第9話
文字数 3,455文字
参考にして欲しいと蘇芳に伴われて、あるダンサーの練習スタジオを訪れ、その帰り、久しぶりに二人でカフェに入った。
二人きりで話すのは、蘇芳が渡米する直前に姉妹だけで遊んだ時以来だ。
「改めて、無事の帰国と結婚、おめでとう」
「ありがとう」
コーヒーで乾杯した。
二人が入ったのは、おしゃれで落ち着いたカフェだった。
ゆったりとしていて、大きな声でも出さない限り周囲に話しの内容を聞かれる心配はなさそうだ。
「まさか、蘇芳が結婚するなんてね」
「みんなに言われる」
帰国後、昔のダンス仲間とアクセスし、活動の足がかりをつけようと毎日あちこちへ出歩いている蘇芳だが、かつての友人・知人達はほぼ百パーセント、蘇芳の結婚が信じられないと口を揃えているらしい。
「でしょうね。誰だってそう思うわよ」
蘇芳は口をへの字に曲げた。
「私だって、する時はするわよ。これまで、そういう相手とめぐり逢えなかったってだけの事なのに」
惚れっぽくて冷めやすい女だからこそ、誰もが結婚なんて有り得ないと思うんだろう。
一度だって本気で好きになった事なんて無かった筈だ。親しい人間は、皆それを知っている。
「アメリカではどうだったの?晴明さんと知り合う前……」
蘇芳はアハハと照れくさそうに笑った。
「まぁ、それなりにね。外国人との付き合いも結構楽しかったわよ」
「晴明さんは、そういうの知ってるの?」
「一応ね。知り合った時、派手に遊んでたから」
「それらを皆、足蹴にしたってわけね」
「そういう事。それだけの価値がある男だもの。めちゃイイ男だし」
確かにイイ男だと思う。背は高いしスタイルはいいし、顔立ちも端正で魅力的だ。
おまけに人気画家で実家も裕福らしいとくれば、問題点を見つける方が大変そうだ。
「ただねぇ……」
蘇芳が少し顔をしかめたのが訝しかった。
「何?なんか問題でもあるの?」
見かけに寄らない重大な欠点を、結婚してから見つけたか?
「うーん……、なんかこんな事を独身のお姉ちゃんに言うのも何だけど」
何故か逡巡している。
何でもズケズケとストレートな蘇芳が。
「何よ。独身だと何か問題があるわけ?」
「問題なわけじゃないんだけど、刺激強くないかな、と思って」
溜息が出る。
(全く、馬鹿にして)
「ああ、そう。そうかもね。私には刺激が強すぎて聞けないかも」
わざとニッコリと微笑んだ後、ツーンと反対側を向いた。
この妹には何度も煮え湯を飲まされている。それだけに、男の事で親身になってやる義務なんて無いだろう。
姉とは言え、限度と言う物がある。
あって良い筈だ。そう自分に言い聞かす。
「お姉ちゃんったら、冷たいのね。もう少し妹の心配をしてくれてもいいんじゃない?」
「はぁ?心配するような事なの?」
思わず眉間に力が入る。
「まさか、昔の事でまだ怒ってるとか……」
「そんなわけ、無いでしょう?もう過ぎた事よ。それに、その時にだって、大して怒らなかったでしょうに」
「それはそうだけど、時間と共に怒りがフツフツとって事もありえるじゃない?」
「いい加減にしないと、本当に怒るわよ?」
蕗子が睨むと、「ごめんごめん」と蘇芳は笑った。
「あのさ……、ほんとお姉ちゃんに言うような事でも無いのかもしれないけど、他に話せる人もいないからさ」
「わかったわよ。変に茶かすからいけないんじゃない。一体、何なの?」
「実はさ……」
言いにくそうに、もじもじしている。本当に、こんな蘇芳は珍しい。
珍獣でも見ているみたいだ。
「晴明、さ……。あ、あのね。晴明とね……。帰国してから、一度も無いのよ。アレが」
「アレ?」
蘇芳は水が入ったコップの周辺に溜まっている水に指をつけて、テーブルの上に文字を書き出した。
『H』
「はい?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
「そっちからだと、見えないかな?」
「見えるけど……その……、エ・ツ・チ、であってる?」
周囲に聞えないとは思うものの、あまりにはっきりとダイレクトには言えなくて、敢えて一音ずつ切った。
「あってる」
蘇芳は真剣そうな目をして頷いた。
「帰国してからって……、どのくらい経ったかな?」
「二週間」
「そ、それは……ちょっとあれだね。長いね」
二週間しか経っていないわけだが、結婚したばかりの夫婦が二週間無いとなると、それは矢張り長いとは思う。連れ添って長いならともかく、新婚だ。
「忙しくて、そういう時間が持てなかっただけじゃないの?すれ違いが多い印象だったけど?」
とにかく蘇芳がしょっちゅう出歩いているようで、現場の下見に財前と共に行った時も蘇芳は留守だった。
「大体、あんたが出歩き過ぎなのよ。人の事を仕事の虫みたいに言ってるらしいけど、結局のところ自分だって同じ穴のむじなでしょう?」
「それはそうかもしれないけど、全く帰らない訳じゃないのよ?時には外泊する事もあるけど、大体は夜は帰ってる。晴明は大学の仕事は昼間だし、夜は家にいるんだから、すれ違ってるって言うのとはちょっと違うわよ」
ふてくされたような口調だ。
そもそも、外泊する事もあるなんて事自体が蕗子には理解できない。
結婚したばかりの人妻が外泊?呆れるばかりだ。
「結婚したばかりなのに、外泊なんかするから、晴明さん怒ってるんじゃないの?」
「まさか」
鼻で笑う。
「泊まる時はちゃんと連絡してるし、その事で不機嫌になられた事なんて、一度も無いし」
「おめでたいわね。不満に思っていても優しいから言わないだけなんじゃないの?」
「お姉ちゃん、意地悪言わないでよ」
蘇芳はむくれた。そんな蘇芳を見て息をつく。
何て言うか、常識が欠けている気がする。
「帰国してからって話しだけど、帰国前はどうだったの?」
気を取り直して訊ねた。
「帰国前は、多くは無いけど、それなりにあったかな。ただ彼、ちょっと淡泊かな」
「そう……」
一見、優男風だから草食系とも取れるが、時々そうとは思わせない、精悍な獣のような鋭い眼差しを向けられる時があった。
会った回数も時間も少ないが、蕗子は彼に危険な情熱のようなものを感じている。
だから『淡泊』との言葉には違和感を覚えた。
「晴明さん、画家でしょう。芸術家って結構、繊細なんじゃないの?だからまだ、こちらの暮らしに慣れなくて、その気になれないだけなんじゃない?時には二人でゆっくりできる時間を持ったらいいじゃない」
そのくらいしか言ってやれない。
そこまでデリケートな男とは思えないが、本当の所は分からないのだから仕方が無い。
「そっか。そうだよね。確かに彼、結構繊細だと思う。ああ見えて、ちょっと影のある人なんだよね。そんな所に惹かれたんだけど」
「あまり焦らずに長い目で見たら?あなたが情熱的過ぎて、少し疲れてるのかもよ?うちの両親とも会ったりして、精神的にも疲れてるのかもしれないし」
「そうかも知れない。勝手に入籍しての事後承諾だもんね。若者ならともかく、彼も大人だし……。お姉ちゃん、ありがとう」
「どういたしまして」
よもや妹からこういう話しをされるとは思ってもみなかった。我が道を行くタイプの蘇芳は、
ずっと自分の価値観で突っ走って来ていたのだから。
今度の相手とは九つの年の差だ。ジェネレーションギャップとまではいかなくても、これまでとは勝手が違うのだろう。
「実は明日なんだけど、うちの者と測量に行く予定なんだけど、蘇芳はいる?」
「あ、ごめんなさい。明日はオーディションなの。直人が紹介してくれたのよ。直人、覚えてる?」
「ええ」
東直人。蘇芳が渡米する前、同じスタジオで踊っていたダンス仲間だ。
一度、二人のステージを観に行った時に紹介された事があるが、均整のとれた柔軟な身体を持っていてキレのあるダンスをしていた。
「東くんは、この三年間どうしてたのかしらね?」
蕗子の問いに蘇芳は厳しい顔つきになった。
「癪 だけど、それなりにダンサーとして仕事を貰えるようになったみたい」
「そうなんだ……」
悔しそうな顔をしている蘇芳に、どう返したら良いのか分からなかった。
彼女が既に成功していたのなら、単純に東の事を喜んでも問題はない。
「まぁ、そのお陰で幾らかツテが出来て良かったんだけどね」
気を取り直したように笑顔になると、蘇芳は立ち上がった。
「じゃぁ、お姉ちゃん、またね。明日の測量よろしく。晴明はいるだろうから」
自分のコーヒー代を置いた後、スカートの裾を翻して軽やかに去っていく姿は蝶のようだった。
綺麗な燐粉を周囲にまき散らして、空気がキラキラしているように見えた。
二人きりで話すのは、蘇芳が渡米する直前に姉妹だけで遊んだ時以来だ。
「改めて、無事の帰国と結婚、おめでとう」
「ありがとう」
コーヒーで乾杯した。
二人が入ったのは、おしゃれで落ち着いたカフェだった。
ゆったりとしていて、大きな声でも出さない限り周囲に話しの内容を聞かれる心配はなさそうだ。
「まさか、蘇芳が結婚するなんてね」
「みんなに言われる」
帰国後、昔のダンス仲間とアクセスし、活動の足がかりをつけようと毎日あちこちへ出歩いている蘇芳だが、かつての友人・知人達はほぼ百パーセント、蘇芳の結婚が信じられないと口を揃えているらしい。
「でしょうね。誰だってそう思うわよ」
蘇芳は口をへの字に曲げた。
「私だって、する時はするわよ。これまで、そういう相手とめぐり逢えなかったってだけの事なのに」
惚れっぽくて冷めやすい女だからこそ、誰もが結婚なんて有り得ないと思うんだろう。
一度だって本気で好きになった事なんて無かった筈だ。親しい人間は、皆それを知っている。
「アメリカではどうだったの?晴明さんと知り合う前……」
蘇芳はアハハと照れくさそうに笑った。
「まぁ、それなりにね。外国人との付き合いも結構楽しかったわよ」
「晴明さんは、そういうの知ってるの?」
「一応ね。知り合った時、派手に遊んでたから」
「それらを皆、足蹴にしたってわけね」
「そういう事。それだけの価値がある男だもの。めちゃイイ男だし」
確かにイイ男だと思う。背は高いしスタイルはいいし、顔立ちも端正で魅力的だ。
おまけに人気画家で実家も裕福らしいとくれば、問題点を見つける方が大変そうだ。
「ただねぇ……」
蘇芳が少し顔をしかめたのが訝しかった。
「何?なんか問題でもあるの?」
見かけに寄らない重大な欠点を、結婚してから見つけたか?
「うーん……、なんかこんな事を独身のお姉ちゃんに言うのも何だけど」
何故か逡巡している。
何でもズケズケとストレートな蘇芳が。
「何よ。独身だと何か問題があるわけ?」
「問題なわけじゃないんだけど、刺激強くないかな、と思って」
溜息が出る。
(全く、馬鹿にして)
「ああ、そう。そうかもね。私には刺激が強すぎて聞けないかも」
わざとニッコリと微笑んだ後、ツーンと反対側を向いた。
この妹には何度も煮え湯を飲まされている。それだけに、男の事で親身になってやる義務なんて無いだろう。
姉とは言え、限度と言う物がある。
あって良い筈だ。そう自分に言い聞かす。
「お姉ちゃんったら、冷たいのね。もう少し妹の心配をしてくれてもいいんじゃない?」
「はぁ?心配するような事なの?」
思わず眉間に力が入る。
「まさか、昔の事でまだ怒ってるとか……」
「そんなわけ、無いでしょう?もう過ぎた事よ。それに、その時にだって、大して怒らなかったでしょうに」
「それはそうだけど、時間と共に怒りがフツフツとって事もありえるじゃない?」
「いい加減にしないと、本当に怒るわよ?」
蕗子が睨むと、「ごめんごめん」と蘇芳は笑った。
「あのさ……、ほんとお姉ちゃんに言うような事でも無いのかもしれないけど、他に話せる人もいないからさ」
「わかったわよ。変に茶かすからいけないんじゃない。一体、何なの?」
「実はさ……」
言いにくそうに、もじもじしている。本当に、こんな蘇芳は珍しい。
珍獣でも見ているみたいだ。
「晴明、さ……。あ、あのね。晴明とね……。帰国してから、一度も無いのよ。アレが」
「アレ?」
蘇芳は水が入ったコップの周辺に溜まっている水に指をつけて、テーブルの上に文字を書き出した。
『H』
「はい?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
「そっちからだと、見えないかな?」
「見えるけど……その……、エ・ツ・チ、であってる?」
周囲に聞えないとは思うものの、あまりにはっきりとダイレクトには言えなくて、敢えて一音ずつ切った。
「あってる」
蘇芳は真剣そうな目をして頷いた。
「帰国してからって……、どのくらい経ったかな?」
「二週間」
「そ、それは……ちょっとあれだね。長いね」
二週間しか経っていないわけだが、結婚したばかりの夫婦が二週間無いとなると、それは矢張り長いとは思う。連れ添って長いならともかく、新婚だ。
「忙しくて、そういう時間が持てなかっただけじゃないの?すれ違いが多い印象だったけど?」
とにかく蘇芳がしょっちゅう出歩いているようで、現場の下見に財前と共に行った時も蘇芳は留守だった。
「大体、あんたが出歩き過ぎなのよ。人の事を仕事の虫みたいに言ってるらしいけど、結局のところ自分だって同じ穴のむじなでしょう?」
「それはそうかもしれないけど、全く帰らない訳じゃないのよ?時には外泊する事もあるけど、大体は夜は帰ってる。晴明は大学の仕事は昼間だし、夜は家にいるんだから、すれ違ってるって言うのとはちょっと違うわよ」
ふてくされたような口調だ。
そもそも、外泊する事もあるなんて事自体が蕗子には理解できない。
結婚したばかりの人妻が外泊?呆れるばかりだ。
「結婚したばかりなのに、外泊なんかするから、晴明さん怒ってるんじゃないの?」
「まさか」
鼻で笑う。
「泊まる時はちゃんと連絡してるし、その事で不機嫌になられた事なんて、一度も無いし」
「おめでたいわね。不満に思っていても優しいから言わないだけなんじゃないの?」
「お姉ちゃん、意地悪言わないでよ」
蘇芳はむくれた。そんな蘇芳を見て息をつく。
何て言うか、常識が欠けている気がする。
「帰国してからって話しだけど、帰国前はどうだったの?」
気を取り直して訊ねた。
「帰国前は、多くは無いけど、それなりにあったかな。ただ彼、ちょっと淡泊かな」
「そう……」
一見、優男風だから草食系とも取れるが、時々そうとは思わせない、精悍な獣のような鋭い眼差しを向けられる時があった。
会った回数も時間も少ないが、蕗子は彼に危険な情熱のようなものを感じている。
だから『淡泊』との言葉には違和感を覚えた。
「晴明さん、画家でしょう。芸術家って結構、繊細なんじゃないの?だからまだ、こちらの暮らしに慣れなくて、その気になれないだけなんじゃない?時には二人でゆっくりできる時間を持ったらいいじゃない」
そのくらいしか言ってやれない。
そこまでデリケートな男とは思えないが、本当の所は分からないのだから仕方が無い。
「そっか。そうだよね。確かに彼、結構繊細だと思う。ああ見えて、ちょっと影のある人なんだよね。そんな所に惹かれたんだけど」
「あまり焦らずに長い目で見たら?あなたが情熱的過ぎて、少し疲れてるのかもよ?うちの両親とも会ったりして、精神的にも疲れてるのかもしれないし」
「そうかも知れない。勝手に入籍しての事後承諾だもんね。若者ならともかく、彼も大人だし……。お姉ちゃん、ありがとう」
「どういたしまして」
よもや妹からこういう話しをされるとは思ってもみなかった。我が道を行くタイプの蘇芳は、
ずっと自分の価値観で突っ走って来ていたのだから。
今度の相手とは九つの年の差だ。ジェネレーションギャップとまではいかなくても、これまでとは勝手が違うのだろう。
「実は明日なんだけど、うちの者と測量に行く予定なんだけど、蘇芳はいる?」
「あ、ごめんなさい。明日はオーディションなの。直人が紹介してくれたのよ。直人、覚えてる?」
「ええ」
東直人。蘇芳が渡米する前、同じスタジオで踊っていたダンス仲間だ。
一度、二人のステージを観に行った時に紹介された事があるが、均整のとれた柔軟な身体を持っていてキレのあるダンスをしていた。
「東くんは、この三年間どうしてたのかしらね?」
蕗子の問いに蘇芳は厳しい顔つきになった。
「
「そうなんだ……」
悔しそうな顔をしている蘇芳に、どう返したら良いのか分からなかった。
彼女が既に成功していたのなら、単純に東の事を喜んでも問題はない。
「まぁ、そのお陰で幾らかツテが出来て良かったんだけどね」
気を取り直したように笑顔になると、蘇芳は立ち上がった。
「じゃぁ、お姉ちゃん、またね。明日の測量よろしく。晴明はいるだろうから」
自分のコーヒー代を置いた後、スカートの裾を翻して軽やかに去っていく姿は蝶のようだった。
綺麗な燐粉を周囲にまき散らして、空気がキラキラしているように見えた。