第60話

文字数 3,151文字

「そうかそうか、なるほど。晴明は、ネグリジェ姿の蕗子さんを描いてたって訳なんだな。なるほど、なるほど~」

 秘密を知って、この上なく楽しいと言わんばかりの顔で小野は頷いていた。
 蕗子はまさに、穴があったら入りたい気分だった。

「だけど蕗子さん。気にする事はないよ。そんな事、言われなきゃ誰も思わないから。俺だって、まさかネグリジェとは思わなかった。可愛らしいドレス姿じゃないか。妖精のようでもある。喜んでいればいいんだよ、ガハハ」

 いちいちガハハと笑って、全てを笑いで流してしまうんだ、この人は。
 と改めて思った。
 だが、こうして絵となって一般に公開されてしまっている以上、気にしても仕方が無い。

「それにしても、驚いたでしょう。ずっと隠してきてたから。アトリエで見た時、ホント俺も驚いたんだ。これは凄い事になるってね。で、完成品を見て案の定だ。晴明はこれを機に大成していくこと間違いなしだ。だけど実行委員の木田さんがさぁ。君に逢った時にはドキドキしたよ。
今にも君に言いそうだったんだから。内緒だって前もって言っておいたのに」

 そうだったのか。妙に変な感じだと思ったのはそのせいだったのか。
 しきりに小野が、木田の言葉の先を封じ込めるようにして、更に余計な事を言わせない為だったのだろう、白川教授がそうそうに帰宅を促していたのは。

「そう言えば、白川教授は?」
 蕗子は周囲を見回した。

「教授はどこかで、お偉いさんと話をしてるみたいだ。晴明の代わりに、色々説明とか解説とか、してくれてるんだよね」

 世話好きなのだろうか。いや、それだけではないだろう。
 白川教授の善意に満ちた行動には、つくづく頭がさがる思いだ。

「蕗ちゃんっ」
 財前達が声をかけて来た。

「素晴らしい作品だね。大成功、おめでとうございます」

 財前に握手を求められ、晴明は照れ笑いを浮かべながら応えた。

「ありがとうございます。それから何かとお世話になっています」

「いやいや。まぁ、色々あったけどね。それはそれ。今日はいいものを見せてもらって、喜んでいるんだ。心が洗われるような、美しい絵ばかりだ」

「本当に、とっても素敵です。蕗子さんが特に綺麗で、感動しました」
 波絵が目を輝かせていた。

「ねぇ、波絵ちゃん」
 蕗子が訊ねる。

「あの、天使が着てる服って、何に見える?何だと思う?」
「ちょっと、蕗子さーん」

 晴明が呆れたように口を挟んで来た。
 だが波絵は何でそんな事を訊くんだと、不思議そうな顔して即答した。

「お姫様ドレスじゃないんですか?」
「はい?」

 蕗子は意外な答えに目が点になった。

「あ、あの……、お姫様ドレスって、もっとこう、ゴージャスな感じじゃない?」
「あ、言われればそうかもですね。じゃぁ、妖精さんドレス?あと、ジュリエットドレスとか……」

 返す気力を無くした。

「ほら、見ろ」
 晴明が勝ち誇ったような顔をした。
 悔しくなってきて、キッと睨み返す。

「ガハハハッ、面白い!こいつは愉快だぁ~。ねぇ、君。波絵ちゃん?って言ったかな。俺は晴明の親友で、やっぱり絵描きなんだ。君、可愛いよねぇ。良かったら俺のモデルになってくれないかな」

「ええー?」
 突然の事に、本人を始め、誰もが驚いた。

「おい、俊司、お前一体……」

 何を考えてるんだ、と言おうとしたのだろうが、それより先に波絵が、「それって、新手のナンパですか?」と言った。

「とんでもない。真面目に言ってるんだよー」

 いつになく、ガハハが無いと蕗子は思った。
 波絵は少し首を傾げて考えた後に言った。

「蕗子さんより美しく描いてくれるなら、いいですよ」

 にっこり笑っている。

「そんなの、当然だよっ。君の方がずっと美しい!ガハハ」

 二人は手を取り合って会場を後にした。
 その姿をみんな唖然と見送った。

「なんなんだ、あれは」
 財前の顔が理解できないと言っていた。

「さぁ……」
 蕗子はそう答えるしかない。

「俊司はまだ分かるけど、……彼女ってああいう人だったの?」

 晴明に問いかけられたが、蕗子は首をかしげるしかない。
 原田が突然言った。

「きっと、あれですよ。ひと目ぼれってやつ。互いに相通じるものがあるって、ピンときたんじゃないですか?俺、あの二人の取り合わせ、アリだと思います」

「何言ってるんだよ。波絵ちゃんの事はともかく、阿部さんのご友人は、初対面だろう?知らない人に対して失礼じゃないか」

 財前が叱るように言ったが、原田は「いや、これは直感ですよ」と言って譲らない。

「でも、そうなのかもしれない……」

 蕗子は呟くように言い、晴明を見た。
 蕗子の視線を受けて晴明は頷いた。

「そうだね。そうかもしれない。きっと、ピンときたんだ。僕たちのように」

 恋はいつ訪れるかわからない。理屈ではないのだ。
 小野の人柄を思えば、波絵の相手として不足はないと思う。
 波絵自身も優しくしっかり者だ。きっと幸せになれる。

「だけど、『君の方が美しい!』って言うのには反対だなぁ。俊司のヤツ、蕗子さんの前でよく、あんな事が言えたもんだ。蕗子さんの方が遥かに美しいっていうのに!」

 晴明が本気で文句を言っている。

「まぁまぁ」と蕗子は宥めた。
 全くもって子供っぽい。こういう所は小野も同じだ。

 翌日の新聞の文化面に、晴明の個展の記事が写真入りで大きく取り上げられていた。
 特に、蕗子を描いたあの絵が絶賛を浴びていた。

 『風景画家の新境地』とのタイトルで、アメリカで評価された作品から、更に進化した風景と人物の描写が、深く心を打つ、と手放しの批評だった。

 この新聞の記事もあってか、連日多くの人間が足を運び、土日に至っては長蛇の列ができる程の大盛況だった。
 だが一方で、『夜しか描けない画家』との悪意が感じられる批評が載った雑誌もあった。

 晴明はそういう記事は全く気にしていなかった。
 どう感じようが受け手の自由だ。
 ただ、自分にとっては自信作なんだから、褒められるのは当然だ、と半ば威張るように笑った。

「たださ。あの作品群をさ。ポストカードとかクリアファイルとか、そういうグッズにして売り出したいって話しが来てね。それはちょっとねぇ。大きなスポンサーが付いてると、そういうの断れないんだけど、今回は身うち主催のようなものだからね。断れて良かった」

 もう、そんな話しが来てるんだと、蕗子は驚いた。

「だけど、売れたら大学側だって儲かるから嬉しいんじゃないの?」

「まぁね。そこが泣きどころ。でも君、考えてもご覧よ。多くの人が、君を描いた絵のクリアファイルを使用したり、ポストカードを持ってたりするんだよ?どうよ。ある意味、君はアイドルみたいな扱いになるよね。でも僕は、それは許せない。多くの人間が君の絵を持つなんて、考えただけで耐えられない」

 心底嫌そうな顔で言っている。
 蕗子も確かにそれは嫌だと思った。勿論、晴明とは違った意味で。

「あの作品群は、僕にとっては魂の絵だから、誰にも売れない。手放せない。本当は、絵は描き上がった時点で、もう作家の物ではなくなるんだけどね……」

 晴明は少し寂しそうに笑った。

「ただ、あれも画集として出版する事に決まったよ。来年の春に出版される予定だよ。みんなが蕗子さんを持つ事に抵抗があるけど、仕方が無いね」

「もう、晴明さんったら。多くの人が晴明さんの絵をいいって思ってくれてるんだから、もっと感謝しなくちゃ。幾ら芸術家とは言え、独りよがりは良くないと思うわよ」

「分かってるさ。こうして世間の評判が高いと、自分自身のモチベーションも更に高まって、一層良い作品を描きたくなるしね。だから、凄く感謝はしてるんだ。ただ、例え絵だとしても、君を手放すのが悲しいだけさ」

 そんな風に言われると、女冥利につきるのかもしれない。
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