第18話

文字数 4,062文字

「あなたも最初から感じていた筈です。僕だって一応結婚した身ですから、簡単に他の人を好きになったから離婚したいだなんて言いませんよ。できる事なら諦めます。諦める努力をする。恋愛に重きを置いているわけじゃないですし」

 それなら何故と思うばかりだ。晴明の行動からは、簡単に心変わりをして簡単に別れを告げているようにしか見えない。

「だけど、あなたの存在は、そんな簡単じゃなかった。本当に、どうして蘇芳に出会う前にあなたと出会わなかったのか。……彼女を亡くしてからと言うもの、もう二度とそういう女性と二度とめぐり逢う事は無いと思っていたのに……」

 晴明は悔しそうに顔を歪めた。
 
「なんだか皮肉ですよね。こんな事があるなんて。神の悪戯だったとしても酷すぎます。それだけ強く、あなたに引きつけられている。そしてあなたも同じだ。僕たちは互いに強い力で引きつけ合ってるんだ」

「そんなこと……」
 無いと言いたいのに言えない自分がいた。

「あなたはそれを認めたくないだけなんだ。僕が妹の夫だから。そうでなければ、何の障害も無ければ、僕たちはもっと早く自然に結ばれていたと思う。出会った瞬間に抱きあうくらいに」

 カァーッと体中が熱くなるのを感じた。

「蕗子さん。あなたは仕事熱心で常識的で、そして家族を愛し大事にしてる。生真面目なくらいに。でも、その家族は、あなたが大事に思うほど、あなたを大事に思ってくれているんだろうか」

 いきなり頭を殴りつけられた思いがした。
 サーッと血の気が引いて行くのを感じる。

「あなたの事は、蘇芳から聞いています。蘇芳からの話し、夕べの出来ごと、そして五條家でのご家族の様子から僕が感じるのは、家族の繋がりが希薄だと言う事です」

 思いもよらない言葉だった。確かに家族の対応に失望はしたし、蘇芳との扱いの差を感じてはいたが、それでも普通の家族だと思っていた。
 取り立てて、絆が深くも無ければ浅くもない。そんな事を意識もしないほどには。

「希薄……?」
 だから思わず問いかけた。

「ええ。蘇芳は自分中心で家族に対する思いやりが無い。はっきり言うと、彼女はあなたの事もご両親の事も、馬鹿にしています。ご両親の方は、そうとも知らずに蘇芳を溺愛している。あなたは留守中の蘇芳の身代わりに過ぎなかった。そしてあなた自身は、蘇芳を溺愛しながら見返りがない寂しいご両親を慰めるように良い子を演じて来た。蘇芳に対しても、何度も嫌な仕打ちを受けながらも、理解のある姉として赦してきた。そして、そんな脆い家族のあり様を、現実の姿を直視できずに誤魔化し続けてきたんです。もう既に、いつ壊れてもおかしくない状態だったんですよ。だから僕は、それなら壊すことに躊躇(ためら)う必要もない。逆にあなたの為なのかも知れないと決断したんです」

「あ、あなたに……、そんな権利ないわ」
 蕗子は声を振り絞るように言った。

「私たち、家族の問題よ」
「僕たちの問題でもある」
「僕たち?」
「僕と蕗子さんの。そして蘇芳も」

 晴明は蕗子の返事を待たずに続けた。

「放って置いても、遅かれ早かれ壊れた関係だよ。そして、その家族の存在が僕たちの間を邪魔しているんだ。壊れるものなら、さっさと壊した方がお互いの為だ」

 分かっていた。晴明の言う通りだ。
 それでも蕗子は自ら壊したくは無かった。
 偽りでも続けていたかった。

「夕べは傷ついたと思う。ご両親の言動で。君が切れるのも当然だよ。ご両親は蘇芳の言う事を鵜呑みにして、君を頭から疑ってかかり、君の言い分をまるで聞こうとはしなかった。当然の報いだと蘇芳は君を罵ってた。僕はそれを聞いて、来るべき時が来たと思った。これから先は、僕が君を守る。支える。だから君は自分の心に素直になって欲しいんだ」

「無理だわ」
 蕗子は思いきり頭を振った。

「蘇芳はあなたとは絶対に別れないって言ってた。あなたの相手が他の女性ならともかく、私なんだから余計に別れまいって思っている筈よ。私だって、人のものを取るなんて事、したくない」

 涙が再び溢れてきた。
 嫌だ、嫌だ!私はそんな事したくない!

「蕗子さん」
 呼びかけられても頭を振った。

「嫌よっ」

 取りつく島も無い蕗子の状態に、晴明は業を煮やしたように立ち上がると、蕗子の傍に移動して、彼女を無理やり立たせると、その体を抱きすくめた。

 突然の行為に、蕗子は一層混乱して抵抗した。

「やめて!」

「嫌だ。僕は君を愛してる。君だって同じ筈だ。僕たちは愛し合ってるっ」

「違うわっ」

「いいや、違わないっ。僕たちは愛し合ってるんだっ」

 晴明の力強い言葉に、蕗子は(あらが)えなくなった。
 そんな蕗子を愛おしむように、晴明はゆっくりと蕗子の長い髪を撫でた。

「蕗子さん……。ごめん、君を苦しめて。でも、君を知りながら、君を愛しながら、蘇芳と夫婦関係を続けていく事はできない。……君と一緒になれないのなら、僕は死んだ方がマシなんだよ」

 苦しみながら吐き出すように出て来た言葉だった。

「晴明さん……、どうしてそこまで……」

 蕗子には理解できなかった。
 惹かれ合ったのは事実だろうが、二人で共に過ごした時間があるわけでもないのに、どうしてそこまで思うのか。

「こんな僕を……、君は不思議に思うだろうね。死んだ方がマシだなんて大袈裟なって笑うかもしれない。だけど、大袈裟なんかじゃないんだ。本当にそう思ってる。君が必要なんだ。君を知る前の僕は、死人同然だった。だから蘇芳と軽々しく結婚したんだ。でももう、戻れない。君を知ったら、知る前の死人のような僕には戻れない。戻りたくない。そんな状態で生きていくのが辛いんだ……」

 晴明はギュゥと強く蕗子を抱きしめた。彼の体と声が震えているのを感じた。
 体はこんなにも暖かいのに、心の底に冷たいものが横たわっているように感じられた。
 瞳の底深くに煌めいている青い炎が種火のように(たゆた)っている。

 絵具と薬品の匂いがした。
(この人の匂い……)

 そっと頭を起こして見上げると、晴明と目が合った。
 哀しい眼だった。

 暫く見つめ合った後、晴明は蕗子からそっと離れた。

「座ろう……」
 そう促して、元の場所へ着席した。

「君にとっては、あまりに突然の事だから戸惑うのも当然だと思う。ただ君は蘇芳と僕との事を心配する必要はないから。蘇芳とは近いうちに必ず別れる」

「だって……」
 蕗子の言葉を遮るように晴明は続けた。

「初めて五條家を訪問して君と出逢ってから、僕は蘇芳と別れる為に手を打ってきた」

「えっ?それはどういう意味?」

「彼女は僕たちがまるで不倫関係にあるように言ってるが、実際には違う。その事で訴えられたとしても、僕たちにはその事実はない。仕事の打ち合わせの時だって、いつも誰かしらが一緒で二人だった事はない。もしかしたら、ここの人達にそれを証言してもらう事態が生じるかもしれないが、まず無いと思う。だから君とは、離婚が成立するまでは、二人きりで逢う事はしないつもりだ」

 晴明は少し寂しげに笑った。

「君はとても常識的な人だ。僕だって、君に世間から後ろ指をさされるような事をしたくない。君の一番のネックは、そこなんじゃないのかな?だから、そんな心配はしなくていいんだよ。正式に別れて、自由の身になってから、僕は改めて君に求婚するから」

 晴明は労わるように優しく微笑んだ。

「晴明さん……」

 自分勝手な人だと思っていたが、そうでは無かったようだ。
 蕗子が一番不快に思っている事を理解し、それを尊重してくれている。
 この人の言動のせいで、とんだ事になったと深く傷ついたが、もう少し冷静になるべきだったかもしれない。

(それでも……)

 妹の夫を奪う事には変わりはない。

「言っておくけど。君が蘇芳に対して負い目を感じる必要は無い。君は過去に、何度も交際中の男性を蘇芳に横取りされてる。だからって君が奪って良いという法は無いけど、蘇芳は人の不貞を大騒ぎしながら、自分の方こそ不貞を重ねてる。ニューヨークにいた時からね。僕にとってはどうでも良い事だったから見過ごしてきたが、別れたくないと言い張るなら、伝家の宝刀じゃないけど、不貞の事実を突きつけるつもりだ。その為の証拠集めをずっとしてきたんだよ」

 別れる為に手を打ってきたとは、そういう事だったのか。
 それでも蘇芳が可哀想だと思うのは何故なのだろう。何度も裏切られてきたのに。

「君が蘇芳を恨むように仕向けているわけじゃないが、蘇芳はずっと、故意に君の相手を誘惑し、自分のものになったら捨てて来た。君もそれに気付いてたんじゃないのかな」

 蕗子は小さく頷いた。

「認めたくなかったから、気付かない振りをしてた。だって、どうしてなのか分からないから。なぜ、そんな事をするのか」

「君は優しい人だ。だけど、蘇芳は違うよ。彼女は思いやりに欠けている。多分、生まれ付きなのかもしれない。自分中心で、自分が楽しければいいんだ。姉の付き合ってる男は、面白いくらいに自分に簡単に(なび)く、そう言ってたよ。それが楽しくて仕方無くて、姉に紹介されるたびに、つい手を出しちゃうのって、悪びれもせずに笑ってた」

 楽しんでやっていたというのか。姉妹なのに。

「でも一方で、悔しがってもいた。『どうして怒らないのか理解できない』ってね。あの人は仕事の虫だから、簡単に取られるんだ、冷たいんだともね」

「それは……、その通りなんだと思う」
「僕はちょっと違うと思う」

 蕗子は首を傾げた。

「仕事以上に心を奪われる相手に出会わなかっただけだ。冷たいのとは違う。僕だって、ずっとそうだったからね。……でも、もう違う。そうだろう?」

 澄んだ笑顔でそう問われた。

「僕の事を想う度に、仕事に手が付かない。図星だよね」 

 自信満々に言われて、蕗子は溜息をついた。

「どうしてそんなに、自信満々なの?」

「そんなの決まってる。僕がそうだからさ。僕と君の心は繋がっている。だから、僕も、君の事を想うと仕事に手が付かないんだ」

 屈託のない、爽やかな笑顔に、蕗子は笑うしか無かった。
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