第13話

文字数 5,609文字

 何がなんだか、さっぱり分からなかった。
 結婚を早まったと言っているのだろうか。
 それとも、帰国後のすれ違い生活が、結婚した事を後悔させているのか。

 蘇芳からは、あれから特に何も言っては来なかった。
 スタジオの事では、殆どが晴明の応対だったが、何度か蘇芳も一緒だった事もある。
 その時の二人の様子を見て、上手くいってるんだと思っていた。

 結婚を後悔しているなんて、微塵も感じたことが無い。それだけに、寝耳に水とも言える言葉だ。

(それに……)

 蘇芳との結婚を後悔しているとしても、何故それを蕗子に言うのだろう。
 二人の仲を心配しているような事を言ったからなのか。
 だが、妻の姉である。
 余計な波紋が心の中に浮かんだような気がした。

 帰宅した後も、何をする気も起らなかった。
 夕べの財前との事を払拭したくてプラネタリウムへ行ったのに、今度は晴明から結婚を後悔していると聞かされて、二重三重もの波紋が心の中に生じている。

 どちらも、それぞれの夫婦の問題だろうに、困った事にそれに自分が巻き込まれそうになっている。考えるのも嫌になって、その晩は早めに寝た。

 翌朝は目覚めた時から憂鬱で、出勤する気が起きなかった。
 財前と顔を合わせるのが辛い。
 財前自身も気不味い思いを抱いているかもしれない。いつもは早くに出勤する蕗子だったが、
この日はギリギリに出勤した。

「蕗子さん、珍しいですね、こんな時間に出勤だなんて。まさか休むんじゃ?って今噂していた所なんですよ?」

 いつも最後に出勤してくる原田に言われて苦笑する。
 原田より遅いなんて、普通なら有り得ない事だろう。

「ごめんなさい。家を出る時にちょっとごたごたしちゃって」

 そう言いながら事務所内を見渡すと、一昨日のパーティの名残は痕かたも無くなっていた。

「あれ?もしかして、もう皆で片づけちゃった?」

 そうだ。片付けがあった。
 これじゃぁ、片づけが嫌で遅く来たみたいだ。
 そうではないと皆は思ってくれているだろうが、それでもなんだか申し訳無い気持ちが湧いてきた。
 だが、蕗子の言葉を波絵が否定した。

「違うんですよ。何でも昨日のうちに所長が全て片づけて掃除してくれたんだそうです」

「ええー?」
 思わず財前を見た。財前は照れくさそうな笑みを浮かべた。

「いや、俺、飲みすぎちゃったからね。みんなを遅くまで引き止めて悪かったって反省してたんで、まぁ、片づけくらいはやっておこうかと。その方が、みんなもすぐに仕事に取り組めるし、時間を無駄にしなくて済むからね」

「そういう事なんだそうだよ、蕗ちゃん。僕ら、出勤早々片づけをやらされないで済んだんだ。良かったねー」

「吉田さん。何もそんな風に言わなくても。所長に悪いじゃない」

「そうですよ、吉田さんも意外と辛辣なんですねぇ」

「いやいや、冗談。所長、冗談ですからね。サボリ心のある僕としては、単純に嬉しかっただけなんですから」

「いや、いいよ。君の言う事はもっともな事だ。皆が気持ち良く仕事をできるように職場環境を整えるのも所長の役目だからね」

 吉田は恐縮したように肩をすぼめた。だが、場は和やかな雰囲気だった。
 そのままスムーズに仕事に入れて蕗子は気持ちが軽くなった。きっと所長もほっとしているに違いない。そういう点で、この職場は恵まれている。

 こんなに相性の良いメンバーはそうそういないだろう。外で仕事をしてきて嫌な事があっても、ここへ戻ってくると気持ちが軽くなる。
 誰がどうという訳ではないのだが、多分誰もがここを愛し、大事にしているからだろう。

 集中して仕事をし、閉店も近づいて翌日の準備をしていたら、財前から「ちょっと残って欲しい」と言われた。
 蕗子はいきなり緊張した。きっと一昨日の事に違いない。

 あんな事になって、何か謝罪なり釈明なりがあるのだろう。
 仕方が無い。
 財前としては、あんな形のままでは気持ち的にやり切れないのかもしれない。

 皆が事務所を去った後、蕗子と財前は向きあった。

「蕗ちゃん、わざわざ残らせてすまない。一昨日の事をちゃんと説明したくてね」

 困ったような顔をしている財前に、蕗子は軽く微笑んだ。

「きっとそうだろうと思ってました。私もビックリして、いきなり逃げるように帰ってしまって、かえって所長に気不味い思いをさせちゃったかなって……」

「いや、そんな事はない。悪いのは俺だよ。だけど、まさか妻があんな誤解をしているとは思っても無かった」

「私もです……」

「そもそも、家に彼女がいた事自体がおかしな事だったんだよ。……実はこの間、正式に離婚が成立したんだ。離婚届は僕が出した。なのに彼女が家にいたのは、最後の最後に忘れ物が無いかを確認するのと、せめて最後くらいは直接挨拶をしたかったからなんだそうだ。それならそれで、前もって言っておいてくれたら良かったものを」

 財前は苦虫をつぶすような顔をした。

「とうとう、離婚されたんですか?」

 蕗子の気持ちは沈んだ。
 財前夫婦はとても仲が良かった。一人息子の高行も、とても良い少年で、まるで絵に描いたような幸せそうな一家だったのに。

 財前は一枚の紙を蕗子に差し出した。

「昨日、君に見せようと思っていたものだ」

 それは、離婚届のコピーだった。
 二人の署名と捺印がやけに黒々としているのが生々しく感じられた。

「何故これを私に?」
「僕がちゃんと離婚したと言う事実を君に知らせたかったからだ」

 蕗子はわなないた。

「なんでそんな事……」

「妻の疑いは或る意味誤解じゃない。ただ、彼女との離婚と君の事は関係が無い。晴美とうまくいかなくなったのは、完全に高行の自殺が原因だ。結局僕たちは、二人にとって一番大切な物を亡くしながら、その悲しみを共に乗り越える事ができなかった」

 ちょうど独立した頃だった。
 独立の準備を始めた頃から忙しさが以前よりも増し、家庭の事は全て妻に任せていた財前だった。晴美自身もそれについて不満を言う事は無かった。

 夫の一世一代の勝負に、妻としてできるだけ応援しているつもりだった。
 一人息子の高行も、第一志望の大学に合格するべく必死に勉強し、晴れて合格して大学生活がスタートし、全てが順調にいっていると思っていたのだ。
 それだけに、そんな高行の自殺には、誰もが信じられない思いで一杯になった。

 志望校に落ちたというのなら、まだ理解ができた。だが、志望校に受かったのだ。
 入学したばかりで、まだこれからだ。
 一体何が原因だったのか、結局未だに分からずじまいだ。

 自分の子供が自ら死を選ぶ。親としてこんなに哀しい事は無い。
 それでも、子供なりの理由がはっきり分かっていれば、悲しいながらも心の決着のつけようもある。

 だが、それが無い。

 やり場のない焦燥。

 それでも財前には仕事がある。投げだすわけにはいかない。だが、留守を預かる晴美には何も無かった。ただ家で、高行の事を思い、嘆き悲しみ、涙に暮れるしかなかった。

 どんな慰めも労わりも、彼女の心には通じない。
 やがて、その悲しみが、誰かを恨むことに転嫁されるようになった。
 こんな事になったのも、全部夫のせいだ。そう思うしか無かった。

 財前は、そんな妻の恨みを甘んじて受けた。
 だが一緒に暮すことができなくなり、別居する事になったのだった。

 約二年の別居の後、晴美の心も落ち着きを取り戻し、このまま別居し続けても最終的に元には戻れないと結論し、きっぱりと離婚する事を決めた。
 そうして、二人は綺麗に他人になった筈だった。夕べ、晴美が蕗子に会うまでは。

 晴美自身、蕗子の存在を忘れていた。
 高行の生前、会社の仲間達と共に遊びに来ていた蕗子と財前の仲を疑った事は、実は一度も無かったのだ。

 だが一昨日の晩、夜も遅くに財前が家へ連れ帰ったのを見て、自分は騙されていたと思ったらしい。
 考えてみれば、あの娘は昔から夫に懐いていた。夫も特に目をかけて可愛がっていた。それは、こういう事だったんだ。そう思うと、凄まじい怒りに体が満たされた。

「君はあの時、逃げ帰って正解だったよ。あのままだったら、彼女は何を君にしたか分からない」

 本当に自分は軽率だったと思う。
 誰が見ても、誤解して当たり前だ。

「奥様は悪くありません。私が悪かったんです」
「いや。悪かったのは俺だ。君に嫌な思いをさせてしまった。すまない」

 財前は頭を下げた。

「もう、離婚届は出したんだ。正式に離婚をした。だから、ホッとしたんだと思う。まさか、元の妻が家にいるとは普通なら思わないしな」

「そうかも知れませんが、私は離婚された事は知らなかった訳ですし」

「無理に君を連れていった俺が悪かったんだ。見せるなら、何も自宅じゃ無くても良かったのに、なぜ自宅に連れて行ったのか……」

 蕗子はなんだか怖くなってきた。聞きたく無い思いが湧いてくる。

「昨日飲み過ぎたのは、コンペが通って嬉しかった事と、離婚して自由の身になれた事が嬉しかったからだよ。これで自由だ。仕事に益々打ち込めるし、他の女性を愛する事も堂々とできる。誰に(はばか)る事もない」

 蕗子は溜まらなくなって、自分の席へバックを取りに歩きだした。

「蕗ちゃん!俺は君を……」
「止めて下さい!」

 蕗子は財前の言葉を遮った。

「所長。それはきっと、気の迷いです。息子さんの事や奥様との事、そして事務所の独立と、大変な事が続いて心が疲れきっているんだと思います。だから、誰かに救いを求めているだけなんですよ。それは、恋とか愛とか、そういうのとは違うと思います」

「蕗ちゃん……」
「失礼します」

 蕗子はバッグを持って、帰ろうとした。
 だが、いきなり事務所のドアが音を立てて開いたかと思うと、妹の蘇芳が凄い形相で駆け込んで来た。

「蘇芳……」
 蕗子は唖然とした。

「どうしたの?一体……」

 驚いて立ちつくしている蕗子に駆け寄った蘇芳は、いきなり蕗子の頬をぶった。

「お姉ちゃんの泥棒猫!!一体どういう事?何でなの?過去の恨みを晴らそうってつもりなの?」

 蕗子は打たれた頬に手をやった。
 熱を持ってるようだ。

 何が何だか分からなくて、蕗子は手で押さえたまま蘇芳を見た。
 蘇芳は憎しみのこもった目で、涙を流していた。

「わけが分からない」

 蕗子はそう言った。本当の事だ。
 なぜ自分がこんな仕打ちを受けるのか。
 
「分からないのは、こっちの方よ。一体、どうやって晴明をたらしこんだのよっ!」

「えっ?」
 蕗子は混乱した。蘇芳は何を言っているんだろう。

「ご、ごめん、お姉ちゃん本当に分からない。私が晴明さんをたらしこんだって、どういう事?私、そんな事してないし」

「嘘つかないでよ。じゃぁ、なんで晴明は私に離婚したいなんて言い出すのよっ」

「離婚?」

「そうよ。今日、ステージが終わって家へ帰ったら言われたのよ。離婚したいって。訳が分からないじゃない。いきなりよ?理由を聞いたら『蕗子さんを愛してるから彼女と一緒になりたいんだ』って、そう言ったのよ、アイツは!!」

 声を枯らして吐き出すように出てきた言葉に、蕗子は呆然とした。
 妹は一体、何を言っているのだろう。 
 蘇芳の言っている事がまるで理解できない。

「一体、いつからよ!いつからなのよ?まさか、こんな事になるなんて思ってもみなかった。お姉ちゃんが私の男を取るなんて!逆はあっても、こんなの有り得ないじゃない!だから、仕事の事でお姉ちゃんと晴明が会う機会が多くても心配なんて、これっぽっちもしてなかったのにっ!!」

 唾を飛ばしながら蘇芳はまくし立てた。

「ちょっと待ってよ。私、取ってなんかいないわよ。晴明さんが何を言っても、私は何もしてないから。そんな事するわけ無いじゃない。あなたじゃあるまいし」

「そんな事、分からないじゃない。これまでの恨みがあるもの。取れるなら取って、鼻を明かしてやりたいって思ってたんじゃないの?まさかそれで、本当に明かされるとは思ってもなかったけど」

 綺麗な筈の蘇芳が、醜く顔を歪めて、これでもかとばかりに嫌みを込めて言う姿を見て蕗子は悲しくなった。

「とにかく私は、取ってないし、たらしこんでもいないから。離婚は二人の問題でしょ。私を巻き込まないで」

「何言ってるのよ。晴明は、お姉ちゃんを愛してるって言ったのよ?なのに、無関係を決め込むなんて呆れるわ。どんだけ酷い女なのよ。晴明もどうかしてる。私は絶対に離婚しないから!」

 蘇芳は蕗子を睨みつけてから出て行った。

 蕗子はそばにあった椅子に座りこんだ。あまりのショックに力が抜けた。
 本当に、一体どういう事なのか?
 離婚はともかく、その理由が自分だなんて。

『愛してる』?『一緒になりたい』?まるで理解できない。
 晴明は何を考えているのだろう。どういうつもりなのか?

「蕗ちゃん……」
 はっとして振り返った。財前がいた事を忘れていた。

「君は、妹さんの旦那さんと?」

 疑うような眼差しに、思いきり頭を振った。

「違います。それこそ、勘違いもいいところです。私の方こそ、なんでこんな事になったのか、皆目見当もつかなくて困惑してるんです」

 涙が出て来た。慌てて拭う。

「もうっ、ほんとに誰も彼も離婚、離婚ってそればっかり。愛し合って結婚しておいて、そんなに簡単に離婚って信じられないしっ」

 思わず、口について出た。思いきり八つ当たりだ。

「蕗ちゃん……。離婚は簡単じゃないよ」

 財前が寂しそうに言った。蕗子の胸が痛んだ。

「すみません……失礼します」

 蕗子は素直に謝ると、今度こそバッグを持って事務所を出た。
 通りには季節にふさわしくない、冷たい風が吹いていた。再び瞼が滲むのを感じた。

 これからどうなるのだろう。

 ふいに晴明の顔が浮かび、蕗子はそれを振り払うように頭を振ると、足を前へ踏み出した。
 踏み出すしかない。そう、踏み出すしか……。
 ぶたれた頬が、まだ痛かった…。
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