第43話

文字数 3,948文字

 蕗子は会社から貰った休日の最後まで蓼科にいるつもりでいたが、婚姻届を提出する為に最終日の朝、晴明と二人で東京へ戻る事にした。

 婚姻届の用紙は、茅野市役所で貰って来て、既に全てを書き込み、印鑑も押してある。ただ、茅野に二人の本籍が無い。
 本籍地の無い場所では、戸籍謄本が必要となる。
 ここで請求はできるが郵送して貰う事になり、一週間以上を要する為、それなら帰る方が早いと言う事になった。

「晴明さんが車を持ってるなんて、びっくりしたわ」
「蓼科へ行く事に決めた時、買ったんだ。あそこじゃ持って無いと不便だからね。とは言っても中古だけどね」

 晴明の運転で、車は中央道を東京に向け走っている。
 来る時は、この道を夜中に走って来たんだなと思うと、なんとなく笑えた。

 あの時は必死だった。
 中央道はカーブも起伏も多くて、昼間に運転するのだってちょっとスリリングだ。
 それなのに、回りをトラックに囲まれながら、半泣きのような状態で必死に運転していた。

 そうして、やっと辿りついた時の晴明の様子に、絶望的な気持ちになったんだっけ……。
 今度は結婚届けを出す為に走っている。

「どうしたの?」
「え?うーん、何か、来た時と帰る時の心模様が、全く違って真逆?なんで、急に可笑しくなったの」
「そうか。確かに大変だったよね。でも可笑しく思えるのは、今が幸せな証拠だよ」
「そうね」

 高井戸まで来て、世田谷区役所へ直行し、蕗子の戸籍謄本を取った。
 その足で初台の家へ行き、車を置いて渋谷区役所へ足を運んだ。

「これで晴れて、夫婦になれた」

 晴明は、僅かに目をうるませて蕗子を見つめた。区役所を出た所だった。
 蕗子は笑う。

「なんか、変なかんじー」
「そうだね。たったこれだけの事なのに、重さが全然違う。不思議だよね」

 全く実感が湧いてこない。

「私ね。少し戸惑いがあったの。一緒になる事じゃなくてね。蘇芳がさ。阿部蘇芳で無くなって、今度は私が阿部蕗子になるなんてね」
「そうだね。元はと言えば、みんな僕が悪かったんだ。家族と会ってから入籍しようって言えば良かったんだ。今となっては後の祭りだけどさ」

 その通りだろうと思う一方で、入籍していなかたったとしても、蘇芳は婚約者となるわけだから、その婚約を簡単に破棄できたとも思えない。
 やはり、すったもんだと揉める事にはなっただろう。

「まぁ、今更よね。.....それより私、すぐに印鑑とか新しいのを用意しないといけないんじゃない?実印とかも変えないといけないのよね?免許証も。あ、通帳もだ」

 女はどうして、結婚すると、こんなに煩雑(はんざつ)なことを負わされないといけないんだろう。
 とりあえず、変更に必要と思われる分だけ、書類は用意した。

「ハンコはさ。ありふれた名前だから、三文判で幾らでも手に入る。作った方がいいのは、銀行印と実印くらいだね。ちょうど渋谷にいるんだし、店なら沢山あるし、会社にも近いんだからこれから頼みに行こう。それが終わったら新居探し」

「え?今日?」

「そうだよ。まぁ、今日すぐに決められるわけじゃないけど。僕は2,3日したら蓼科へ戻るら、それまでには決めたいと思ってる。そしたら君も引っ越せる」

 取り敢えずの住まいをどこにするか、この休日中に二人で話し合ってきた。
 夏休みに入る前は、一軒家にしたいような事を話していた晴明だったが、蕗子の仕事を考えると、手ごろな場所が思いつかなかった。

 郊外は住みやすいが通勤に不便だ。帰りが遅くなる事もある蕗子である。
 遠くから通わせられないと晴明は主張した。
 それなら初台の家をいっそ改築したらどうかと蕗子は提案したのだが、それにも晴明は反対した。

 元々あまり気に入っている家ではない上に、短いながらも蘇芳と暮らしていた。
 妹が出ていった後、そこへ姉が納まるのは外聞的にも悪いんじゃないか、と言う。
 言われればそうかもしれないと思うものの、立地的には恵まれている。交通の便も良い。

「あそこに、お母さんと二人で住んでたんでしょ?お母さんとの思い出があるのに、どうして嫌がるのかな」
「女の子って、普通そういうの嫌じゃないの?」
「どうして?」
「マザコンとか……」

 プッと吹きだした。

「言うに事欠いて、何言ってるのよ、ほんとにいい歳して」
「君は何かって言うと、すぐに歳の事を持ちだすな」

 不満げに横目で返してきた。

「だって、呆れちゃうことばかりなんだもの。あなたなりに色々思う所はあるんでしょうけど、私はあそこは大事にしておいた方がいいと思うわよ。すぐじゃなくてもいいから、将来はあそこを改築して住みましょうよ。ほとぼりが冷めた頃にでも」
「ほとぼりが冷めた頃か……」
「ね?いい考えでしょ?」

 蕗子の提案に、晴明は安堵したよう頷いて笑った。
 そういう事で、とりあえず、賃貸マンションに住む事にした。

 場所は蕗子の通勤を考えて恵比寿界隈で手ごろな物件を探すことになった。果たして見つかるのかどうか。
 印鑑の注文をしてから、まずは昼食を摂り、軽く乾杯した。
 それから、蕗子が祐天寺のマンションを借りる時に世話になった不動産屋に行ってみた。

「あれ?また引っ越すの?そんなに頻繁に引っ越してると、引っ越し貧乏になるよ」

 驚かれるのも当然だろう。事情を話すと更に驚かれた。
 条件は、二LDK。勿論、オートロックでセキュリティがしっかりしている所。

 築年数は新しいに越した事は無いが、作りがしっかりしていて問題も心配な点も無ければ拘らない。家賃は十五万以内。

 部屋の間取りも、最初は二人で揉めた。一番の理想は三LDKだ。
 だが、職場の近くとなると、その大きさでは家賃が馬鹿高くなってしまう。
 互いが普通のサラリーマンだったなら、二LDKで十分だと思うのだが、画家と建築家だ。

 お互いに共通しているのは、寝室は寝室として独立した一部屋を確保すると言う事だけだった。
 蕗子は今はワンルームで、仕事も寝るのも一緒の生活をしているが、それは一人暮らしだからであって、夫婦となったら、夫婦の寝室をきちんと確保したかった。
 その点は晴明も同じ考えだったので、まずはほっとしたが、問題はその先だ。

 二LDKとなれば、残る部屋は一つ。LDKはリビング兼ダイニングであって、仕事をする場所ではない。
 その残る一つの部屋を、晴明は蕗子の仕事部屋に譲ると言う。

「そんなの駄目よ。あなたは画家じゃない。大学で授業も持ってるんだし。私の仕事の主体は会社にあるんだから、家には無くてもいいのよ。多少不便には思うけど……」

 そうだ。家でやる事なんて、たかが知れている。

「それは心配しなくても大丈夫だよ。本格的に描く時には、初台でやるから。賃貸マンションの部屋をさ。絵具や薬品で汚したり、匂いが染みついたりするのも問題だよ。それに、生活する場にさ。あの匂いは厳しいよ」

 蓼科でも、だからアトリエは二階に設けていたのだった。
 そうは言われても、蕗子には納得できなかった。

「君が事務所に出勤するように、僕も初台のアトリエに出勤する。どちらも恵比寿なら近いし、問題ないと思うんだけどなぁ。新居ではデッサンや、ちょっとした絵付けくらいだね。だから問題ないよ」

 何でも無い事のように話している。

「でも……」
「なんで、そんな寂しそうな顔をするんだよ」

「だって。絵を描いてる間は、私、ひとりぼっちじゃない。制作に没頭したら、時間だって忘れて、時には一晩中描いてる事もある訳じゃない。その間、私、ひとりじゃない」

 初台のアトリエに(こも)ったまま、帰ってこないなんて事になりそうで、それを寂しく思うのだった。

「そんな事を心配してたんだ……。まぁ、そういう事もあるかもしれないね。でもそういう時は、君を呼ぶよ。アトリエに。君さえ良ければね。その代り、翌日が仕事でも来ないといけないよ?」
「いいの?行っても……」

「当たり前じゃないか。制作の邪魔するなーって、怒るような芸術家じゃないから、僕は」
「本当に?いざとなったら、邪魔にするんじゃないの?」

「まさか!それより、君だって仕事の都合で泊まりがけの出張とかも、あったりするんでしょ?僕の方が、よっぽど一人を強いられるわけだよね」

 ウッと蕗子は詰まった。耳に痛い。
 そんなやり取りがあって、結局、二LDKにする事で落ち着いた。

「幾つか該当物件がありますが、どうしますか?今から見に行きますか?」

 言われて二人は不動産屋の案内で見に行ってみた。
 物件は、恵比寿駅から東京大学医科学研究所付属病院の道筋界隈に四件ほどバラついた感じで建っていた。

 提示された資料を見る限り手ごろだと思えるが、安い所は築年数が著しく古く、設備も旧式だったりした。
 どの建物も高層ではない。三階から五階建てだ。

 だが、環境的には悪くない印象だった。
 恵比寿でも、駅から少し歩けば静かな住宅街なんだな、と改めて知った気がした。
 生活に必要な物を買う店もそれなりにある。

 もう少し行くと広尾や白金台に出るが、ここ辺り一帯は、都会に近いながらも、広尾や白金台よりも家賃は安いし、穴場と言えるのではないか。
 駅の反対側は代官山だ。
 矢張りここはいいかもしれない。

 結局、三軒目に見たマンションで二人の意見が合致した。
 住宅街の中にある五階建てのマンションで、築十三年の物件だ。

 とりあえず、二、三日中に晴明がもう少し調べて、それから契約する事にした。
 今月から借りて、新居の準備をする。
 蕗子はいつでも越せるが、一応、八月末日まで今の所から通勤し、九月から晴明と一緒に住む事にした。

 今まで経験した事の無い、全く新しい生活が、人生が始まるんだ。
 蕗子はそう思い、どんな未来が待っているのか、思いを馳せるのだった。

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