第48話

文字数 4,873文字

 仄々と暖かい思いを抱いたまま職場に戻った。
 ここも何気に暖かい。
 みんな思うことは色々とあるのだろうに、何よりも蕗子の気持ちを一番大事にしてくれてるように思う。

 特に同じ女である波絵にとっては、複雑な思いだろう。
 同じ女だからこそ、理解できる面と受け入れられない面がある筈だ。
 それなのに、普通に結婚したのと変わらないように、親切に書類の説明をし、気づかいも細やかだ。

 少し日が経った頃に波絵がこそっと蕗子に言った。

「私、本当は蕗子さん、所長と一緒になるのかも……って思ってたんですよね」
「ええ?」
 これには仰天した。

「多分、みんな、そんな風に思ってたんじゃないのかな。凄くいい雰囲気って感じだったし、所長も何かと言うと蕗子さんだったし」

 二人の関係は、上司と部下でしかないと、どんなに親しげでも、みんなはそう思ってくれていると蕗子は思っていたが、どうやら違ったみたいだ。

「所長、離婚したじゃないですか。ほとぼりが冷めた頃にでも、蕗子さんと一緒になるかなぁって。あ、誤解しないで下さいね。その事については、どっちかと言うと賛成派なんで。すごく相性良さそうで、ベストパートナーだろうって思ってました。この事務所を二人で盛り上げていくに違いないって。吉田さんには悪いけど」

「でもあの……。私と所長、個人的に付き合った事なんて、一度もないんだけど……」

「そうでしょうねぇ。見てて分かりました。所長はその気ありありな感じでしたけど、蕗子さん、どこ吹く風って言うか、気付いているのかいないのか、って感じで。ただ、所長に対して好意は持ってるんでしょうから、いずれ所長の誠意に応える事になるのかなって、そんな感じです」

 なるほど。そういう事か。
 だが、よく見て分かってるんだな、と感心した。

「蕗子さん、なんせ仕事虫ですからねぇ。だから余計に、急に結婚してビックリなんじゃないですか~」

 そう言って、ニヤけながら肘で突いてきた。

「波絵ちゃん、ありがとう」
「いいえ、どういたしまして」

 晴明も自分も、それぞれの居場所が暖かく受け入れてくれて、本当に有難い、幸せだと感謝の気持ちで一杯になる。

 晴明は、翌朝、蓼科へ向かった。
 蕗子は一抹の寂しさを感じたが、その分、仕事に没頭した。
 部屋に帰ると、蓼科にいた時に心の中に刻んだ色んな事をパソコンに入力し、色んなアイデアを忘れないように描きこんでは保存した。ひたすら吐き出す作業に没頭していた。

 コンペの作業の方も再び取りかかる。
 その一方で、新しい新築物件も担当する事になった。
 横浜の保土ヶ谷区で、親から相続した家を新しく建て替えたいとの依頼だ。

 土地の広さが約百坪。現在建っている建物の延床面積も約百坪だった。
 二階だてで和風建築だが、これを洋館にしたいと言う。
 施主は三十台後半なので、年齢も近いし面白い仕事になりそうな予感がした。

 施主が年配だと、斬新な物はなかなか受け入れて貰えない。
 勿論、施主の希望が第一だが、もう少し冒険してみてもいいのにと思う事も多々だった。
 蕗子の提案は、それ程大胆ではなく、常識の延長線上にある遊びやゆとりを加えた物に過ぎないのだが、それでもオーソドックスを求められる。

 そんな要望の中でも出来る限りの範囲で提案をし、結果的に喜んで貰える事も多いので、やりがいがあるのだった。

 今回は世代が近い分、蕗子のアイデアも少しは通りやすいかもしれない。
 施主の希望をじっくり聴き、それに合わせて自分のアイデアをすり合わせて、面白いものを作っていきたいと今回は強く思った。

「今度は若い御夫婦だけに、蕗ちゃんの将来のマイホーム作りの参考になるんじゃないか?」

 財前が差配してくれた仕事だった。

「そうですね。ちょっと心が躍ります」

 晴明と約束していた。初台の家を五年を目途に改築すると。
 それまでに、沢山イメージを広げて満足のいく家を作りたい。
 自分達の家だ。自由だと思うとワクワクする。

 日曜日に東京に戻って来た晴明に、今度の新しい施主の家の話しをした。

「凄い、目を輝かせているね」

「だって、楽しいんだもん。今度のお宅はね。閑静な場所でね。庭が日本庭園的なのよ。肩の凝った感じで無い、自然の風合いが凄く良くて。その景観も生かせたらって思ってるの」

「でも、家は洋館なんだろう?施主さんだって、イングリッシュガーデンのようなのを望んでいたりするんじゃないのかな」

「そうね。でもイングリッシュガーデンって、フランスの庭園みたいなシンメトリックとかで作られたものじゃなくて、あくまでも自然の景観なのよ?家があるのは日本なんだし、その土地で生きている植物を利用して、素敵に作るのが本来の姿だと思ってるの」

「へぇ。でもそれは、造園屋さんの仕事じゃ?」

「そうだけど、その辺は、元々庭を管理されてた庭師さんと相談して、施主さんに提案しようと思ってるのよ」

「なるほどねぇ」
 晴明は感心したように笑った。

「蓼科での時間が、凄く役立ってるわ」
 蕗子が笑って言うと、晴明は嬉しそうな顔をした。

「そうか。それは良かった。君が楽しんで仕事をしてるみたいで僕も嬉しいよ」
「あなたの方はどうなの?」
「僕の方も順調だよ。あとね。報告があるんだ」
「報告?」

 一体なんだろう?皆目見当がつかない。

「二つあるんだ。一つ目は、十月からだけど、大学で油絵実技の助手をすることになった」

 晴明は現在、教養学部で非常勤講師として美術史を二コマ担当している。
 収入的には雀の涙と言ってもいい。
 絵が売れているからいいものの、普通ならそれだけでは生活はなりたたない。

「助手?実技の?」
 蕗子にはよく分からない。

「白川教授が担当している油絵実技のね。一人で指導されてるけど、見きれないから手伝って欲しいって頼まれた。勿論、大学から手当てが出る。それと、非常勤講師から専任講師に昇格するんだ」

「え?良かったじゃない」
「うん。その分、自分で描く時間は減っちゃうけどね」

 晴明はそう言いながらも嬉しそうだ。

「それで二つなの?」
「いやいや、それで一つ」

 助手と昇格の二つだと思っていたら、違ったようだ。
 では、あと一つとは何なのか。表情は明るいから悪い事ではないだろう。

「もう一つはね、十二月に個展を開く事になった」
「え?個展?十二月に?」

「そう。それも白川教授の推薦でね。アメリカで評判になったんだから、いい機会じゃないかって」
「だけど……、その時の絵って確か完売したとかって言って無かった?」

 個展の絵が完売すると言うのは、普通の事ではない。珍しい事だった。
 それだけ評判が良かった事の証拠とも言える。
 その個展から、時間はそんなに経っていない筈だ。
 再び個展を開けるほどの作品を用意できるのだろうか。

「そうなんだ。だから、これから更に忙しくなると思う」

 そうか。当たり前の事だが、それでも意気消沈した。

「間に合うの?そんなに短時間に、それなりの数を描きあげられるものなの?私が知ってる限りでは、それはそれは一作仕上げるのに大変な時間が掛っているような印象なんだけど。それに乾くのにも相当時間がかかるんじゃ……?」

 晴明は感心したように笑った。

「君の心配は尤もだと思う。今から普通に油絵を描いていたんじゃ正直間に合わない。描くのはともかく、乾かない。生乾き状態で展示するようだよ。でもね。完売したのは、あのテーマの絵であって、それ以外なら、それなりにあるんだ。それに、これから描くのは完全な油絵じゃなくて、アクリル絵画でいく。乾きが速いし、今描きたいテーマともマッチしてると思うんでね。その事は、白川教授に相談して賛成してくれてる」

 なるほど。アクリルか。それなら確かに大丈夫だろう。
 だが一つだけ気になる事がある。

「テーマなんだけど、アメリカで評判を得たのと同じテーマじゃなくて大丈夫なの?日本って、何かで賞を得たとか、評判が良かったとか、そういう肩書きとか下地がないと人を呼べないでしょ」

『ニューヨークで人気を博した作品を日本でも一挙公開!』と言うような広告性があってこそじゃないのか。
 凱旋するみたいな。

 蕗子がそう言うと、晴明は可笑しそうに笑った。

「確かにね。そうだったら、きっと凄い人が押し寄せるかもしれない。それはそれとしてさ。今回は大学側が主催だからね。定例に近い個展。毎年、提案されて、該当者がいればやる個展。いない年は無いの。それで今年は、教授が僕を推薦してくれて、それが通ったんだよ。いい機会だと思うんだ。僕にとっても大きな転機の年だったからね。その締めくくりに相応しいだろ?」

「そうなんだ。それならね。喜ばしい事なんだね」

「そうだよ。今度の個展のテーマ、悪いけど公式に発表するまでは君にも秘密だからね」
「ええー?どうして?」

 思いもよらない事を言われて、ちょっとショックだ。

「どうしても」

「納得できない。どうしてもってどういう事?私は家族でしょ?警察官とかスパイとかならいざ知らず、それ以外で家族にも言えないって事、ある?」

「アハハ、なんで、警察官とかスパイなんて出て来るんだよ。例えが可笑し過ぎる」

 晴明は珍しく大笑いしだした。

「だって、他に思い浮かばなかったんだもの。でも、本当にどうしてなの?」

 蕗子はわざと悲しそうな顔をした。

「そんな顔、しないでくれよ。意地悪じゃないんだ。君をね。驚かせたいだけなんだ」

 優しくなだめるような顔と声音だ。

「ますます訳が分からない」

「いいから。パンフレットとかができたら分かるよ。十月にまずチラシができるそうだから、その時に分かる。でも実際のところは、見てのお楽しみだね」

「それって、もしかして、絵を展示するまで、見せないって事なの?」

 言ってみたら当たってしまった。

「もしかしなくても、そういう事」

「ねぇ。普通、発表する前に身近な人に見せて意見とか訊かない?」
「訊くよ、教授や俊司とかに」
「そこに私は含まれないの?」

 既にむくれている。腹が立ってきた。

「含まれない。今回はね」

 蕗子は立ち上がると、部屋の扉を開いて言った。

「私、明日は早いので、もうお帰り下さい」

「おいおい~。酷いじゃないか」

 ぷいと横を向いた。

「全くなぁ……。君がこんなに、つむじ曲がりとはなぁ」

 蕗子は答えなかった。

「分かったよ。帰るよ」

 晴明は立ち上がった。横を向いている蕗子の前を通り過ぎて玄関に向かう。
 その姿を蕗子は睨むように見ていたら、晴明が突然振り向いた。
 蕗子は慌てて目を逸らす。

「蕗子さん。今回は大目に見て欲しい。本当に意地悪してるんじゃないんだ。君を驚かせたいだけなんだよ。実際に本番で見れば分かってくれると思うけど、そんな風にむくれないで欲しいんだ。もうすぐ一緒に暮らすんだから」

「だって……。だって……」

 どう言ったら自分の心を伝えられるのかわからず、もどかしかった。
 情けなくて涙がこぼれた。余計にそんな自分が情けなくなってきた。

 晴明は玄関から引き返すと、蕗子を抱きしめた。

「ごめんよ。だから泣くなよ。今回だけだから」
「分かってるの。でも、……なんだか私だけ、のけ者にされたような気がして……。酷いって思うのも、当然でしょう?」

「そうだね。でも、のけ者じゃないから。言ってみれば君は特別なんだ。これだけ言っとくよ。今度の個展は君に捧げるものなんだ。君の為にやるんだよ」
「私の為?どうして?」

 晴明は蕗子を抱きしめる手に力を込めた。

「君を誰より愛してるから。結婚祝い、もしくは結婚記念?みたいなものだと思ってくれていいよ」

 言われて急に胸に熱い思いが湧いてきた。

「だから、サプライズなんだよ。一体、どんなものが出てくるのかって楽しみに待っていて欲しいんだ。ね?わかるだろう?」

 蕗子はそっと晴明を見上げた。愛に満ちた顔で蕗子を見ている。
 愛しくて愛しくてたまらないと訴えていた。蕗子はそれを信じるしかなかった。

「わかったわ。楽しみに待ってる。ありがとう」

 蕗子は愛をこめて、晴明に微笑んだ。
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