第28話

文字数 4,208文字


 帰りの道すがら、蕗子は財前の言葉を反芻しながら考えた。

「俺だったらマメに連絡する」、そうだろう。多分、大体がそうなんだろう。
 だが所詮は「俺だったら」の話しで財前は晴明ではない。

「何より相手を求めている時期じゃないか」との言葉も尤もだと思う。
 だが一番のネックは、晴明の過去だ。そして、父の行為。財前はそれを知らない。
 だから財前が言った事は謂わば一般論だ。

 何故連絡してこないのか。理由はある筈だ。
 本当に仕事に没頭しているのかもしれないが、それにしては二週間は長すぎると思う。

 二週間も飲まず食わず寝ずに絵を描き続けている訳ではないだろう。当然、休む時もある筈だ。そんな時に蕗子の事を思い出すだろう。

 愛していると言うのが本当は嘘であったなら、思い出さないことも有りなのかもしれない。
 もしくは、なかなか自分の気持ちを伝えない蕗子に愛想がつきて、蕗子の方から連絡してくるまで、わざと連絡せずに待っている。

(違うな……)

 そんな単純な、馬鹿げた話ではないと思う。

 父からの書類に気付かずに、まだ見ていないとか……。
 それこそ、仕事に夢中で。
 いや、そうだとしても、連絡してこない理由とは関連性が無い。

 じゃぁ、見た事を前提にしてみたら?
 私が彼だったら。
 ショックだろう。

 私が彼だったら、彼女が異母妹だった事を蕗子に一番知られたくないと思う。
 なぜなら矢張り、おぞましいと思われるに違いないと考える。でも彼は、彼女の存在は教えてくれた。

 知られたくない事を知られてしまって、自分ならどうするだろう。
 何も言わないまま、姿を消す?
 どうして?
 こんな事を知られて、合わせる顔が無い、か。もう駄目だ、これで終わりだと思うか……。

 蕗子はこれまでの事を思い出した。
 彼が時々見せる、寂しそうな眼。

 離婚が成立して、青山の事務所まで来た時に、一緒に駅への道を向かっていた時の彼の厳しい顔つき。
 あの時、他に何か心配ごとでもあるのかと思った。

 躊躇う蕗子を余所に、マンションまでついて来て、蕗子を離さんばかりに強く抱きしめながら、キスしかしなかった彼。

 蕗子の部屋で一日過ごしながら、ただスケッチしかしなかった彼。

 別れ際に遠慮勝ちにする優しいキス。

 蕗子を得る為に、あんなにも強引だったのに、いざ手にしたら戸惑うように、躊躇うように、遠慮がちな彼。

 一体、何に遠慮していたんだろう。
 蕗子に遠慮するくらいなら、最初からああも強引に事を進める必要も無かった筈だ。

 そうだ。確か、障害が無かったら、出逢った瞬間に抱き合っていた筈だとか言っていなかったか。
 その障害が無くなったと言うのに。

 矢張りおかしい。何か深い訳があるとしか思えない。
 それとも、こうなる事を予想していたか。いずれ秘密が暴かれる事を。

 そんな風に考えているうちに、家に着いた。
 ポストに郵便物が入っていた。手に取るとエアメールだ。

 蘇芳からだった。別れ際に散々罵ってアメリカへ渡った妹。一体、何なんだろう?
 そもそも、ここの住所を知っている事が不思議だ。父から聞きだしたのか。
 逸る気持ちを押さえながら、部屋でゆっくり読もうと、取り敢えずバッグの中に入れた。

 鍵を開けて中へ入ったら、玄関の三和土(たたき)でつま先が異物に触れた。
 狭いから他に靴は置いていない。電気を点けて確認したら男物の靴だった事に驚愕した。

(なんで?)

 晴明の筈はない。合鍵を渡していないのだから。
 中に誰かがいる。
 しかも男が。

 中に入る事を躊躇(ためら)っていると、奥の部屋の扉が開いた。

「お父さん!!」
「おかえり。いつもこんなに遅いのか?」

 どういう訳だか、照れくさそうな笑みを浮かべている。
 何となく懐かしい笑顔だ。

「どうして中に入ってるの?」
 蕗子は靴を脱いで中に入った。

「もう帰宅してるだろうと思って来たのに、留守だったから、管理人に言って開けて貰ったんだ」
「ええー?」

 確かにそれしか入り様が無い筈だが、それにしても管理人が本人の承諾無しに勝手に開けるなんて。
 蕗子の不審感を察したように広志は言った。

「大丈夫だ。そう簡単には開けてはくれない。父親だと名乗っても信じてくれないから、ちゃんと身分証明書を提示して、家族の写真まで見せたよ。入居する時に書類に実家の住所とかを書いてあるだろう。それと照らし合わせて、やっと入れてくれた」

 そうだったのか。だがそれでも、あまり愉快な気がしない。
 普通の親子関係だったら、こんな風に思わないのだろうが、今は迷惑に近い感情が湧いてくる。

「ここは相変わらず何も無いが、エアコンだけはあるんだな。まぁ、さすがにこれが無いと厳しいだろうが」

 広志はチラっとエアコンへ視線をやった。

「エアコンは最初から附帯した設備なの。最近は、便利よね。建築の仕事をしているとは言え、自分に無縁の物件だからビックリしたわ」

 蕗子は部屋の中を見まわした。特に乱れた様子もない。窓の近くに建築雑誌が広げてあった。朝、部屋を出る時に、きちんと整頓して出た筈だから、蕗子が戻るまで広志が見ていたのだろう。

「それでお父さん、何しにきたの?また、お説教?」

 蕗子は振り向いて広志を見た。
 部屋の入口に立っていた広志は中に入って来た。

「その後、どうしてるかと思ってな。この、無いも同然の荷物じゃ、引っ越そうと思えばすぐにでも引っ越せるだろう。何も買わずにいたのも、あいつと長続きしないかもしれないって思いがあったからなんじゃないか?この部屋でお前を待っている間に、俺はそう思ったよ」

 蕗子は軽く息をついた。

「そう遠くないうちに、彼ともっと広い所に住むからなんだとは思わないの?」

 蕗子の言葉に広志はカッと目を見開いた。

「まだ、そんな事を言うのか。この期に及んで、まだ奴が好きなのかっ」

(お父さんって、こんなに短気な人だった?)

 蕗子は冷静に、そう思った。考えてみると、父と共に過ごす時間は短い方だった。銀行員の宿命で、転勤ばかりだったし、子供達の教育の事も考えて、父はずっと単身赴任だった。
 だから家族が揃うのは月に数える程度。

 関東の支店に配属の時には、自宅から時間が掛っても通える距離だったら広志は自宅から通っていたが、そんな時は当然、早朝出勤深夜帰宅で、顔を合わす事が少ないのは単身赴任の時とあまり変わらなかった。

 それでも家族が揃った時は、広志は家族サービスに余念が無かった。
 そんな父が好きだったが、なぜか父は蘇芳の方が良いみたいだった。

 だからと言って、目に見えて贔屓をされているわけでもない。
 蕗子には素っ気ないが、蘇芳にはベタベタ……。そういう印象だ。

 それに、感情的に怒られた事も無かった。間違った事をしたら、冷静に教え諭す。
 子供たちにも、妻である真弓にも、声を荒げる事は無かったのに。だからこそ、今回の一連の出来事に対する父の反応には驚くばかりだ。
 温厚な男がこれほどまでに激する程の事なんだと言えば、そうなのかもしれないが。

「おいっ、どうなんだ!」

 はっきり答えない娘に業を煮やしたのか、広志は立ち上がると蕗子の方へ向かってきた。

 もしかしたら、ぶたれる?と思って身構えたら、広志は蕗子の肩を掴んで押し倒したのだった。突然の事に気が動転した。状況が理解できない。
 広志の血走った目が、自分の顔のすぐ上にあった。息が荒い。

「お父さんっ?」

「そんなに、あいつがいいのか。平気で妹とやる奴なんだぞ?お前はそれが、どういう事か分かってるのか?どんなにおぞましい事か分かってるのか!分からないなら、教えてやる、それが父親としての責任だ!」

「やめてっ!お父さん!」

 蕗子は何がなんだか分からないまま、とにかく暴れた。
 この人は、一体何をしようとしてる?自分の娘を犯そうとしているのか?

 信じたくなかったが、広志の手が蕗子のスカートをめくって手を入れて来た時、背筋がゾッとした。

「蕗子っ……」
 広志の唇が蕗子の耳元から首筋をなぞった。重たい体がのしかかって来る。

「お父さん、やめて!おかしいよ、こんな事」

「そうだ。だが、そのおかしい事をあいつはしてきたんだよ。いけないと知りながら。だから俺は、身を持ってお前に教えてやる。それがどういう事なのか……」

 親兄弟からの性的暴力に遭う時、何故激しく抵抗しないのかと思う事があったが、こうして現実に自分の身に振りかかってみると、相手が親兄弟だからこそ、激しく抵抗できないものなんだと分かった気がした。

(でも……。嫌!こんなの許せない)

 蕗子は渾身の力を込めて、膝を広志の股間に突き立てた。

「ウッ……」

 広志の動きが止まった。
 蕗子はすかさず両手で広志を突き飛ばし、横へと転げ出た。
 広志は唸りながら(うずくま)っている。
 その隙を見て、蕗子は立ち上がると急いでバックを持って、急いで部屋を後にした。


 酷過ぎる。
 あまりに酷過ぎる。
 自分の父親が。

 どうしてあんな事をしてきたのか全く理解できない。
 晴明との事が気に入らないにしても、別れさせたいんだとしても、その手段として選ぶ行為があれか。

 蕗子は泣きながら、乱れた着衣を直して、向かうともなく足は駅の方へと向いていた。やがて駅に着き、初めてどこへ行くのかと自分に問いかけた。

 またホテルか……。それとも今度こそ財前の懐に逃げ込むか。

 正直、人肌が恋しかった。
 父親にあんな事をされたからこそ、誰かの胸にすがって、優しく抱きしめて欲しかった。
 優しく自分を受け止めて欲しい。

 蕗子はバックから携帯を出すと、電話帳を開いた。
 まっさきに晴明の名前が飛び込んで来た。

 どうして自分は、この人に連絡しないんだろう。

 名前を見て思う。
 誰よりも話したいし、誰よりも逢いたいのは、この人なんだと。
 今だって、真っ先に逢いたいのは彼だ。

 蕗子は震える指で、ボタンを押した。やがて発信音が鳴りだした。
 耳に当てて息をひそめる。
 一回……、二回……、三回……、四回……。

 出ない。
(どうしたんだろう?)

 蕗子は尚も切らずに待った。だが、コールが十回を超えても繋がらない。
 一端切って、少し待って再び押した。でも結果は同じで、相手は出ない。
 どうして出ないんだろう。入浴中なのか……。

 蕗子は意を決した。
 スマホで近場のレンタカー会社を検索した。
 そこで手軽なコンパクトカーを借り、一路、蓼科を目指したのだった。
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