第61話

文字数 1,926文字

「今回のシリーズはね。コンスタンスに描き続けると思う。ただこれからは、夜でない風景が増えていくよ。夜しか描かなかったのは、里美との事があったから。僕にとって、太陽の光は眩し過ぎたんだ。今はもう、そんな事はないし、夜だって以前よりも一層、明るく感じられるようになったよ。世界が大きく広がった気がする。ただ、普通の風景画に対して、今度は世間がどう評価するだろうね?やっぱり阿部晴明は夜以外は駄目だって言われるかな」

 そう蕗子に問いかける晴明の顔は、決して不安や暗さは無く、まるで他人事のように飄々としている。

「言われたら?」
 蕗子は問い返した。
 晴明はにっこりと笑う。

「全然、構わないかな。僕は自分が描きたいように描く。それが酷評されようが、売れなかろうが、いいんだ。勿論、評価を受けて売れてくれた方が嬉しいに決まっているけど、結局、絵を描くって事は、誰かに認めて貰う為に描くものじゃないんだからね。僕は喜んでくれる人が一人でもいれば、それで十分だよ」

 そう言って、蕗子を愛しそうな目で見る。
 胸が熱くなった。

「一人でもいればって、一人もいなかったら、どうなの?」

「君、わざと、そういう意地悪な事を言ってるでしょう」

「だって……。可能性としてはゼロじゃないじゃない?数学的問題として……」

「愛を数学で計ろうとしないでくれ。確かに可能性としてはゼロじゃない。だけど僕にとっては、絶対的にイチが存在してるんだ。僕のスタートはゼロからじゃなく、イチからなんだ。このイチの存在が、万が一にも無くなったら、僕の存在も無くなると言っても過言じゃない。だから僕は、自分の存在を守る為にも、このイチの存在を必死に守らないといけないんだ。死守しないとならない。だから。……わかったね」

 真剣な目で言われて、ぐうの音も出なかった。
 いや、出せなかったと言うべきか。

「ごめんなさい……。私が悪かったわ」

「いいんだ。いつもの君の、ちょっとした意地悪だって分かってるからね。僕だって時々、好き過ぎて意地悪をしてしまうからね。あいこだね」

 私の場合は好き過ぎての意地悪じゃないんだけどなぁ……と思いつつ、笑ってやり過ごす事にした。

「じゃぁほら。今夜はこのネグリジェにしてくれるかな」

 晴明に指定された。

「波絵ちゃんも言ってたろ?ドレスだって。みんなそう思うのさ。絵だからね。モデルが着てるのがネグリジェだとは思わない。これでも僕、ネグリジェに見えないように気を使って描いたんだよ。君は毎日着てるから、直観的にすぐ分かっただけなんだ。……それにしても本当に、とってもよく似合う。すっごく、そそられるんだよ」

 着せて脱がす。その行為に興奮する男を痛ましくも可愛く思える。
 目を輝かせながら、ボタンを一つずつ外している。
 全てを外し、そっと前を開く時の、期待感に満ちた瞳。

 唇を肌に寄せて「綺麗だ」と囁く息が、そっと肌を撫でて官能を刺激する。
 大きな手に乳房を包まれて、体が疼く。吸われてせつなさが募り、声があがる……。

 何度も唇を重ね、互いの存在を確かめ合うように何度も繋がり、満たされてその胸の中で眠る。
 夜明けを共に迎え、朝ごはんを一緒に食べ、互いに仕事に打ち込んで、再び夜に相見(あいまみ)える。

 愛する人と共に暮らし共に生きる喜びを、蕗子は感じていた。
 自分の人生が別モノのように感じる。しかも特別なものに。

 大盛況のまま、個展は千秋楽を迎えた。
 開期中、テレビでも放送され、晴明はインタビューを受けていた。

 テレビのリポーターに、「君に捧ぐの『君』とは、具体的な誰かを指しているんですか」と問われた晴明は、「君とは、僕の人生を支えてくれている妻の事であり、また、この絵を観てくれる全ての人の事を指しています」と答えていた。

 この放送は昼間に流れていた為、蕗子は観ていなかったのだが、家に帰るとしっかり録画されていて、晴明に見せられた。

「リポーターは、こんな風に言われて、奥様が羨ましいですぅって言ってたよ。この後のスタジオでも、随分とみんな羨ましがってるよねぇ」

 晴明はご満悦な顔をしている。
 どうやら、こういう自分に酔っているみたいだ。
 でもまぁ、愛され、大事にされている事は確かなのだから、良しとするか。
 と思うしかない。

 千秋楽を無事に終え、二人は予約したレストランで食事をした。
 本来ならスタッフを交えて打ち上げをする所だったが、この日はクリスマスイブだったので、皆が気を利かせてくれたのだった。

「君の仕事が休みに入ったら、里美の墓参りに行こう。で、ついでに隣にあるオヤジの墓参りもして、その足でさ。僕の実家に君を連れて行きたいんだけど……」

「え?実家?」
 蕗子は突然の事に驚いた。
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