第5話
文字数 3,160文字
彼の口からこんな事を訊かれたのは初めてだった。
恋人の有無すら訊かれた事が無かったのに、一体どういう事だろう?
まさか、誰かを紹介しようとかの魂胆でもあるのか。つい、いらぬ勘ぐりをしてしまう。
だが、今は仕事が何より大事な時でもある。結婚を勧めて来る理由はない。
だから、敢えて確認したいのかもしれない。
「ごめん、変な事を聞いちゃったかな」
いつまでも答えないので、財前が謝罪した。
「あ、いえ。そんな事はありません。所長から、そういう事を今まで訊かれた事が無かったから、ちょっと戸惑ってしまったと言うか……」
慌てて胸の前で両手を振った。
「そうかぁ。俺、そう言えば訊いた事なかったよな、今まで。まぁどっちにしても、答えにくい質問だったよな。悪かった」
両手を膝につけて頭を下げて来る。なんだか逆に恐縮してしまう。
「あ、だから、そんな謝られるような事では……。結婚は、今のところは考えてません」
「今のところは、かぁ。じゃぁ、将来は?」
「将来の事は、わかりませんよ」
「じゃぁ、結婚しないと決めているって訳じゃないんだな?」
キャリアウーマンの宿命かな、こう言う事を訊かれるのって。と思った。
この年齢になると、結婚について頻繁に訊かれる。
そして「考えていない」と答えると、「仕事と結婚するつもり?」とか「女の幸せは結婚だ」とか、まるで蕗子が結婚しないと決めているように決め付けて来る。
「私、別にしないと決めている訳じゃありませんよ。したいと思っている訳でも無いですけど、したくないと思っている訳でも無いんですから」
憮然と答えた。つい口調が厳しくなる。
「そうか。それは、あれかね?したいと思う人物がいたら、するかもしれないし、現れなければしないで終わるかもしれないって、やつかな?」
「まぁ、そうです」
「なるほどねぇ。と言う事はだ。今は対象がいないと理解していいって事だね?」
「そういう事です」
なんだか、改めて言われると愉快じゃない。
相手がいないと堂々と言えないのは、矢張り自分にもプライドがあるからか。
せめて恋人くらいいれば、恰好もつくのかもしれないが、それもそれで、単なる見栄張りに過ぎないのではないか。
「吉田とは?」
「はい?」
なぜここで吉田が出てくるのだろう。
「吉田とは長いし、仲がいいじゃない。付き合ってるって事は無いの」
「ええー?吉田さんとですかぁ?」
所長の目的は一体何なんだろう。真意が掴めない。まさか所内恋愛禁止とか?
そんな堅い事を言う人だったか。
「よく、食事や、飲みに行ったりとかしてるみたいじゃないか」
(それを言うなら所長だって同じじゃないか)
そっと視線をやると、財前は目を瞑ったままだった。無表情だ。
眉毛がきりっとしていて、鼻筋が通っている。肌は健康的な程度に焼けている。
スタイルも良く、この年齢なのに腹が平らなのには感心する。
ただひとつ、ネクタイが残念だった。
(前は趣味の良いネクタイをしてたのにな)
「所長……」
「なんだ」
「最近、あまりネクタイの趣味がよろしくないですね」
突然目を開けた。びっくりしたように見開いて蕗子を見る。蕗子はドキリとした。
互いに視線を合わせたまま、身じろぎができない。
「蕗ちゃん……」
言葉と同時に、財前は目を伏せた。
「君が俺のネクタイの事まで気にしてくれてるとはね。喜んでいいのやら、悲しむべきなのやら……」
「あの……。すみません。変な事を指摘して」
突然の財前のリアクションに蕗子は動揺した。
さっきの財前の視線は、切羽詰まったような、異様な目つきだったと思う。
「いや……。実は女房と別居しててね。前は彼女が選んでくれていたんだが、今は自分で適当に取って結んでる。コーディネートとか全く考えずにね」
財前は眉をしかめていた。
「ごめんなさい、本当に……」
まさか、そんな事になっていたとは。
余計な事に首を突っ込んでしまったと蕗子は後悔した。
財前が妻と上手くいっていない事は知っていた。
二年前、財前が独立した直後に、当時大学一年生だった一人息子が自殺したのだ。
志望大学に合格して喜んでいた筈なのに、何故なのか?
遺書には「疲れました。ごめんなさい」としか書いて無く、夫婦はただただ困惑した。
そして、深い悲しみの奥底に落ちた。
財前は、その悲しみから逃れるように、仕事に没頭したが、一人家で取り残された妻の方は、息子を失った悲しみを夫への憎しみに変える事でしか、生きる術を得られなかったようだ。
財前の姿は、とても過去にそんな事があったようには見えない。しかも、ほんの二年前の事なのに。
別居したのはいつなんだろう。それすらも感じさせなかった。
変化と言えばネクタイくらいだった。
だから、つい、そうとは知らずに指摘してしまった。自分の無神経さに嫌気がさす。
「いや……、そんなに困らないでくれ。でも、ちょっとは悪かったなって思っているなら」
「思っているなら……?」
顔をあげて財前を見た。視線を感じたからだ。
(あ……。どうしよう)
言い知れぬ不安を感じた。
いつもの財前の眼じゃない。
ただ、この七年の間、時々、ふとした瞬間に見た事のある眼だった。
財前は、フッと笑った。その瞬間、蕗子の緊張が溶けた。
「蕗ちゃん。そんなに身がまえないでくれよ」
「えっ?そうでした?」
「うん。なんだか俺って馬鹿だな……」
「そんな、馬鹿って……」
「そうそう。ネクタイだけどさ。どうも俺はセンス悪いみたいだから、良かったら君が選んでくれないかな」
「えー?私がですかぁ?」
「そんな嫌そうに言わないでくれよ」
財前はいつものように笑っているので、蕗子はほっとした。
「でも……、どうやって?」
財前はガッカリしたように溜息めいたものを吐いた。
「こう言っては何だが、君は三十にもなるのに、まだ無邪気だな」
「はぁ?」
憮然とする。全く持って理解できない。
「出勤前に、その日にしていくネクタイを選ぶってのが、どういう事だか想像できないのかな、君は」
際どいセリフだ。だが 笑っている。
ふざけているとしか思えない。
「朝イチで所長の家まで行って、選ぶって事じゃないんですか」
「ちぇっ、そうきたか」
悔しそうな口ぶりだ。
「時間外手当が貰えるなら、行ってもいいですよ」
「ほぉ。じゃぁ、ついでに朝飯も作って貰えるかな」
「お手当、割増ですね」
「毎朝それじゃぁ、眠くてたまらんだろう。いっそ、前の晩から泊まりがけでどうだ」
「まさか、住み込みぃ?相当貰わないと無理ですね」
「はははっ……。幾ら出せば来てくれるのか」
「所長……。いい加減にして下さいよ」
蕗子は唇を尖らせた。
「あはは。まぁいいじゃないか。君との会話はいつも面白い。どう発展するか分からないスリルみたいなものも感じるし、のほほんとしたものも感じるし。たまらんね」
(それは、こっちのセリフです)
真面目に取りあったら損をすると、よく思う。
だけど今回は、微妙に違う気がした。
(誤魔化してる……。お互いに……)
過去にも何度か怪しく感じる雰囲気が二人の間に生まれた事があった。
その度に誤魔化してきた。気付かぬふりをしてきた。そう思う。
「ところで吉田君とは?」
「付き合ってないです」
蕗子はきっぱりと言った。
「うちは別に所内恋愛を禁止してはいないよ?」
「ああそうですか。じゃぁ、付き合いましょうかぁ?」
開き直った。いい加減にしてくれと思う。
「おいおい」
蕗子はプイと横を向いた。
窓の外を見ると、もう三軒茶屋はすぐそこだった。
「蕗ちゃん……」
車のガラスに財前の顔が映っている。何となく困惑しているように見えた。
蕗子は僅かに微笑んで、振り返った。
「コンペ、本当に通るといいですね」
財前はどことなく寂しそうな笑顔を浮かべて頷いた。
恋人の有無すら訊かれた事が無かったのに、一体どういう事だろう?
まさか、誰かを紹介しようとかの魂胆でもあるのか。つい、いらぬ勘ぐりをしてしまう。
だが、今は仕事が何より大事な時でもある。結婚を勧めて来る理由はない。
だから、敢えて確認したいのかもしれない。
「ごめん、変な事を聞いちゃったかな」
いつまでも答えないので、財前が謝罪した。
「あ、いえ。そんな事はありません。所長から、そういう事を今まで訊かれた事が無かったから、ちょっと戸惑ってしまったと言うか……」
慌てて胸の前で両手を振った。
「そうかぁ。俺、そう言えば訊いた事なかったよな、今まで。まぁどっちにしても、答えにくい質問だったよな。悪かった」
両手を膝につけて頭を下げて来る。なんだか逆に恐縮してしまう。
「あ、だから、そんな謝られるような事では……。結婚は、今のところは考えてません」
「今のところは、かぁ。じゃぁ、将来は?」
「将来の事は、わかりませんよ」
「じゃぁ、結婚しないと決めているって訳じゃないんだな?」
キャリアウーマンの宿命かな、こう言う事を訊かれるのって。と思った。
この年齢になると、結婚について頻繁に訊かれる。
そして「考えていない」と答えると、「仕事と結婚するつもり?」とか「女の幸せは結婚だ」とか、まるで蕗子が結婚しないと決めているように決め付けて来る。
「私、別にしないと決めている訳じゃありませんよ。したいと思っている訳でも無いですけど、したくないと思っている訳でも無いんですから」
憮然と答えた。つい口調が厳しくなる。
「そうか。それは、あれかね?したいと思う人物がいたら、するかもしれないし、現れなければしないで終わるかもしれないって、やつかな?」
「まぁ、そうです」
「なるほどねぇ。と言う事はだ。今は対象がいないと理解していいって事だね?」
「そういう事です」
なんだか、改めて言われると愉快じゃない。
相手がいないと堂々と言えないのは、矢張り自分にもプライドがあるからか。
せめて恋人くらいいれば、恰好もつくのかもしれないが、それもそれで、単なる見栄張りに過ぎないのではないか。
「吉田とは?」
「はい?」
なぜここで吉田が出てくるのだろう。
「吉田とは長いし、仲がいいじゃない。付き合ってるって事は無いの」
「ええー?吉田さんとですかぁ?」
所長の目的は一体何なんだろう。真意が掴めない。まさか所内恋愛禁止とか?
そんな堅い事を言う人だったか。
「よく、食事や、飲みに行ったりとかしてるみたいじゃないか」
(それを言うなら所長だって同じじゃないか)
そっと視線をやると、財前は目を瞑ったままだった。無表情だ。
眉毛がきりっとしていて、鼻筋が通っている。肌は健康的な程度に焼けている。
スタイルも良く、この年齢なのに腹が平らなのには感心する。
ただひとつ、ネクタイが残念だった。
(前は趣味の良いネクタイをしてたのにな)
「所長……」
「なんだ」
「最近、あまりネクタイの趣味がよろしくないですね」
突然目を開けた。びっくりしたように見開いて蕗子を見る。蕗子はドキリとした。
互いに視線を合わせたまま、身じろぎができない。
「蕗ちゃん……」
言葉と同時に、財前は目を伏せた。
「君が俺のネクタイの事まで気にしてくれてるとはね。喜んでいいのやら、悲しむべきなのやら……」
「あの……。すみません。変な事を指摘して」
突然の財前のリアクションに蕗子は動揺した。
さっきの財前の視線は、切羽詰まったような、異様な目つきだったと思う。
「いや……。実は女房と別居しててね。前は彼女が選んでくれていたんだが、今は自分で適当に取って結んでる。コーディネートとか全く考えずにね」
財前は眉をしかめていた。
「ごめんなさい、本当に……」
まさか、そんな事になっていたとは。
余計な事に首を突っ込んでしまったと蕗子は後悔した。
財前が妻と上手くいっていない事は知っていた。
二年前、財前が独立した直後に、当時大学一年生だった一人息子が自殺したのだ。
志望大学に合格して喜んでいた筈なのに、何故なのか?
遺書には「疲れました。ごめんなさい」としか書いて無く、夫婦はただただ困惑した。
そして、深い悲しみの奥底に落ちた。
財前は、その悲しみから逃れるように、仕事に没頭したが、一人家で取り残された妻の方は、息子を失った悲しみを夫への憎しみに変える事でしか、生きる術を得られなかったようだ。
財前の姿は、とても過去にそんな事があったようには見えない。しかも、ほんの二年前の事なのに。
別居したのはいつなんだろう。それすらも感じさせなかった。
変化と言えばネクタイくらいだった。
だから、つい、そうとは知らずに指摘してしまった。自分の無神経さに嫌気がさす。
「いや……、そんなに困らないでくれ。でも、ちょっとは悪かったなって思っているなら」
「思っているなら……?」
顔をあげて財前を見た。視線を感じたからだ。
(あ……。どうしよう)
言い知れぬ不安を感じた。
いつもの財前の眼じゃない。
ただ、この七年の間、時々、ふとした瞬間に見た事のある眼だった。
財前は、フッと笑った。その瞬間、蕗子の緊張が溶けた。
「蕗ちゃん。そんなに身がまえないでくれよ」
「えっ?そうでした?」
「うん。なんだか俺って馬鹿だな……」
「そんな、馬鹿って……」
「そうそう。ネクタイだけどさ。どうも俺はセンス悪いみたいだから、良かったら君が選んでくれないかな」
「えー?私がですかぁ?」
「そんな嫌そうに言わないでくれよ」
財前はいつものように笑っているので、蕗子はほっとした。
「でも……、どうやって?」
財前はガッカリしたように溜息めいたものを吐いた。
「こう言っては何だが、君は三十にもなるのに、まだ無邪気だな」
「はぁ?」
憮然とする。全く持って理解できない。
「出勤前に、その日にしていくネクタイを選ぶってのが、どういう事だか想像できないのかな、君は」
際どいセリフだ。だが 笑っている。
ふざけているとしか思えない。
「朝イチで所長の家まで行って、選ぶって事じゃないんですか」
「ちぇっ、そうきたか」
悔しそうな口ぶりだ。
「時間外手当が貰えるなら、行ってもいいですよ」
「ほぉ。じゃぁ、ついでに朝飯も作って貰えるかな」
「お手当、割増ですね」
「毎朝それじゃぁ、眠くてたまらんだろう。いっそ、前の晩から泊まりがけでどうだ」
「まさか、住み込みぃ?相当貰わないと無理ですね」
「はははっ……。幾ら出せば来てくれるのか」
「所長……。いい加減にして下さいよ」
蕗子は唇を尖らせた。
「あはは。まぁいいじゃないか。君との会話はいつも面白い。どう発展するか分からないスリルみたいなものも感じるし、のほほんとしたものも感じるし。たまらんね」
(それは、こっちのセリフです)
真面目に取りあったら損をすると、よく思う。
だけど今回は、微妙に違う気がした。
(誤魔化してる……。お互いに……)
過去にも何度か怪しく感じる雰囲気が二人の間に生まれた事があった。
その度に誤魔化してきた。気付かぬふりをしてきた。そう思う。
「ところで吉田君とは?」
「付き合ってないです」
蕗子はきっぱりと言った。
「うちは別に所内恋愛を禁止してはいないよ?」
「ああそうですか。じゃぁ、付き合いましょうかぁ?」
開き直った。いい加減にしてくれと思う。
「おいおい」
蕗子はプイと横を向いた。
窓の外を見ると、もう三軒茶屋はすぐそこだった。
「蕗ちゃん……」
車のガラスに財前の顔が映っている。何となく困惑しているように見えた。
蕗子は僅かに微笑んで、振り返った。
「コンペ、本当に通るといいですね」
財前はどことなく寂しそうな笑顔を浮かべて頷いた。