第19話

文字数 4,975文字

 阿部邸のダンススタジオの仕事は取り敢えず延期にした。

 蕗子と出逢った瞬間から蘇芳と別れる決意をした晴明が、なぜ蘇芳のスタジオ計画に賛成し、進めて来たのかと言えば、離婚する時の慰謝料のつもりだった。
 初台の自宅ごと蘇芳に提供する事で、罪滅ぼしにしようと思ったらしい。

 ただ、晴明の新たな相手が蕗子であり、その蕗子が作ったスタジオとなると、素直に受け入れるかどうか疑問だ。「いらない」と言われたら、始末に困る。

 高額な費用をかけて無駄になる算段の方が大きいだろう。それでも晴明は、蕗子の面子を立てて計画を進めて良いと言った。蘇芳がいらないなら、欲しい人間に売れば良いと。

 しかし蕗子は延期を言い張った。最終的にご破算になっても構わない。違約金を払う方がずっと得だと思う。
 蕗子は事情を所長の財前に話した。財前は思いも寄らない話しに眼を剥いて驚いた。

「蕗ちゃん……、君は彼の事が好きなのか」
「……わかりません」

 蕗子は財前の刺すような視線に耐えきれず、思わず目を伏せた。

「わかりませんとは、どういう事だ。可笑しな話じゃないか」

 皆が帰った後の事務所だった。皆がいない事務所は無機質な感じがした。
 設計事務所らしく、随所に意匠を凝らしてはあるが、それでも機能さを重視した作りになっている。普通のオフィスのような殺風景さが無いだけだ。

 蕗子は頭を軽く振った。

「一つだけ確実な事は、妹夫婦は離婚するだろうと言う事です。だから、スタジオの依頼は取り敢えず延期とする事を了承頂けたらと思います。最終的に中止となるであろう事も念頭に置いて……」

「その事は分かったよ。そういう事情なら致し方ない。中止にした場合のキャンセル料さえ払って貰えるなら文句は無い。だけど、問題なのは君の事だ。俺は君の気持ちを聞いている」

 蕗子は恐る恐る財前を見た。
 彼の瞳はどこか怒りを含んでいるように感じられた。

「こんな事になって、残念に思ってます。結果的に事務所に迷惑をかける事にもなってしまいましたし」

「そんな事は訊いて無いよ。蕗ちゃん、誤魔化さないで答えてくれ。君は彼が好きなのか」

「言わなければ、いけないんですか?」

「ああ。なぜなら、俺は君が好きだからだ。だから、君の気持ちが知りたい」

(ああ……、言われてしまった)
 だが、告白された感じがしない。
 この雰囲気だからだろう。溜息が出た。

「所長……。本当に私自身にもよく分からないんです。多分、はっきりそうと認めたくないんだと思うんです。だって、手放しで好きになれる相手じゃないじゃないですか」

「それはそうだ」
 財前の言い方は力強かった。

「阿部さんは、阿部さんの事情で妹と離婚します。阿部さんの想いの中に私がいても、私自身には直接は関係ないし、私は一度も、彼に好きだなんて言って無いですし」

「それは本当なのか?」
 意外そうな顔をした。

「愛を確かめ合ったんじゃないのか」

 矢張りそう思うのだろう。その事が、つくづく蕗子の心を重くする。

「そんな事、してません。阿部さん自身も、不倫関係にはなりたくないって言ってましたし。だから、正式に別れるまでは、阿部さんと私の間は何も始まらないんです。その時になって始まるのかどうかも、現時点ではわかりません」

 抱きしめられて見つめ合った時、キスをされるのではないかと危惧したが、彼はそうせずに、そっと蕗子から離れた。
 蕗子の気持ちを尊重してくれたのか、それとも彼自身の遠慮からだったのかは分からない。

『僕たちは愛し合っている』と声高に言いながらも、結局最後まで、蕗子の口から、その想いの言葉が出る事を求めなかった。
 つまり、はっきりと蕗子の気持ちを確認してはいないのだ。
 それでも彼は確信しているようだったが。

「私自身の気持ちは、これからゆっくり考えたいと思ってるんです。今すぐどうこうって訳じゃないですから。ただ、家にはもう帰れません。帰りたくないです。取り敢えずビジネスホテルに泊まってるんですけど、お金もかかるのでどこかアパートを借りたいんですが、所長、保証人に
なって頂けないでしょうか……」

 迷惑をかけたくなかったし、自分を女として求めている男性に頼みたくは無かったが、他にいない。

「……そうか。分かったよ。俺ももう、君を問い詰めるのはよそう。差し当たっては、住む所だな。だけど、本当にいいのか?ご両親ともう一度、ちゃんと話した方が良くないか」

 蕗子は悲しげに笑った。

「話し合う機会は、いずれ生じると思ってますが、今はいいです。それに、例え和解したとしても、家を出る気持ちは変わりません。独立しても良い年ごろじゃないですか」

「分かった。保証人の件は心配しなくていい。部屋探し、俺も手伝うよ。女ひとりじゃ舐められるぞ」

「それは嬉しいんですけど、よくよく考えてみたら、不動産屋さんに愛人関係じゃないかって疑われそうな気がします……」

 そうだ。知らない人間から見たら、そう思うだろう。
 なんだか急に頼む相手を間違えたと後悔する気持ちが湧いてくる。だからと言って、他にいないのだから仕方ないが。

 この事を財前の元妻である晴美が知ったら、益々二人の中を確信するかもしれない。後になってゴタゴタしなければ良いのだが。
 だが当の財前はまるで気にしていないように朗らかに笑った。

「俺としては、そう思ってくれた方が嬉しい」

(なんて事を言うんだ)
 蕗子は内心で、むくれた。


 インターネットで主だった物件を探した後、実際に現地へ出向いて見学し、東横線祐天寺駅から徒歩で約五分のワンルームマンションの五階の角部屋に決めた。

 築二十年で家賃は管理費込みで約七万円。オートロックで外観も中も綺麗だった。防犯や防災、耐震性も問題無かったので蕗子はひとまず安心した。

 職業柄、どうしても見る目が厳しくなるので、こういった賃貸マンションで満足した物件が果たしてあるのか正直不安だったのだ。

 探す時、或る程度地域を限定した。
 晴明の家がある初台、自宅のある三軒茶屋と財前の住居がある豪徳寺、それら周辺と同沿線上の駅は避けた。

 とは言え、祐天寺は三軒茶屋と沿線は違うが距離的には結構近い。
 中目黒にも良い物件があったので、最初はそちらにしようかと思っていたが、オフィス街で駅周辺に飲み屋が多く、それだけ酔っ払いも多いようで、遅くに帰宅する事も少くない事を考えると避けた方が無難だと判断した。

 家賃も祐天寺の方が安くて良い物件が多かった。
 大手建設会社にいた時から、ワンルームの設計施工を担当した事は無かったので、物件を見るのは初めてだった。

 よくまぁ、コンパクトにまとめてあるものだな、と感心した。
 財前が、もう少し広くても良いんじゃないかと言ったが、蕗子には十分だった。どうせ寝に帰るだけだ。

 家を出る時に持って出た物以外の私物を、三軒茶屋まで取りに行くつもりは無かった。
 置いてきた物は全て捨てた物と決めた。
 だから、荷物は衣料品と貴重品、仕事用品しか無い。
 使っていない家具があるから、あげようかと財前に言われたが断った。

「じゃぁ、新しく買ってあげよう。引越祝いに」

 これには呆れた。

「まるで、父親か叔父みたいですよ」
 ボソリと言ってやった。

「おや心外だ。パトロンと言ってくれよ」
「冗談にも過ぎますよ」

 蕗子は睨んだ。

「遊びに来てもいいんだろ?」
「いい加減、怒りますよ」

 全く、冗談にもほどがある。

「彼には連絡したのか?」
「いいえ……」
「どうして。彼だって心配してるんじゃないか?」
「さぁ。どうでしょう」
「さぁどうでしょうって、蕗ちゃんは本当に異性に対して冷たいと言うか、寄せ付けないよな」

 呆れ顔で言われた。
 昔何度か、付き合っている男たちに似たような事を言われた事がある。

『どうせ俺の事なんてどうでもいいって思ってるんでしょ』とか、挙句には『仕事とどっちが大事なんだよ』とか。
 そんな台詞を聞かされると、一気に気持ちが冷たくなるのだった。
 だから、蘇芳に取られても当然だと思ったし、怒る気にすらならなかった。

 大学の時の彼氏は同じ大学の学生だったが学部が違った。
 二級建築士の国家試験の為の勉強で必死になっていた蕗子にとって、彼との時間を持つ余裕は無かった。
 自分も就活で忙しいからと言っていたのに、いつの間にか当時高校生だった蘇芳とこっそり逢っていた。

「確かに私は冷たいのかなって思います。ただ、阿部さんに連絡していないのは、そういう理由じゃなくて……」

 蕗子は目を伏せた。

「もしかして、遠慮してるのか?」

「遠慮……。それに近いかもしれません。私から阿部さんのお宅に電話なんて出来ません。蘇芳が出ないとも限らないですから」

「携帯に電話すればいいじゃないかって……そうだった。彼、持って無かったね、携帯」

 帰国する時に処分して以来、新しい物を購入していなかった。
 持たなくても特に困らないから、そのうちにと言っている間に時間ばかり経過してしまっているようだった。
「私の方が困るのに」と蘇芳がこぼしていた。

「向こうからの連絡は?」
「あれからサッパリです」

 あれとは事務所にきた時の事だ。かれこれ十日になろうか。
 もう五月も終わる。もうすぐ梅雨時だ。

 蕗子自身、A市の施設の設計案の作成で目の回るような忙しさだった。
 コンセプトを具体的な形にしていくのは、かなり大変で創造力と計算と神経とで、頭はフル回転だ。

 その傍らで新居探しをしていたので、時間の余裕なんて無く、当然ながら晴明の事も考えている暇はいっときも無かった。
 向こうから連絡が無かった事もあり、すっかり失念していたと言ってもいいくらいだ。

「ふーむ」
 財前でも悩むようだ。
 晴明から連絡が無いのは、きっと彼なりの考えがあっての事だろうと蕗子は思っていた。

 蕗子が仕事で忙しいであろう事は、彼にだって容易に察しがつくだろう。それに、急な展開で頭が混乱していた蕗子にとって、この十日余りの時間は良いクールダウンに繋がった。

 多分、この先だって色々揉め事が生じてくるだろうが、とにかく一定の時間を置く事は互いの為でもあると思う。

「彼は気にして無いのかな。ホテル住まいなのは知ってるんだろう?」
「ええ。まぁ」

 ただ、ホテル名は教えていなかった。

「だけどさ。彼だけじゃなく、妹さんやご両親からも、何の音沙汰もないんだろう」
「はい……」

 蘇芳はともかく、両親から何も言ってこないと言う事実は、少なからず蕗子を傷つけていた。安否を気遣うメールすら寄越してこない。

 例え蕗子が本当に妹からその夫を奪ったのだとしても、家を出た娘の安否ぐらいは気遣って、本人にメールしなくても、せめて出勤はしているか会社に確認するなどしてもいい筈だ。

 そう思うのは、子供としての甘い考えなのだろうか。
 両親のしている事の方が、矢張り当たり前の事なのか。

「所長はどう思いますか?」
「俺の娘だったら、勘当だな」
「あはは、やっぱり?」

 笑うしかない。

「だけどな。一応、本人の言い分も聞くけどな。でもって、行為が事実なら勘当だ。ただ、蕗ちゃんのケースだったら、勘当はしないが、暫くへそを曲げるだろうな。男は、なかなか正直になれないし、弱みを見せれないもんだからね」

 財前は威厳でも示すように腕を組み、顔を僅かにしかめた。

「ただ…、お母さんの方は理解できない。父親がそうでも、大体は、母親の方は娘の味方じゃないのか?妹さんの味方だとしても、君が娘である事に変わりはない。翌日くらいには、どこに泊まったのか、会社へは行ってるのか、確認の電話なりメールなり、するもんじゃないのかな…」

「私もそう思ったんで、なんか拍子抜けしちゃいました。昔から両親は蘇芳贔屓でしたけど、ここまでとはね。だからやっぱり家を出て正解だったんだなって思います」

 蕗子は笑った。

「そんな、寂しそうに笑うなよ。抱きしめたくなるじゃないか」

 財前は情けなさそうな顔をした。

「すみません」

 蕗子は(辛いな)、と思った。
 財前がただの上司であってくれたら、もう少し頼れたのに。
 それこそ、父か叔父のように。

 だが現実は、弱みを見せたら逆に相手を刺激しかねない。そう考えると、なんだか四面楚歌の様だと思う。
 こんな事、他の誰にも相談などできやしない。
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