第50話

文字数 3,148文字

 昼間は晴れれば暖かいものの、夜ともなると大分冷えて来た。
 十月ももう終わろうとしている。
 晴明の大学での仕事も順調にいっており、制作作業の方も本人曰く「乗っている」らしい。

 蕗子の方は、施主の希望を元に大枠が決まり、細かい部分の詰めに入って来た。試作の設計図を幾つも描き、立体図にしてイメージを掴んで貰う。
 この、立体図になった時の施主の反応は、平面図で間取りを話しあった時と変わることが多い。

 立体になって初めて、イメージとのギャップがはっきりするのだ。
 こう言う点、昔は平面図主体だったから、お互いに大変だったろうなと思う。

 手書きで立体図を起こし、模型を作ってみても、それでもCADで作った立体図で見るのとは大分違う。
 パソコンだと、大きくしたり小さくしたり自由自在だ。水回りなどは、調理台や風呂など、実際にカタログにある写真を利用する事ができるので、よりリアル感が増す。
 作っている方も楽しいし、良い時代になったなと思うばかりだ。

「蕗ちゃん。悪いけど俺今日は先に上がらせてもらうな。どうしても出なきゃならない集まりがあるんだ」
「わかりました。お疲れ様でした」

 午前中に役所回りをし、午後はA邸へ行って打合せをし、それを元に事務所に戻って来て立体図を起こしている。
 時計は八時を過ぎていて、既に他の人間は皆帰っていた。

 元々仕事熱心なので、帰りが最後になる事が多かったが、新居に越してからは以前よりも最後に帰る事が多くなった。
 家が前よりも近くなったと言う事もあり、その分を仕事に回してしまうのだ。

 携帯が鳴った。見ると晴明からのメールだった。
 これから初台の家を出て、αT設計事務所まで迎えに行くから一緒に帰ろう、と書いてあった。

「わかった、待ってます」と返事をする。
 帰りが遅くなる時は、晴明が事務所まで来てくれる事があった。
 本当なら、朝まで描いていたい時だってあるんだろうに、晴明は必ず蕗子より先に帰るか、こうして寄って一緒に帰るのだった。

 パソコンのファイルを閉じて、書類を少しずつ片づけはじめた。
 すると突然、バタンと音がした。事務所の扉を閉める音だ。
 所長が忘れ物でもしたのかと思って顔を向けると、そこには父、広志が立っていた。

「お父さん……」

 眉間に力が入っていて、怖い顔だった。蕗子は体が硬くなった。
 寒気がする。身が凍る思いとは、今まさにこの事だと思った。

「蕗子。どういう事だ。あれから蓼科の阿部の所へ行ったのは分かってた。悔しかったよ。あれだけ言っても分からずに、あいつの所へ行くんだからな。一体、どうしたら分かるんだ。子供じゃあるまいし、いつになったら目が覚める」

 蕗子は立ち上がった。自分の荷物を持って扉に向かう。
 広志から少し距離を置いた所で立ち止まった。

「お父さん。お父さんには悪いけど、本当に私、子供じゃないのよ。自分の事は自分で決める。だからもう、放っておいて欲しいの」

「ああ、そうだろうさ。子供じゃないよな。だから、親に黙って勝手に結婚なんかしたんだろう。驚いたよ。この間まで気付かなかった。一緒に住み始めたのは知ってたが、まさか入籍までしてるとはな。お前、自分がやってる事が分かってるのか?あいつは蘇芳と離婚したばかりなんだぞ。して幸いとばかりに、すぐに入籍するなんて、無神経にも程がある。あいつはともかく、お前までがそんなに厚顔無恥だとは思っても無かった。お父さんはショックだよ」

 痛いところを突かれて、蕗子は少なからず動揺した。
 誰もがそう受け取るに違いない事だった。
 そう言われる事を覚悟していても、矢張り実際に言われると胸が痛くなる。

 広志がつかつかと近寄ってきて、蕗子の手首を掴んで引き寄せた。

「お父さん?」
 驚愕で目が見開いた。

「そういうわからず屋には、お仕置きをしないとな。お前は昔から聞きわけのいい、優しい良い娘だったのに、俺は残念でたまらないよ。あいつのせいで、綺麗だったお前が穢されていくのが許せない」

「お、お父さん……離してっ」

 蕗子は思いきり腕を引っ張るがビクともしない。

 広志の平手打ちが飛んできた。
 ビシビシと頬を叩く。
 あまりの事にショックを受けた。
 今まで一度だって、叩かれた事なんて無かった。
 よろけた拍子に押し倒された。

「折角、お父さんがお前を悪い虫から守ってきてやったって言うのに、お前ときたら、よりにもよって、あんなケダモノとっ。許さないぞ。絶対に許さない。あんなヤツに渡すくらいなら、俺の、……俺のものに」

「やめてっ」

 蕗子は暴れたが、まるでかなわない。
 のしかかる父の体の重さと比例するように恐怖がのしかかってきた。

「お父さん、お願いだから……やめて。こんなの間違ってる。おかしいよ」
「お前の方こそ間違ってるぞ。あんなヤツに夢中になりやがってっ」

 広志は蕗子のスカートの中に手を入れて、下着を下ろそうとした。

「いやっ!」

 思いきり暴れる。そんな蕗子に広志は自分の股間を押しつけてきた。
 それを感じてゾッとした。
 体中の毛が逆立つような、まさに虫唾が走る思いがした。
 瞬間、体が固まった。あまりにもショックで体のスイッチが切れてしまったように感じた。

 その時、「やめろ!」と叫ぶ声と同時に、自分の体が軽くなった。
 目の前の視界が開けて、ドシンと音がした。
 蕗子が音のした方を見ると、広志がそこに倒れていて、そばに晴明が立っていた。

「あなたは、何をやってるんだ。よりにもよって、自分の娘を……」

 拳を握りしめて震えている。

「自分の娘を……どうしようと親の勝手だ」

 広志がそう言いながら身を起こした。

「お前こそ、人の娘をそそのかして穢したな。ケダモノの癖に、俺の娘を、二人とも。許さないぞ!」

 広志は立ち上がると、晴明に殴りかかって来た。
 晴明は身軽にそれをかわした。
 広志はよろけるが、すぐに体勢を立て直して再び殴りかかるが、晴明はそれもかわす。
 それを何度も繰り返し、広志はゼェゼェと息を切らすようになった。

「もう、やめて下さい。こんな事をしても無駄です。僕たちは別れませんから」

 晴明は毅然とした態度できっぱりと言った。

「お前は自分を、呪わないのか……。その汚れた体で、よくも蕗子を愛せたもんだ」

 晴明の顔が青ざめたが、その顔に薄い笑いが浮かんだ。

「あなたの方こそ、呪わしいじゃないですか。僕の場合は異母兄妹ですが、あなたは自分の娘ですよ。自分がしようとしている事が分かってるんですか?あなたはそれで満足できるかもしれないが、彼女はどうなるんです。蕗子を壊したいんですか?そんな事、それこそ僕は絶対に許しませんよっ」

 晴明は恫喝した。
 それを受けて広志は狼狽している。

「お、お前が……いけないんだ……。お前さえいなきゃ、俺だって、こんな事はしやしなかった……。蕗子を愛しているが……ずっと欲しいと思ってたが、我慢したさ。そばにさえ置いておければ、それで良かったんだ。それを、それをお前が全部壊したんだっ!!」

 広志が傍にあったカッターナイフを手に取って、晴明に向けた。

「お父さん、やめて!」

 蕗子は叫ぶ。もう、何が何だか分からなかった。
 どうしてこんな事になるのか理解できない。

「お父さん、やめてください。こんな事をしても、何にもなりません。お父さん自身だって、人生を駄目にしてしまう」

 晴明が冷静に諭すが、広志の目は血走っていた。

「そんな事、もうどうでもいい。終わりにするんだ。全てを。お前がいなくなれば、蕗子だって諦めるしかない。だから、死んでくれ!」

 晴明は向かってきた広志をかわしたが、広志は執拗に向かってくる。
 広志はナイフを振りまわして滅茶苦茶に暴れた。
 蕗子はただ呆然と見ているしかなかった。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み