第21話

文字数 3,954文字

「蘇芳はね。最初から僕が彼女を愛していない事は知ってたんだよ。好意は持っていた。ダンスをしている時の彼女に対して、憧憬の感情を持っていたんだ。でも、それだけだった。その事は、彼女から告白された時に伝えた。彼女はそれでもいいって言ったんだ」

 そう聞いて、きっと蘇芳は、そのうちに自分を愛するようになる筈だと思ったんだろうと蕗子は思った。
 自分に対して絶対的な自信を持っている彼女だ。好意があるなら、それが恋愛感情に変わるのも時間の問題だろう。
 それが彼女の出した答えに違いない。

「やたらに僕の人間関係に目を光らせて、携帯までチェックをする割に、僕の行動に文句をつけたりする事は無いし、一緒にいる時にベタベタと束縛してくる事も無いんだ。絵を描いている僕のそばで、陽気に話したり踊ったりするだけで、夜寝る時だけ擦りよって来る。まぁ、携帯をチェックして、僕が誰かと個人的に懇意にしていないって分かってるからと言えるかもしれないけどね」

 完全に自分のものだとの自信があるからなのだろうか。
 妹でありながら、蕗子には彼女のことが理解できなかった。
 あまりにもタイプが違い過ぎる。
 小さい時からそうだった。

「で、そのうちに結婚したいって言い出してね。僕の気持ちは最初と変わらないって言った。でも彼女は、それでもいいって言い張った。それこそが最大の束縛と言えるのかもしれないね。まぁそれで、結局、僕が根負けして一緒になってしまった。美人で華やかだし、誰に紹介しても羨ましがられる。心から好きになった相手と一緒になれる人間なんて、世の中にどれほどいるんだろう。そう考えれば、別に悪い事じゃないって僕は思った」

 沈んだ表情をしていた。

「好ましい相手から愛されるって、案外、心地良いものなんだな。昔の人なんか、顔も知らない相手と一緒になって、家族としての愛情を育んでたよね。だから、男女の恋情は湧いては来ないけど、既婚者として社会的にも落ち着いたわけだし悪く無いって本当に思ったんだよ」

 そう言いながら、シニカルな薄い笑みを浮かべた。
 自身を嘲ているような笑みに見えた。

「で、日本に帰ってきた途端、後悔してるんだから馬鹿としかいいようがない」

 そんな晴明を見て、ふと気になった事が湧いてきた。

「ねぇ、変な事、訊いてもいいかな」
「えっ?何、変な事って。何か怖いな」

 言葉通り、少し怯えたような表情が浮かんでいる。

「スタジオ依頼を受けてから、暫く後だったと思うんだけど、蘇芳にね。相談を受けたって言うかね。相談って言うのも少し違う気がするけど……」

「蘇芳が?君に?」

 酷く驚いた顔をした。
 蘇芳を知る人間なら同じ反応をするのだろう。
 他人に相談するようなタイプではないからだ。

「……帰国してから、あなたと……アレが、全くないんだって」

 蕗子は顔が熱くなるのを感じた。なんだか恥ずかしい。
 晴明は、目を見開いた後、フッと笑った。

「なるほどね。そんな事をね。だから君は、池袋で僕と蘇芳の間を心配するような事を言ったんだね。納得した。あれは少しショックだったから」

「あの……」
 蕗子は戸惑った。

 なんだか論点が少しズレたように感じたからだ。
 話しを継ごうとしたら、晴明がそれを遮るように手を振った。

「君の訊きたい事は分かってる。君を好きになったから、蘇芳を抱けなくなった。それだけの事だよ。ただ、蘇芳には、帰国前に蘇芳の浮気を知ったが為に、抱く気が起きなくなったんだ、と言ったけどね。離婚の話し合いの時に」

 そうなんだろう。
 蘇芳に聞かされた時には不思議に思ったが、後から晴明の気持ちを知れば当然の事だったと思う。
 あの時点から、離婚する事を考えていたのだから、その相手を抱けるわけが無い。

「君が家を出た後、ステージが終了した蘇芳がご両親を連れて来てね。みんなで僕を責めるんだ。当然の事だから僕は黙って聞いていた。他に好きな人が出来たから離婚したいだなんて、文句を言われても仕方が無い。でも、子供がいるわけでもないし、結婚して日も浅い。これだけ責めるんだから、ご両親は慰謝料を取って離婚させるつもりなんだろうって思ったら、最後は『考え直してくれ』ときたんで、面食らったよ」

 本心では離婚を望んでいたんだろう。
 だが、蘇芳が嫌がったから、蘇芳の気持ちに添ったのだ。

「驚いて蘇芳の顔を見たら、涙を流して『別れたくない』って言うんだ。『どうしてなの?あんなに愛してくれたじゃない』なんて言うもんだから、いけないと思いつつ『愛した事なんて一度も無い』と言ってしまったよ。でも突き放すしかないだろ?本当の事でもあるんだし。好んで傷つけたくは無かったが、思いやりをかけていたら別れる事はできない」

 晴明の言葉に、父の広志は拳を握りしめて今にも殴りかかって来そうだったと言う。
 それでも、思い直してくれと土下座までされて、晴明は閉口した。

「なぜ、蕗子なんだ。蘇芳というものがありながら。蕗子から蘇芳に乗り換えるのならまだ分かるが、なぜ、その逆なんだ!」

 晴明は広志の言葉に目を剥いた。
 逆なら有りだと言っているのだろうか。

「あの子は過去に、何度も彼氏を蘇芳に奪われている。だから、今度の事はその腹いせに決まっている。一時の気の迷いで蘇芳を捨てたら、絶対に後悔するぞ」

 この人は、どうしてここまで蘇芳に肩入れするのだろう。
 これでは、あまりに蕗子が可哀想だ。

「あなたは、過去に妹に恋人を奪われたからと言って、復讐の為にその夫を横取りするような人間だと、蕗子さんの事を思ってるんですか?」

 晴明は冷たい眼を広志に向けた。

「お、思いたくはない。自分の娘だ。だが、今回の事は、そうとしか思えないじゃないか」

 肩を震わせている広志の横にいた、母の真弓が口を挟んで来た。

「晴明さん、確かに蕗子には蕗子なりの魅力はあると思うけど、それでも蘇芳と比べたら劣ると思うわよ?豪華な食事に少し飽きて、ちょっと平凡な料理を食べたくなっただけなのよ。でもそのうちに、また豪華な料理が欲しくなる。一度知ったら、やめられなくなる。そういうものよ?だから、きっと後悔するわよ」

 呆れて二の句が継げない思いだった。
 それでも晴明は言った。

「あなた方は誤解されてます。僕が蕗子さんの方を好きになったのは事実ですが、そもそもは蘇芳の浮気が原因です。蕗子さんがいなくても、遅かれ早かれ蘇芳との離婚を決意したと思います」

 晴明は、蘇芳の浮気現場の写真を出して見せた。
 それを見た両親は信じられないような物を見ているような驚愕の表情をした。

「酷いわ!こんな写真を撮らせてたの?」
 蘇芳が綺麗な顔を汚く歪めた。怒りに満ちている。

「こうでもしなければ、君は承諾してくれないと思ったんでね」
 冷たい侮蔑の視線を投げた。それでも蘇芳は睨み返してきた。

「こ、これは単に、男性と一緒にいるだけの写真に過ぎないだろう。仲よさそうに見えるが、蘇芳は人気者だ。このくらいどうって事はないじゃないか。こんなのを浮気だと言われたら、誰とも付き合えないだろう」

 唖然としていた筈の広志がいきなり言い出して、その言葉の内容に晴明はギョッとした。
 ホテルへ入る写真や、出て来た写真もある。
 頬を寄せ合っていたり、唇を交わしているものや、手を繋いでいる写真、どれを見ても『仲よさそうに見える』の度を越しているだろう。
 認めたくない為の詭弁としか思えない。

「そうよ。大体、あたしはダンサーなのよ?より大きな舞台に上がる為にも、愛想を振りまく必要があるのよ。それなのに、このくらいの事で目くじらを立てるなんて」

 父親の言葉に力を得たのか、蘇芳が開き直ったような事を言い出した。
 晴明はせせら笑う。

「なるほど。相手は誰だか知ってるよ。君が渡米中に日本でデビューした東直人、劇団塊の舞台監督である間宮伍一、評論家の矢本真一、今ダンス界で注目されている塚田春樹。枕営業なんだと言うわけだね」

 蘇芳は悔しげに口を曲げた。

「は、晴明君、君は自分の事を棚に上げるのかね?自分の事を棚に上げて、蘇芳ばかり責めるのは酷いと思わないか」

「お言葉ですがお義父さん。僕は何も(やま)しい事はしていません。蕗子さんが好きですが、それだけです。疑うのは勝手ですが、僕と蕗子さんの間には何もありません。それこそ調べて頂いても結構ですよ」

「そう言えるのは、調べられる前に痕跡を消したからだろう。自分の尻尾は捕まれないようにしたに決まっている」

 晴明は全身の力が抜けて来る気がした。
 何を言っても通じない
 自分の考えの他は、一切受け付けないようだ。

「蘇芳。浮気した君を責める気持ちとは別に、心変わりした事については済まないと思ってる。だから、できれば穏便に済ませたい。ダンサーとしての君は今でも好きだ。だから、これからも舞台の上で輝いて欲しいと思ってる。だけど、どうしても了承してくれないのなら、この人達の所へ行ってこの写真を見せるつもりだ。そうしたらどうなるか、君にはわかるよね?」

 蘇芳は見る見る顔色を変えて、「卑怯者っ!!」と叫んだ。

「なんて酷い男なの?私の夢を壊すつもり?」

「そうだよ。僕は酷い男なんだ。だから別れた方が君の為だ」

「なんでよ?なんでなのよっ。なんで、お姉ちゃんなのよ!あたしを振ってお姉ちゃんを選ぶなんて、信じられないし許せない!目を覚ましなさいよ、(たぶら)かされてるのよっ」

 泣きながら喚く蘇芳に両親は取りすがった。

「蘇芳、もういいだろう。諦めるんだ。この男は最低だ。こんなのと一緒にいたって、いい事なんて無いぞ」

「ほっといてよ、お父さんのバカ!!何にも知らない癖にっ!」

 そうして、喚く蘇芳を広志と真弓が二人がかりで引きずるようにして去っていった。
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