第56話
文字数 3,273文字
晴明は翌日の午後に、集中治療室から一般病棟に移った。
一般病棟に移る時に一度目を覚ました。
「蕗子さん……」と呟くように言った晴明は、とてもせつなそうに蕗子を見た。
そんな晴明の手を蕗子は握り静かに微笑むと、安心したように再び眠りに落ちたのだった。
「良かったよ、本当に」
小野と白川は、心から安堵した顔で、蕗子の手を握った。
「お二人とも、本当にありがとうございました。小野さんと先生がいらっしゃらなかったら、私達、勝てなかったかもしれません。心を強く持てたのは、お二人のお陰です」
「いやいや、君が頑張ったからだよ。僕たちは少しは手助けしたかもしれないが、それでも君の愛の力が強かったからだ。本当に嬉しいよ」
「そうだよ。ただ俺は、今回は凄く役立ったと自負してるよ。あとで晴明に礼を要求してやらないとな。ガハハ」
この人の、この底抜けな感じの明るさには、本当に救われる思いがする。
晴明もきっと同じだろう。だから、この人と親友になったんだと思う。
「相変わらず図々しいね、君は」
白川が優しげに突っ込んだ。
なんだか面白い取り合わせに思える。仄々 とした。
「ああ、そうそう、蕗子さん。晴明も一般病棟に移った事だし、君は明日からいつも通りに仕事に出るといいよ。忙しいんでしょう。君がいない間は俺がいるから。教授と違って俺は講師だから、結構、時間あるからね。心配いらないよ」
「あの、でも、講師とは言っても授業を持ってらっしゃるわけだし……」
「それはね。仕方ないでしょう。ここだって看護師さんはいるんだから、ずっと付き添う事は無いよ。でも、抜けるのは授業の間だけだ。終われば、また戻ってくる。君が来るまで、晴明のそばにいてやるよ。晴明も喜ぶだろう。ガハハ」
あっけにとられて、二の句が継げなかった。
「あ、そうだ。まだあったよ。病院から帰る時には、タクシーを使う事。一人の時には、くれぐれも用心する事。晴明が入院中に君に何かあったら、俺、申し訳がたたないからね」
「あ、あの、ありがとうございます。でも、そんなに……」
「だめだめ」
小野は人差し指を立てて左右に振った。
「油断は禁物。もし何かあったら、すぐに俺に電話して。いいね?」
「は、はい」
晴明の変わりにボディガードにでもなったような意気ごみを感じて、蕗子は笑った。
その日の晩、晴明はやっと目覚めた。
蕗子の顔を見て、安堵したように微笑んだ。
「僕……、車に轢かれた……」
大した出来ごとでもないような、軽い口調だ。
「そうね」
蕗子も軽く相槌をうつ。
「生きてるの?」
「生きてるみたいよ?痛いでしょ?」
「うん……。痛いよ」
「暫くは安静にしてないとね」
蕗子が優しく言うと、晴明は小さく頷いた。
「あ、教授と俊司……」
「今ごろ、気付いたか」
蕗子の背後に立っていた。
「すまない……。迷惑かけた」
「全くだ。早く良くなれ。暫くは安静だ。色々言いたい事はあるだろうが、もう少し元気になってからだな。明日から蕗子さんが仕事の間は、俺がそばにいてやるから、安心しろ」
「えー?お前がぁ」
「そんな嬉しそうに言うな。遠慮はいらん、ガハハ」
蕗子はその晩も病院に泊まり、翌朝、小野に任せて病院を出、一端帰宅してシャワーを浴びてから出勤した。
晴明の事故の事は既に電話で連絡してある。
「蕗ちゃん、大変だったね。御苦労さま。助かって良かった」
「はい。お陰さまで。ありがとうございます」
「仕事の事は気にするな。適当に自分で調整して、なるべく病院に行くといい。やることさえやってあれば、会社に時間を拘束されてなくてもいい。合間に様子を見に行っても、全然構わないからな」
財前の気遣いが有難い。この人についてきて本当に良かったと思うばかりだ。
この先、何があっても、この事務所を支え、盛り立てていこうと思う。
保土ヶ谷の施主にも、心配してもらったので、無事に助かった事を連絡しておいた。
こちらも喜んでくれた。こういう時、他人の善意が身に沁みる。
「蕗子さん、あたし達に手伝える事があったら、言って下さいね」
「そうだよ。仕事も分担できるものは分担していいから遠慮せずにね」
「ありがとう」
「だけど、個展の方、大丈夫かい。暫く入院だろうからね。そうでなくてもスケジュール的に厳しかったみたいだし」
財前に言われて、はたと気付いた。
生きるか死ぬかで、それどころでは無かったが、命が助かり容体が安定してくると、現実の問題が頭をもたげてくる。
仕事が終わって病院に行き、小野と顔を合わせた時に訊いてみた。
「その件は、多分大丈夫だと思うよ。昼間に晴明の様子がいい時にさ。少し話したんだが、本人が言うには、大分出来ているって話しなんだ。入院は二週間くらいになるらしい。それからでも、まだ一カ月はあるしね。間に合うと本人は言ってる。俺はそれを信じるよ。教授もその意向だ。だけど、大学側がね。万一間に合わなかったら困るって言ってるんだよね。それで、本人のアトリエを見せて貰う事になった」
「アトリエを?いつですか?」
「明日。俺と教授と大学側の実行委員の人間二人で。晴明から初台の家の鍵を預かったんで、明日の昼間、ちょっと行って来るよ」
蕗子はよく分からず、首を捻った。
「あの……、私も一緒に行って立ち合った方がいいんですよね?」
「いや、それには及ばない。それに、晴明がね。君には見せないでくれって言ってるんだ」
「ええ?」
蕗子は驚いた。
見せたくないと言っていたが、ここに来てまでまだそんな事を言っているなんて。
「本番まで君には秘密だって、元々言ってたでしょう。いくらこういう状況だからって、今ここで君に見られたら意味無いじゃないか。大丈夫。俺がちゃんと責任持つから」
仕方が無い。別に、完成前にどうしても見たいと思っているわけじゃない。
こういう事は作家の意志を尊重すべき事だとは思っている。
出来る前から見せたい人、見せたくない人、色々だろう。本人の意を汲むしかない。
病室へ入ると、晴明は目を瞑っていた。穏やかな顔でホッとした。
蕗子は部屋の中を見まわす。状態が状態なので一人部屋だ。
ちょうど空いていた。目を凝らして隅々まで見、それから晴明の周囲をジッと見た。
(大丈夫だ……)
何の問題も無いように見えて、蕗子は安心して晴明の傍に腰かけた。
その瞬間に、晴明の目が静かに開かれた。
「どうしたの?」
晴明が不思議そうに、そう言った。
「え?どうしたのって?」
「部屋へ入って来て、すぐにそこに座らなかったね……。なんで?」
目を瞑っていたのに、分かったのか。
「眠ってたんじゃなかったの?」
「眠ってたよ。でも、君が入って来た瞬間、目が覚めた。あ、蕗子さんが来たって、すぐに分かったよ。早くここへ来てほしかったのに、……なかなか来ないからさ」
蕗子は薄く笑みを浮かべた。
芸術家だから五感が敏感なのか。それとも、こういう特別な時だからなのか。
「ごめんなさい。なんか、感無量?仕事を終えて、またあなたに逢えて、あなたの無事な姿を見たら嬉しくて、暫く足が動かなかったの」
「それだけ?」
「他に何があるの?」
「いや……」
この人はもしかして、何かを感じているのだろうか。
「それより具合はどう?」
「うん。悪くはないよ。ちょっと呼吸に難ありな感じがあるけどね。肺を少し痛めてるって医者が言ってた。でもすぐに良くなるから心配いらないって」
肺と聞いて、心なしか気持ちが重くなる。
「心配かけて、悪かった。こんな事になるなんてね」
「そうね。凄く心配した。でも無事で良かったわ」
晴明が手を伸ばしてきたので、蕗子は握った。
「手が無事で良かったよ。車に轢かれた時、何よりそれが心配だったんだ。これでも庇って転んだんだ」
「よく、咄嗟 にできたわね」
「自分でもそう思う。あと……死にたくないって思った」
晴明はそう言って、ジッと蕗子を見つめた。
その目を見て、蕗子は自分の目が濡れて来るのを感じた。
「良かった……、本当に良かった」
蕗子は全てに感謝していた。この人を生かしてくれた全てのことに。
一般病棟に移る時に一度目を覚ました。
「蕗子さん……」と呟くように言った晴明は、とてもせつなそうに蕗子を見た。
そんな晴明の手を蕗子は握り静かに微笑むと、安心したように再び眠りに落ちたのだった。
「良かったよ、本当に」
小野と白川は、心から安堵した顔で、蕗子の手を握った。
「お二人とも、本当にありがとうございました。小野さんと先生がいらっしゃらなかったら、私達、勝てなかったかもしれません。心を強く持てたのは、お二人のお陰です」
「いやいや、君が頑張ったからだよ。僕たちは少しは手助けしたかもしれないが、それでも君の愛の力が強かったからだ。本当に嬉しいよ」
「そうだよ。ただ俺は、今回は凄く役立ったと自負してるよ。あとで晴明に礼を要求してやらないとな。ガハハ」
この人の、この底抜けな感じの明るさには、本当に救われる思いがする。
晴明もきっと同じだろう。だから、この人と親友になったんだと思う。
「相変わらず図々しいね、君は」
白川が優しげに突っ込んだ。
なんだか面白い取り合わせに思える。
「ああ、そうそう、蕗子さん。晴明も一般病棟に移った事だし、君は明日からいつも通りに仕事に出るといいよ。忙しいんでしょう。君がいない間は俺がいるから。教授と違って俺は講師だから、結構、時間あるからね。心配いらないよ」
「あの、でも、講師とは言っても授業を持ってらっしゃるわけだし……」
「それはね。仕方ないでしょう。ここだって看護師さんはいるんだから、ずっと付き添う事は無いよ。でも、抜けるのは授業の間だけだ。終われば、また戻ってくる。君が来るまで、晴明のそばにいてやるよ。晴明も喜ぶだろう。ガハハ」
あっけにとられて、二の句が継げなかった。
「あ、そうだ。まだあったよ。病院から帰る時には、タクシーを使う事。一人の時には、くれぐれも用心する事。晴明が入院中に君に何かあったら、俺、申し訳がたたないからね」
「あ、あの、ありがとうございます。でも、そんなに……」
「だめだめ」
小野は人差し指を立てて左右に振った。
「油断は禁物。もし何かあったら、すぐに俺に電話して。いいね?」
「は、はい」
晴明の変わりにボディガードにでもなったような意気ごみを感じて、蕗子は笑った。
その日の晩、晴明はやっと目覚めた。
蕗子の顔を見て、安堵したように微笑んだ。
「僕……、車に轢かれた……」
大した出来ごとでもないような、軽い口調だ。
「そうね」
蕗子も軽く相槌をうつ。
「生きてるの?」
「生きてるみたいよ?痛いでしょ?」
「うん……。痛いよ」
「暫くは安静にしてないとね」
蕗子が優しく言うと、晴明は小さく頷いた。
「あ、教授と俊司……」
「今ごろ、気付いたか」
蕗子の背後に立っていた。
「すまない……。迷惑かけた」
「全くだ。早く良くなれ。暫くは安静だ。色々言いたい事はあるだろうが、もう少し元気になってからだな。明日から蕗子さんが仕事の間は、俺がそばにいてやるから、安心しろ」
「えー?お前がぁ」
「そんな嬉しそうに言うな。遠慮はいらん、ガハハ」
蕗子はその晩も病院に泊まり、翌朝、小野に任せて病院を出、一端帰宅してシャワーを浴びてから出勤した。
晴明の事故の事は既に電話で連絡してある。
「蕗ちゃん、大変だったね。御苦労さま。助かって良かった」
「はい。お陰さまで。ありがとうございます」
「仕事の事は気にするな。適当に自分で調整して、なるべく病院に行くといい。やることさえやってあれば、会社に時間を拘束されてなくてもいい。合間に様子を見に行っても、全然構わないからな」
財前の気遣いが有難い。この人についてきて本当に良かったと思うばかりだ。
この先、何があっても、この事務所を支え、盛り立てていこうと思う。
保土ヶ谷の施主にも、心配してもらったので、無事に助かった事を連絡しておいた。
こちらも喜んでくれた。こういう時、他人の善意が身に沁みる。
「蕗子さん、あたし達に手伝える事があったら、言って下さいね」
「そうだよ。仕事も分担できるものは分担していいから遠慮せずにね」
「ありがとう」
「だけど、個展の方、大丈夫かい。暫く入院だろうからね。そうでなくてもスケジュール的に厳しかったみたいだし」
財前に言われて、はたと気付いた。
生きるか死ぬかで、それどころでは無かったが、命が助かり容体が安定してくると、現実の問題が頭をもたげてくる。
仕事が終わって病院に行き、小野と顔を合わせた時に訊いてみた。
「その件は、多分大丈夫だと思うよ。昼間に晴明の様子がいい時にさ。少し話したんだが、本人が言うには、大分出来ているって話しなんだ。入院は二週間くらいになるらしい。それからでも、まだ一カ月はあるしね。間に合うと本人は言ってる。俺はそれを信じるよ。教授もその意向だ。だけど、大学側がね。万一間に合わなかったら困るって言ってるんだよね。それで、本人のアトリエを見せて貰う事になった」
「アトリエを?いつですか?」
「明日。俺と教授と大学側の実行委員の人間二人で。晴明から初台の家の鍵を預かったんで、明日の昼間、ちょっと行って来るよ」
蕗子はよく分からず、首を捻った。
「あの……、私も一緒に行って立ち合った方がいいんですよね?」
「いや、それには及ばない。それに、晴明がね。君には見せないでくれって言ってるんだ」
「ええ?」
蕗子は驚いた。
見せたくないと言っていたが、ここに来てまでまだそんな事を言っているなんて。
「本番まで君には秘密だって、元々言ってたでしょう。いくらこういう状況だからって、今ここで君に見られたら意味無いじゃないか。大丈夫。俺がちゃんと責任持つから」
仕方が無い。別に、完成前にどうしても見たいと思っているわけじゃない。
こういう事は作家の意志を尊重すべき事だとは思っている。
出来る前から見せたい人、見せたくない人、色々だろう。本人の意を汲むしかない。
病室へ入ると、晴明は目を瞑っていた。穏やかな顔でホッとした。
蕗子は部屋の中を見まわす。状態が状態なので一人部屋だ。
ちょうど空いていた。目を凝らして隅々まで見、それから晴明の周囲をジッと見た。
(大丈夫だ……)
何の問題も無いように見えて、蕗子は安心して晴明の傍に腰かけた。
その瞬間に、晴明の目が静かに開かれた。
「どうしたの?」
晴明が不思議そうに、そう言った。
「え?どうしたのって?」
「部屋へ入って来て、すぐにそこに座らなかったね……。なんで?」
目を瞑っていたのに、分かったのか。
「眠ってたんじゃなかったの?」
「眠ってたよ。でも、君が入って来た瞬間、目が覚めた。あ、蕗子さんが来たって、すぐに分かったよ。早くここへ来てほしかったのに、……なかなか来ないからさ」
蕗子は薄く笑みを浮かべた。
芸術家だから五感が敏感なのか。それとも、こういう特別な時だからなのか。
「ごめんなさい。なんか、感無量?仕事を終えて、またあなたに逢えて、あなたの無事な姿を見たら嬉しくて、暫く足が動かなかったの」
「それだけ?」
「他に何があるの?」
「いや……」
この人はもしかして、何かを感じているのだろうか。
「それより具合はどう?」
「うん。悪くはないよ。ちょっと呼吸に難ありな感じがあるけどね。肺を少し痛めてるって医者が言ってた。でもすぐに良くなるから心配いらないって」
肺と聞いて、心なしか気持ちが重くなる。
「心配かけて、悪かった。こんな事になるなんてね」
「そうね。凄く心配した。でも無事で良かったわ」
晴明が手を伸ばしてきたので、蕗子は握った。
「手が無事で良かったよ。車に轢かれた時、何よりそれが心配だったんだ。これでも庇って転んだんだ」
「よく、
「自分でもそう思う。あと……死にたくないって思った」
晴明はそう言って、ジッと蕗子を見つめた。
その目を見て、蕗子は自分の目が濡れて来るのを感じた。
「良かった……、本当に良かった」
蕗子は全てに感謝していた。この人を生かしてくれた全てのことに。