第47話

文字数 4,953文字

 新しい住まいは、二人の意見が一致した恵比寿の三軒目に見たマンションに決定した。

 蕗子が仕事をしている間に晴明が調査をし、問題がなかったので契約を済ませて来た。
 晴明は東京にいる間に必要な手続きを済ませ、頼んでおいた蕗子の印鑑も受け取ってきてくれた。

「今月一杯は向こうで仕事をするけど、日曜日には東京に来るよ。新居に住む準備もしなきゃならないからね。いくらなんでも、二人で住むのに何もないじゃ、困るしな」
「それって、イヤミ?」
「いやいや、率直な意見だよ」

 晴明は朗らかだった。

「私がいる間、アトリエで描く事、全然なかったけど大丈夫なの?」

「それは大丈夫。これからバリバリ描くから。正直、向こうへ行ったはいいけど、お父さんからの手紙で打ちのめされて、全く描く気が起こらなくて困ってた。今は気力十分。思いきり描けそうだよ」

 楽しそうに笑っている。

「それでさ。明日の昼休みに僕に付き合ってくれないかな」
「え?ランチ一緒にしたいとか?」
「いや、まぁ、そう言う事なんだけど、二人だけじゃなくて、他の人も一緒なんだ」
「他の人?誰かと一緒に食事をするって事?」

「実は、大学のお世話になってる教授に結婚の件を話したら、是非逢いたいって言われたんだ。同じ研究室の友人にも……」

 大学の先生に、友人?
 聞いただけで緊張した。

「あの……、何人?」
 自分で訊いておいて、馬鹿な質問だったと思った。

「とりあえず、二人……。人と関わるのが苦手な僕だけど、この先生とこの友人だけが、他人では最も信頼できる人達だね。僕の一番辛かった時にも、手を差し伸べてくれた。アメリカへ行ったのも二人の勧めなんだ」

「じゃぁ、お二人は、蘇芳の事も知ってるの?」
「ああ。知ってる。里美との事もね。異母兄妹だったって事も何もかも。だから、心配する事は無いよ。ただ、逢ってくれればいいんだ」

「わかった」

 晴明がそう言うんだから、きっと大丈夫だ。

 そう思って、翌日の昼、指定された表参道のレストランへ行った。
 入口で名前を言うと、奥の部屋に案内された。個室を予約したようだ。

 蕗子が部屋へ入ると、男三人は立ち上がった。
 四十代半ばくらいかと思われる、優しげで鼻の下に髭を蓄えている背の高い男性が教授だろう。
 もう一人は中肉中背で、すっきりした面だちをしており、晴明と同年代と察せられたが童顔な印象のせいか子供っぽい感じがした。

 晴明が蕗子のそばに来て、二人の元にいざなった。
「僕の妻の蕗子です」

「はじめまして。蕗子です」
 蕗子は顔が赤くなるのを感じた。

「はじめまして。白川丈一郎です」と髭の紳士が言い、「はじめまして。小野俊司です」と童顔の方が言った。
 蕗子は二人と握手を交わし、勧められるまま着席した。
 晴明の紹介で、思った通り白川が教授で小野が友人だった。

「噂通りの綺麗な人だね」

 緊張してナフキンを膝に広げている時に、白川教授が低い声で言った。

「あの……、ありがとうございます」

 蕗子は赤くなって俯いた。

「あ、俺、あなたのその反応、気に入った。やっぱり晴明が好きになる女性だなぁ」

 小野が楽しそうに言うのを聞いて、蕗子は「はぁ?」と訳が分からず首を傾げた。

「容姿を褒められるとさ。『いえ、そんな事ありませ~ん』って、嬉しそうに体をクネクネさせる女の子が多いでしょう。口と体が不一致。俺、ああいうの嫌いなんだよね。謙遜してるつもりなんだろうけど、喜んでるのが見え見えでしょう。褒められたら、素直に礼を言う。そういう方が好感が持てるよ。晴明もきっと同じだろうから、あなたの反応を見て、俺も嬉しくなったわけ」

 そう言って、幼い顔でガハハと笑った。

「はぁ……」
 どう返したらいいのか分からなかった。

「今日は突然ですみませんでしたね。いきなり入籍したって聞いて驚きました。まずは、おめでとうございます」

 白川教授はシャンパンのグラスを軽く掲げた。
 小野もそれに(なら)った。

「ありがとうございます」
 二人にお辞儀をしながらグラスを掲げたが、蕗子は仕事中なのでジンジャエールにしてもらった。

「白川教授は、僕が大学へ入学した時からの担当の先生でね。凄くお世話になったし、今でも世話をかけ通しなんだ。小野とも入学した時からの付き合い。腐れ縁だな」

 そう言って屈託なく笑う晴明の顔が眩しく感じられた。
 とても喜んでいるように見える。

「こいつは、見た目通りの繊細なヤツでね~。いっつもメソメソしてるもんだから、俺、放っておけなかったの。過去を振り払おうとして前を睨んでる。それじゃぁ、進めないでしょう。前が怖がって逃げちゃうよねぇ」

 小野が再び、ガハハと笑った。
 凄くストレートだ。晴明を伺うと、全く平気な顔をして笑っていた。
 繊細と言われている人間の反応とは思えない。
 きっと、こんな事は二人の間では日常茶飯事なのかもしれない。

「蕗子さんは、建築家なんだとか……」

 白川教授が蕗子に訊いてきた。

「建築家なんて、ちょっと恥ずかしいんですけど、自分では設計屋だと思ってます」

「設計屋。『家』じゃなくて『屋』ね。でも、両方合わせると家屋となるね」

 小野が突っ込んで来た。

「君がわざわざそう言うって事は、自分の事を芸術家じゃなくて職人とかって捉えてるのかな」

 髭の下の口が上品に微笑んでいる。

「そうですね。そんなに明確に立て分けているつもりは無いんですけど、芸術家だと思った事はないです。建築物を芸術と思う事は多々ありますけど」

「それはどうして?」

 蕗子は少し考えてから答えた。

「多分、施主さんの注文に応えて作る物だからだと思います。自分の発想で、自由に自分の表現を形にできるものではないからだと。施主さんの望みを汲んで、尚且つ自分の発想も組み込んで、双方の望む形が旨い具合に融合した時に、想像以上の素晴らしい物ができあがって、その出来あがった物は芸術だと思うんです」

「なるほど」
 白川教授は満足げに頷きながら微笑んだ。

 小野が目を輝かせて蕗子に言う。

「やっぱり君は素敵な人だ。建築家には案外、増上慢が多いんだ。斬新なデザインを素晴らしいと周囲から評価されて、芸術家気取りになってる人間が山ほどいる。そういう奴らに、聞かせてやりたいよ。だけど君、そういう気持ちを今後も持ち続けないとな」

 小野の言葉に、蕗子は「はい」と頷いた。

「私達はね。阿部君の事をとても心配していました。いい絵を描く、いい青年なのに、その人生が不幸せ過ぎてね。恵まれた人間には良い作品なんて描けないと言う人もいますが、そういうのは関係ないと私は思っています。心が貧しいより、豊かな方が良い作品が描けると思うんですよ。昔の画家たちは恵まれない人たちばかりで、身を削るようにして絵を描いてましたが、だからと言って今の画家もそれをしたって所詮は真似でしかない。芸術とは自己を表現する事ですからね。不幸よりは幸せな方が良いに決まってる……」

 蕗子は白川教授の暖かい言葉が嬉しかった。

「そうそう。晴明がアメリカで結婚してこっちに戻ってくるって聞いた時、びっくりしたよ。あの晴明が結婚!まさか、相手はアメリカ娘か!ってね。まぁ、連れ帰ったお嬢さんは、日本人だったけど、アメリカ娘っぽい感じがあったかな。あ、ごめんね。妹さんだったね。俺らはね。こう言っちゃなんだけど、不似合いなカップルだって思ってた。大体、結婚したってのに、晴明はちっとも幸せそうな顔をしてないんだ。これは、どういう事だ?ひょっとして、この結婚は間違ってるんじゃないか?とまで思ったくらいさ」

「これこれ、蕗子さんの前で失礼じゃないのかね」

 あまりのあけすけさに、白川教授が注意した。

「あ、これは失敬。それにしても、姉妹だって言うのに、随分と雰囲気が違うよねぇ」

「よく言われます……」

 蕗子は笑った。
 全く似て無いと言う訳でも無いのだが、ぱっと見は全然だろう。

「俺も教授も、君の方がタイプだし、晴明にぴったりだと思うよ。大体、晴明の顔つきが違う。今度の結婚は本物だって確信したんで、逢わせてくれって頼んだんだ。想像通りで良かったよ。ね?教授」

 小野に同意を求められて、白川教授は大きく頷いた。

「全く異存はありません。これで阿部君の生活も充実して、更に良い作品を生みだしてくれるだろうと信じてますよ。それから、世間は色々と言う事もあるかもしれませんが、気にする事は無い。私達は君たちの味方だから、安心してください」

「ありがとうございます」

 心から礼を言った。
 晴明が唯一信じられる二人の暖かさは、蕗子の心も潤してくれていると感じた。
 事務所の人達も受け入れてはくれたが、こんなに全面的な信頼を示されると、心に深く沁み込んで感動すら覚えるのだった。

「お前、本当に羨ましいよ。こんなに綺麗で魅力的な女性、そうそういないぜ」

 小野が晴明に片目を瞑って見せた。

「そうだろう。この僕が一瞬で恋に落ちた相手だからね。素敵なのは当然だ」

 晴明の態度が偉そうに見える。

「お前そう言うけどな。前の一瞬の相手。彼女も可愛かったけど、一瞬で落ちる相手にしては、俺は役不足な感じしたけどなぁ。蕗子さんの方が遥かにいい」

 蕗子はびっくりした。
『前の一瞬の相手』とは里美の事だろう。それを、こんな風に言うなんて。

 横目でチラリと晴明の様子を伺ったら、笑っている。
 尚更驚いた。普通ならタブーな話題のように思えるからだ。

「それは、僕も同意見だ。あの時は分からなかったが、今考えてみれば、きっと妹だったからだと思う。血のなせる技だったんじゃないかな。実際の何倍も素敵に見える作用が働いていたに違いない。でも蕗子さんは、掛け値なしに素敵だよ。里美なんか足許にも及ばない」

 晴明の口から、こんな言葉が出てくるなんて。驚天動地の思いがする。
 もし里美が生きていたら、どれだけ失望するだろう。
 どうしてこんな事が言えるのか蕗子には理解できない。

「お前が言う通りだな。ただ、随分と入れ上げていると言うか、ぞっこんなんだなぁ」

「当たり前だろう。それだけの価値がある女性なんだから」

 消えてしまいたい程、恥ずかしくなってきた。
 本人を前にして、こうまで手放しで褒める事ができるとは。
 言ってて恥ずかしくないのだろうか。聞いている方は非常に恥ずかしい。

「これこれ君たち。蕗子さんが困っているよ。その辺にしておいたら、どうだね?」

 教授に言われて二人は蕗子を見た。蕗子は赤くなる。

「蕗子さん、びっくりしたでしょう。私もちょっと驚きましたよ。小野君は、ご覧の通り、あけすけな性格だが、阿部君がこうまで堂々と主張するのは珍しいんですよ。いつも斜に構え、(いん)に滅したような顔をして、人生を半ば諦めているようなきらいがあってね。その癖、妙に頑固でね。こんな晴れ晴れとした顔をして、惚気(のろけ)を惚気と思わずに口にしてるんだからね。呆れるを通り越してますよ」

 教授はそう言って、にっこりと笑った。

「教授。晴明はね。哲人ぶった少年なんですよ。小難しい顔をして簡単な事でもわざわざ小難しくして、前に進もうとしない。だからいつまでも少年のまんま。でもやっと、大人になれる時が来たって事です。晴明の頭の上にいつも乗っていた雨雲、すっかりなくなってるじゃないですか。だから、こんなに晴れ晴れとした顔をしてるんですよ。それもみんな、蕗子さんと出逢ったからなんでしょう。やっと、こいつを前進させてくれる女性が登場してくれて、こんな嬉しい事ってないや」

 本当に嬉しそうな顔をしている。

「俊司~、哲人ぶった少年っていうのは、酷くないかぁ?それから、頭の上に雨雲?なんだかなー。随分だな……」

 蕗子は思わず、ぷぷぷと笑った。
 面白くて、凄く嬉しくて、そして楽しい。

「蕗子さん、どうして笑う?」

 晴明が怪訝そうな眼差しを寄こしてきた。

「だって、面白いんだもの。それに、凄く嬉しくて。私、お二人には感謝の気持ちで一杯です。これからも私達の事、よろしくお願いします」

 蕗子は立ち上がって深々と頭を下げた。

「勿論だよ。私達の方こそ、彼をよろしくとお願いしたい。私達の事もね」

 あたたかい温もりを感じさせる空気が、部屋の中を満たしているように思えて、蕗子は幸せだった。

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