第57話

文字数 3,144文字

 翌日の夕方、蕗子が病室へ行くと、小野と白川教授、それと中年の男性が二人病室にいて、晴明と共に談笑していた。

「あ、蕗子さん」
 蕗子に気付いた白川教授が嬉しそうに微笑んだ。

「あの……?」
 晴明の表情がとても明るくて、嬉しそうだ。
 顔色も良いが、こんな風に大勢で大丈夫なのだろうか。少し心配になった。

「ああ、この人が……」
 見知らぬ中年男性の一人が顔を輝かせて、蕗子を見て何か言おうとしたのを小野が遮った。

「蕗子さん。こちらは個展の実行委員の間中さんと木田さんだよ。今、みんなでアトリエに行ってきたんだ。で、予想以上の出来だったんで、個展は予定通りに開催する事になった」

「え?本当に?良かった……」
 蕗子は紹介された二人と挨拶を交わし、安堵した。

「いや~、素晴らしかったです。予想以上の出来に、驚きました。あれらの絵を発表できないとなっては残念過ぎる。だから阿部君には、早く良くなってもらって、しっかり完成して貰わないと。本人も大丈夫だと自信を持って言ってるので、我々はそれに賭ける事にしました」

 とても感動している様子を見て、蕗子も喜ばしかった。
 既にこんなに期待されている。これほど嬉しい事は無い。

「ありがとうございます」
 蕗子は深々と頭を下げた。

「それにしても……」
 顔をあげた蕗子をまじまじと見ている。
 その視線には、憧憬のような色が含まれているように感じた。

「木田さん」
 小野の鋭い声が飛んできた。

「あ、これは失敬。いや、綺麗な方だから、つい見惚れてしまいました」

 蕗子は相手の言動にたじろいだ。
 白川からも初対面なのに綺麗と言われて驚いたが、そもそも他人からあからさまに綺麗だと言われた事など無かった。

 自分でそうだと自覚もしていないだけに、言われてもぴんとこないのだった。
 どう反応したら良いのか困るばかりだ。

「皆さん、そろそろ失礼しましょう。阿部君も疲れるだろうから」

 白川教授の落ち着いた声に促され、実行委員の二人は白川と共に帰って行った。
 蕗子は挨拶をして見送ったものの、何だか釈然としないいが残った。
 それは決して不愉快な感情ではないのだが、うやむやにされた何かがあるような、そんな感じだ。
 不思議に思いながら晴明の傍へ行くと、小野と二人で微笑みを交わしている。

「どうかした?」

 蕗子が訊くと、二人はその笑顔のままで蕗子の方を見た。
 何故かドキリとする。

「取り敢えず、上手くいったんで喜んでたんだよ」
 晴明がそう言った。

「蕗子さん。俺も今回見せて貰ってね。本当に良かったよ。改めて、晴明の才能と心を知らされた気がする。感激してるんだ。君も完成したものを見たら、きっと凄く感動して、涙を流す事、受けあいだ。ガハハ」

 小野は「飯食ってくるから」と言って、出ていった。気を利かせたのだろう。
 蕗子は呆気に取られたが、すぐに気を取り直して晴明の前に座った。

「なんだか皆、楽しそう。良かったわね、個展……」

「うん。今回はこれまでで最も自信があるんだよ。だから、絶対に開催させたい。見て貰って良かったよ。いい手ごたえを得られて、益々やる気が出て来た」

 晴明の顔が、きりりと引き締まった。
(素敵……)
 思わずそう呟いてしまいそうになった。

「どうした?」
「ううん」

 暫く黙って見つめあった。
 その眼差しに、愛が溢れていると感じた。

「事故にあった時……」
 晴明が突然話しだした。

「なんだか不思議な感じがしたんだ。なんで、事故なんかに遭ってるんだろうって。でもって、やばいなって思った。死にたくないって思ったよ。

 それで意識が途絶えたわけだけど。……ずっと彷徨(さまよ)ってた気がする。
 暗くて長い夢を見ていたような。……皮肉だよな。
 まさか自分が、里美と同じように交通事故で死ぬなんて。

 折角、君と出逢って一緒になれたのに。
 里美が死んだ時……、後を追いたかった。自分も死にたいって思ったんだよ。
 だから……、君と出逢って無かったら、きっと……、やっと死ねるって思ったかもしれない。

 でも、今は違う。
 今は生きたい。君と共に……。

 だけど……凄く苦しくてね。
 過去の辛かった記憶が(おびただ)しく僕を襲って来たんだ。
 ……本当に……生きているのが辛くて……、これからもこの辛さが……ずっと続いていくような……そんな錯覚を覚えるほどの……勢いだった……。

 楽になりたい。そう切に願ったよ。
 ……もう、いい、もう楽にさせてくれって。全てを忘れて……真っ白になりたい……。

 そう思ったら……。
 誰かが……手を伸ばしてきた気がして。

 手を出そうと見たら……里美だった……。多分……。
 一緒に行こうって。楽になれるって……。
 やっと一緒になれるんだ……、ここなら、誰にも、何も言われないって……言うんだよ……。

 幸せに、なりたかった……。
 幸せにしてやりたかった……。
 だから……。行ってやらないと、……いけないのかなって……思ったんだよ……。

 そしたら、そしたら……。

 君の声が、聞えた。……僕を、必死に呼ぶ、君の声が。

 ……行くな、行っちゃ駄目だって。
 ……里美が……物凄く悲しい顔をして、僕を見てた。
 ……一緒にいた時は笑っていたのに……。

 寂しそうで。……凄く、寂しそうで……。
 僕は……辛くて、苦しくて……、どうしたらいいのか、わからなくて……。

 でも僕は……、僕は……君と生きたい……。
 そう思った瞬間……、悲しくて辛くて淀んだ闇を、君が……、払った……。

 ああ、僕の天使って……。
 笑わないでくれよ?……ほんとに天使、だったんだから……。

 君が僕の手を……強く握って、光の方へ引っ張ってくれた。
 ……どんどん、息が楽になって……、苦しみから、解放された……。

 目が覚めた時、目の前に君の顔があって、心底ホッとした。……戻って来たんだって。

 ……感謝してるよ。ずっと僕のそばで、僕に呼びかけてくれていたんだってね。
 それを聞いて、……ああ、そういう事だったんだって、納得した。
 君のお陰だよ。本当に、ありがとう……」

 蕗子の頬を涙が濡らしていた。

「私の方こそ……、ありがとう。頑張って逝かないでくれて。
 ……あなたのそばにね。里美さんがいるのを感じたわ。
 あなたを連れていこうとしてるって思った。あなたは今にも一緒にいってしまいそうな状態で。

 でも、そんなの、許せない。絶対に逝かせない。
 絶対に里美さんに渡さないって思った。

 ……私ね。最初は弱気だったの。
 こうなってしまったのも、もしかしたら天罰なのかもとも思った。でも、小野さんと教授に叱られた。

 小野さんに、天使なんだから、神なんか跳ね返すくらい心を強く持て、って言われたの。
 いつも天使って言われて、こそばゆかったけれど、その時ほど身に沁みた事ってなかった。

 そうだ、私は晴明さんの天使なんだから、絶対に守らなきゃって。強くならなきゃって。
 だから、二人のお陰だと思ってる。
 そうでなかったら私、里美さんに負けてたかもしれない」

「そうか……。俊司が、そんな事を……。ほんとに感謝しなきゃな。教授にも」

「晴明さんは、本当に良い理解者を持ったわね。肉親の情愛には恵まれなかったけれど、それ以上の恩愛を受けてると思うわよ?大切にしていかないといけないわね」

 晴明はにっこりと微笑んだ。

「なんだか君……、お母さんみたいだな」
「あらっ」

 心外な事を言われて、蕗子は少しむくれた。涙も止まる。

「さぁ、お母さん!帰ろうか!遅くなると明日にさわるよっ」

 突然、病室の扉が開いて、小野がそう言いながら入って来た。

「はい?」

 なんだ、お母さんとは。
 さては、話を聞いていたな?
 思わず蕗子が睨みつけると、小野はガハハと笑って、「さぁさぁ」と蕗子を急きたてるのだった。
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