第17話
文字数 3,014文字
「……蘇芳とは、セントラルパークで写生をしている時に出会いました。彼女は公園で一人、ダンスの練習をしてた。クルクルと軽やかに舞っている姿は妖精のようだった。思わず見惚れていたら、蘇芳が気付いて僕の傍に寄って来てね。それでお互いに自己紹介をして、親交が始まったんです」
異国の地で祖国の人間と出会うと、それだけで親しみが湧いてくる。ずっと感じていた異邦人としての孤独が少しは癒されるからだろう。
「僕は踊っている蘇芳が好きでした。でも、こんな事を言うのもなんだけど、踊っていない時の普段の蘇芳には大して興味が湧かなかった」
瞳の色が暗かった。翳がある。その深い瞳に蕗子は魅せられる。
蘇芳も、この翳のある瞳に魅かれたんだろうと思う。
そこがいいんだと以前言っていた事を思い出した。
「僕は本当は、一生誰とも結婚しないつもりだったんです」
射竦めるような視線を向けられて、蕗子の心臓がドキリと音をたてた。
言葉が返せなくて、微かに首を傾げる。晴明は軽く笑うと視線を伏せた。
「僕には以前、籍こそ入れてないものの、妻がいたんです。五年ほど前に交通事故で死にました」
「えっ?それって……」
初耳だった。
「蘇芳はその事を?」
「知りません」
「そんな……」
未入籍であったのなら、戸籍に痕跡は無いのだし、ニューヨークにいたのだから本人が言わない限り知り様もない。
「仮に僕がバツイチだと知っても蘇芳は全く気にしないと思います。だから故意に隠していた訳ではありません」
「じゃぁ、どうして……」
「単に、過去の話しをしたくなかっただけですよ。忘れたかったから…。その癖、忘れたいと思いながら、もう他の誰も愛せないし、愛そうとも思わなかった」
痛々しそうな笑顔を浮かべるのを見て、蕗子の胸は痛くなる。
「それは、……それほど奥様を愛してらっしゃったって事なんでしょうね、やっぱり」
蕗子の言葉に、晴明はきっぱりと「そうです」と言った。
その言い方があまりにもきっぱりとしているので、蕗子は問わずにいられなくなった。
「それならどうして、蘇芳と?」
「蘇芳が、あまりに熱心だったから……」
「はい?」
意味が分からなかった。
「僕を馬鹿でろくでなしだと罵って下さって結構です。……いや、あなたから罵られたら溜まらないかな……。僕は、蘇芳があまりに熱心に僕と結婚したがるものだから、その熱意に負けたんですよ。どうせこの先、誰も愛せないんだから、それならこれだけ自分を愛して求めてくれる女と結婚してもいいのかもしれないって。彼女が踊っている姿は好きでしたしね」
晴明は吐き捨てるようにそう言と、自嘲気味に笑った。
「そんな……」
それでは蘇芳が可哀想過ぎる。
愛されていなかったと言う事か。
「それでも、結構、上手くいってたんですよ。熱意に負けたと言ったって、全く愛情が無ければ一緒にはならなかった。彼女は明るくて魅力的だし、非常にワガママではあるけれど、それも一種の魅力と言える。お互い、絵とダンスと言う命を削って打ち込める物も持っているし。ただ正直、僕たちには共通点と言える物が皆無に等しい。感性が違い過ぎるとも言うのかな。全く異質な存在だと僕は認識してるけど、蘇芳はそういう事には鈍いと言うか思いもしないですよね」
「あなたは最初から、そういう本質が分かっていたんじゃないんですか?」
自分の声が震えているのを感じた。
悲しくてたまらないからだ。
「おっしゃる通りです。分かっていて一緒になりました。なぜなら、誰もが夫婦とか家族とか、恋人とかに期待するものを僕は持って無かったし、興味も無かったからです。だから、違うと言う事にマイナスの気持ちも起こらない。勿論、プラスの感情も。互いに自分の仕事に打ち込めればいい。成功したら讃えあう。ダンスをしている彼女が好きだったから、彼女を応援できる事で十分満足でした。帰国して、あなたに逢うまでは」
(ああ、この眼だ……)
蕗子は溜まらなくなって目を瞑った。
だが瞑っても見える。彼の眼が。
奥深くで煌めいている青い炎。
自分を捉えて離さない静かな情熱。
逢いたく無かった。
でも逢ってしまった。
「五條家で、初めてあなたと顔を合わせた瞬間に、僕は恋に落ちてしまった。よりにもよって妻の姉である、あなたに……」
(やめて……。聞きたくない)
蕗子は晴明の言葉を振り払うように頭を振った。
「その瞬間、全ての事に後悔しました。簡単に結婚してしまった事を。愛せないなら、どんな熱意にも答えるべきじゃなかった。こんな言い訳、卑怯かもしれませんが、異国の地での孤独がさせた過ちだったのかもしれないと思いました。いや、そう思うしか無かった」
「やめて……」
蕗子はやっとの思いで声を出した。
「やめて下さい。そんな事、言わないで」
「蕗子さん……」
「酷いです、そんな話……。酷過ぎる。あなたは私たち姉妹の仲を引き裂いて傷つけて、それで平気なんですか?」
「僕は……、あなたを傷つけてしまった事には申し訳なく思っています。ただ、それ以上にあなたを愛してる。姉妹の仲は、僕が引き裂かなくても既に亀裂が入っていたと僕は思っています。もう一つ言わせてもらえば、ご両親との仲も」
蕗子はキッと晴明を睨んだ。
「それは、あなたのせいでしょっ。あなたが蘇芳に一方的に私を愛してるとか言うから、あらぬ仲を疑われて……。両親にまで。あなたが蘇芳と別れるのは、あなたの問題でしょ?私を引き合いに出すなんて、それこそ卑怯よ」
溜まらなくなって涙が出て来た。
我慢していたものが一挙に吹上げて来る。
「別れる理由をしつこく訊かれて、他に好きな人ができたと言いました。結婚したばかりで、他に妥当な理由が思いつかなかったから本当の事を言うしかなかったんです。でも、相手があなたである事は、最初は伏せていたんです。それでも、相手が誰なのかを聞くまでは絶対に納得できないと言われて」
「その事で、我が家がどうなるか、想像もつかなかったとでも言うの?」
「すみません。でも僕は、もう我慢ができなかった。池袋で偶然あなたと逢って、僕は運命を感じた。そして、僅かな時間でもあなたと共に過ごせた事で僕は幸せだったし、あなたの中にも僕と同じ想いがある事を悟った。もう、これ以上だらだらと長引かせたくない。そう思って行動に出たんです」
「だからって……。酷い……。自分勝手過ぎる……」
「蕗子さん」
晴明の声音が少し変わっていた。
「僕はもっとあなたを傷つけるような事を、これから言います。でもあなたは、それを乗り越えていかなきゃならない」
蕗子は涙を拭った。
晴明の言っている事が、その意図が理解できない。
「あなたは……私を愛してくれてるんですよね?それなのに?」
晴明は苦痛に満ちた顔をした。
「愛しているから、乗り越えて欲しいんです」
「さっきから言ってるけど、勝手な言い分だと思います。私の想いはどうなるの?あなたはまるで私の気持ちを悟ったようにおっしゃるけど、私はあなたの事なんて、可愛い妹の夫として好意を持っているだけなのに」
そうだ。それだけだ。
異性としての魅力を感じているとしても、それだけだ。
人倫に悖 るような事を私はしない。
私には仕事があれば、それで十分なんだ。
蕗子は自分に言い聞かせるように、心の中で叫んだ。
「今のあなたの言葉は嘘です」
「はぁ?」
晴明の自信たっぷりな口ぶりに、蕗子は唖然とした。
異国の地で祖国の人間と出会うと、それだけで親しみが湧いてくる。ずっと感じていた異邦人としての孤独が少しは癒されるからだろう。
「僕は踊っている蘇芳が好きでした。でも、こんな事を言うのもなんだけど、踊っていない時の普段の蘇芳には大して興味が湧かなかった」
瞳の色が暗かった。翳がある。その深い瞳に蕗子は魅せられる。
蘇芳も、この翳のある瞳に魅かれたんだろうと思う。
そこがいいんだと以前言っていた事を思い出した。
「僕は本当は、一生誰とも結婚しないつもりだったんです」
射竦めるような視線を向けられて、蕗子の心臓がドキリと音をたてた。
言葉が返せなくて、微かに首を傾げる。晴明は軽く笑うと視線を伏せた。
「僕には以前、籍こそ入れてないものの、妻がいたんです。五年ほど前に交通事故で死にました」
「えっ?それって……」
初耳だった。
「蘇芳はその事を?」
「知りません」
「そんな……」
未入籍であったのなら、戸籍に痕跡は無いのだし、ニューヨークにいたのだから本人が言わない限り知り様もない。
「仮に僕がバツイチだと知っても蘇芳は全く気にしないと思います。だから故意に隠していた訳ではありません」
「じゃぁ、どうして……」
「単に、過去の話しをしたくなかっただけですよ。忘れたかったから…。その癖、忘れたいと思いながら、もう他の誰も愛せないし、愛そうとも思わなかった」
痛々しそうな笑顔を浮かべるのを見て、蕗子の胸は痛くなる。
「それは、……それほど奥様を愛してらっしゃったって事なんでしょうね、やっぱり」
蕗子の言葉に、晴明はきっぱりと「そうです」と言った。
その言い方があまりにもきっぱりとしているので、蕗子は問わずにいられなくなった。
「それならどうして、蘇芳と?」
「蘇芳が、あまりに熱心だったから……」
「はい?」
意味が分からなかった。
「僕を馬鹿でろくでなしだと罵って下さって結構です。……いや、あなたから罵られたら溜まらないかな……。僕は、蘇芳があまりに熱心に僕と結婚したがるものだから、その熱意に負けたんですよ。どうせこの先、誰も愛せないんだから、それならこれだけ自分を愛して求めてくれる女と結婚してもいいのかもしれないって。彼女が踊っている姿は好きでしたしね」
晴明は吐き捨てるようにそう言と、自嘲気味に笑った。
「そんな……」
それでは蘇芳が可哀想過ぎる。
愛されていなかったと言う事か。
「それでも、結構、上手くいってたんですよ。熱意に負けたと言ったって、全く愛情が無ければ一緒にはならなかった。彼女は明るくて魅力的だし、非常にワガママではあるけれど、それも一種の魅力と言える。お互い、絵とダンスと言う命を削って打ち込める物も持っているし。ただ正直、僕たちには共通点と言える物が皆無に等しい。感性が違い過ぎるとも言うのかな。全く異質な存在だと僕は認識してるけど、蘇芳はそういう事には鈍いと言うか思いもしないですよね」
「あなたは最初から、そういう本質が分かっていたんじゃないんですか?」
自分の声が震えているのを感じた。
悲しくてたまらないからだ。
「おっしゃる通りです。分かっていて一緒になりました。なぜなら、誰もが夫婦とか家族とか、恋人とかに期待するものを僕は持って無かったし、興味も無かったからです。だから、違うと言う事にマイナスの気持ちも起こらない。勿論、プラスの感情も。互いに自分の仕事に打ち込めればいい。成功したら讃えあう。ダンスをしている彼女が好きだったから、彼女を応援できる事で十分満足でした。帰国して、あなたに逢うまでは」
(ああ、この眼だ……)
蕗子は溜まらなくなって目を瞑った。
だが瞑っても見える。彼の眼が。
奥深くで煌めいている青い炎。
自分を捉えて離さない静かな情熱。
逢いたく無かった。
でも逢ってしまった。
「五條家で、初めてあなたと顔を合わせた瞬間に、僕は恋に落ちてしまった。よりにもよって妻の姉である、あなたに……」
(やめて……。聞きたくない)
蕗子は晴明の言葉を振り払うように頭を振った。
「その瞬間、全ての事に後悔しました。簡単に結婚してしまった事を。愛せないなら、どんな熱意にも答えるべきじゃなかった。こんな言い訳、卑怯かもしれませんが、異国の地での孤独がさせた過ちだったのかもしれないと思いました。いや、そう思うしか無かった」
「やめて……」
蕗子はやっとの思いで声を出した。
「やめて下さい。そんな事、言わないで」
「蕗子さん……」
「酷いです、そんな話……。酷過ぎる。あなたは私たち姉妹の仲を引き裂いて傷つけて、それで平気なんですか?」
「僕は……、あなたを傷つけてしまった事には申し訳なく思っています。ただ、それ以上にあなたを愛してる。姉妹の仲は、僕が引き裂かなくても既に亀裂が入っていたと僕は思っています。もう一つ言わせてもらえば、ご両親との仲も」
蕗子はキッと晴明を睨んだ。
「それは、あなたのせいでしょっ。あなたが蘇芳に一方的に私を愛してるとか言うから、あらぬ仲を疑われて……。両親にまで。あなたが蘇芳と別れるのは、あなたの問題でしょ?私を引き合いに出すなんて、それこそ卑怯よ」
溜まらなくなって涙が出て来た。
我慢していたものが一挙に吹上げて来る。
「別れる理由をしつこく訊かれて、他に好きな人ができたと言いました。結婚したばかりで、他に妥当な理由が思いつかなかったから本当の事を言うしかなかったんです。でも、相手があなたである事は、最初は伏せていたんです。それでも、相手が誰なのかを聞くまでは絶対に納得できないと言われて」
「その事で、我が家がどうなるか、想像もつかなかったとでも言うの?」
「すみません。でも僕は、もう我慢ができなかった。池袋で偶然あなたと逢って、僕は運命を感じた。そして、僅かな時間でもあなたと共に過ごせた事で僕は幸せだったし、あなたの中にも僕と同じ想いがある事を悟った。もう、これ以上だらだらと長引かせたくない。そう思って行動に出たんです」
「だからって……。酷い……。自分勝手過ぎる……」
「蕗子さん」
晴明の声音が少し変わっていた。
「僕はもっとあなたを傷つけるような事を、これから言います。でもあなたは、それを乗り越えていかなきゃならない」
蕗子は涙を拭った。
晴明の言っている事が、その意図が理解できない。
「あなたは……私を愛してくれてるんですよね?それなのに?」
晴明は苦痛に満ちた顔をした。
「愛しているから、乗り越えて欲しいんです」
「さっきから言ってるけど、勝手な言い分だと思います。私の想いはどうなるの?あなたはまるで私の気持ちを悟ったようにおっしゃるけど、私はあなたの事なんて、可愛い妹の夫として好意を持っているだけなのに」
そうだ。それだけだ。
異性としての魅力を感じているとしても、それだけだ。
人倫に
私には仕事があれば、それで十分なんだ。
蕗子は自分に言い聞かせるように、心の中で叫んだ。
「今のあなたの言葉は嘘です」
「はぁ?」
晴明の自信たっぷりな口ぶりに、蕗子は唖然とした。