蕗子さん……」

 晴明を見ると、驚き呆れて二の句が継げないといった顔をしていた。

「あはは、やっちゃった~。私とした事が……」

 蕗子はポカポカと自分の頭をゲンコで小突いた。
 晴明は小さく息を吐くと、笑顔で言った。

「いや、僕も悪かった。気付かなくて。週末でも無いって言うのにね。君には大事な仕事があるって言うのに、ずっとここに居るつもりになってたよ」

「晴明さん……。ごめんなさい。あなたのそばに、ずっといたい。でも仕事があるから」

 蕗子は寂しげな顔をして、晴明を見上げた。
 そんな蕗子をせつなげに見る晴明に、蕗子はニンマリと笑った。

「この際だから、一週間、休みをくれるって!キャハ」
「えっ?」

 晴明は一瞬、理解できなかったようだ。

「え、何?どういう事?」
 訊き返してきた。

「やぁねぇ。アメリカにいすぎて、日本語理解力が低下しちゃったとか?」
「ちょ、なんだよ、君ってばそんな酷い事を言うのかよ。ちゃんと説明してくれてもいいだろう?」

 うろたえてる晴明を見てるのが楽しい。こんな風に、この人をオロオロさせるのが。自分にこんな一面があるとは思わなかった。
 そんな自分を愛おしく感じる。今まで体験したことのない感覚だ。
 恋人との、こんな時間が蕗子を幸福な気持ちにさせる。

「所長がね。どうせ、そろそろ夏休みの時期に入るから、このまま一週間、休んでいいよ、って言ってくれたのよ。ね?嬉しいでしょう?」

 浮かれている蕗子の様を見て、晴明は呆れ顔になった後、嬉しそうに笑った。

「凄く嬉しいよ。君が仕事を休める事を喜んでいることが。誰より仕事虫の君が、僕と一緒にいられる方を喜んでくれてる事が。とっても」

 蕗子はハタと晴明を見た後、ゆったりと微笑んだ。

「ありがとう……。私、本当に嬉しいの。長くは無いけど、暫くは一緒にいられる。あなた、私の所に泊まった事、一度も無かったわよね。まぁ、あの狭い、何にも無い場所じゃ、泊まっても朝食は調理パンとかしかないけど……、でもね。私本当は、言わなかったけど……寂しかった。
あなたが蘇芳と別れる前から、夜空を見る度に、星は見えないけど、あなたの絵を思い出して、それからあなたを思い出して、胸が(きし)んだ。自分の心を打ち消すようにしてたけど、それでも……」

「ごめんよ……、気付かなくて。君の部屋へ出入りするようになってから、何度泊まっていきたいと思った事か。だけど、僕はできなかった。しちゃいけないと思ってた。だから、君が来てくれて、本当に良かったよ。君は、身ひとつで来てくれた。三軒茶屋を出る時には持って出た大事なパソコンすら持たずに……。まぁ、差し迫っていてそれどころじゃなかったんだろうけど。だから、そんな思いをして来てくれたのに、僕は悪かったよね。本当に、ごめん」

 晴明は蕗子を抱きしめた。蕗子も抱き返す。

「離したくないよ」
「離れたくない……」

 蕗子は晴明の腕の中で、彼の匂いを感じながら、ふと思った。
 亡くなった人とも、こんな風に離れがたかったのかと……。

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