第15話

文字数 5,555文字

 A市での打合せが無事に終わり、ホッとして車に乗り込んだ。今度は蕗子が運転する。
 往路では、吉田のお陰で財前との事は自分の中で整理を付けることができたと思う。
 財前だって、何より仕事を大事にしている人だ。無茶な事はしないだろう。

 問題は晴明の事だ。
 こちらの方が遥かに厄介な問題だと思う。

「ねぇ……。うちの妹、どう思う?」

 ふと、訊ねた。
 この吉田はどう感じているのだろうと、往路での会話から興味が湧いた。

「妹さん?蘇芳さんだっけ。変わった名前だねぇ」
「まぁね。それで、どう?」

「どう思うって訊かれても、俺よく知らないし。事務所で何度か顔を合わせたくらいだから、どう思いようも無いって言うか……」

 意外に思った。

「みんな、綺麗な人ですねとか、華やかな人ですね、とか言うけど」

「ああ、それはそう思うよ。誰が見たってそうだよねぇ。美しいものを見たら、美しいって言うの、当たり前じゃない?どう思うかは、また別の問題って気がするけど」

「吉田さん、意外に理屈っぽい人だったのね」

 本当にそう思った。
 考えてみると、食事や飲みに何度も誘われてきたものの、個人的に二人で行った事は一度も無かった。
 彼とは七年の付き合いになるが、こんな風に立ち入った事を話すのは初めてだった。

「今日は、俺の事で意外な面をたくさん知って、少しは見直したんじゃない?」

 少し嬉しそうな笑顔を浮かべている。

「そうね。そうかも……。でもだからって得意にならないでね」
「厳しいなぁ……」

 社用車での移動は少ない方だ。二人で移動する事はこれまでも何度かあったが、近場ばかりだったから時間が短い。
 だから、雑談程度しか話した事が無かった。
 今日は良い機会だったと思う。

「蘇芳を見て、綺麗だって事以外に何か感じる事はないの?」
「案外しつこいね」
「ごめんなさい」
「いや、いいけど、どうしてそんなに気にするのかなと思ってさ」

「うーん……、今までね。蘇芳に会うと、ほぼ皆、容姿を讃えるからね。男ってそういうもんなんだろうって思ってたんだけど、今日の吉田さん、ちょっと意外で見直したから、吉田さんはどう感じてるんだろうって興味が湧いたのよ」

「なるほど。嬉しいお言葉だね。でも、男ってそういうもんだよ。それは合ってる。それは何も蘇芳さんに対してだけじゃないよ。蕗ちゃんにだって同じだよ」

「ええ?私?」

「うん。まさか、妹さんに引け目を感じてるわけじゃないよね?蕗ちゃんも十分綺麗だよ。自信を持った方がいいよ」

 蕗子は顔が赤くなるのを感じた。同時に少し失望する。

「綺麗と言ってくれるのは嬉しいけれど、私べつに引け目を感じて、訊いているわけじゃないんだけどな……」

 でも、そう聞えてしまうのだろう。それが結局は現実だ。

「あ、そうなの?それならいいけど。妹さんは確かに華があって艶やかだけど、そういうのってさ。結局のところ好みの問題だよ。派手な女性が苦手な男も少なくないし、俺なんかは蕗ちゃんの方がずっとタイプ。ただ、高根の花って感じするかな」

 そこまで言われると、こそばゆい。どこかに隠れたくなってくる。

(やっぱり、この人はいい人だな)

 そう思いながらも、男性として意識できない。
 考えてみれば、随分と告白めいたセリフを連発しているのに。
 さらりとしているからなのかもしれない。

「じゃぁ、訊きついでにもうひとつ。……蘇芳の配偶者の阿部さん。彼の事はどう思う?どう感じてる?彼とは何度も直接話した事あるから、何か感想あるでしょ?」

「ああ、阿部さんね。あの人は、そうだなぁ。難しいなぁ、言葉で現すのが。……そう、難しい人だ」

「はい?聞いてる方も理解が難しいんですけど」

 難しいと言えば、その通りだと思うものの、それでは尚更よく分からない。

「仕方ないでしょう。本当に難しい人だと思うんだから。複雑で分かりにくい人、とも言えるかなぁ。悪い人だとは勿論思わないよ。ただ芸術家にありがちな、繊細さによる神経質さ?があるのかなぁ。屈託なく笑う明るい優しげな人かと思うと、なんか不気味とさえ思うような翳りを持ってるって言うか」

(ああ、やっぱりそう感じているんだ)

 自分と同じものを他の人間も感じていると知って、蕗子は少し安堵した。

「だから、複雑で難しいって言ったんだよ。なかなか理解しがたい感じで。たださ。何て言うの。よく蘇芳さんと結婚したなって、思うんだよね。こんな事を言って悪いと思うけど」

「えっ?それって?」

 また意外な事を口にしている。

「波絵ちゃんなんかは、美男美女のカップルでお似合い~とか言ってるけど、俺から見ると、なんかアンバランス?二人が一緒にいる時もさ。これホント、あくまでも俺の主観なんだけど、蘇芳さんを見る阿部さんの目がさ。愛情って言うより同情っぽく見えるって言うか」

「同情?」

 思わず声が大きくなった。思いも寄らない言葉だった。

「ごめん!妹さんに失礼だよね、こんな事言って」

 本来なら、そう思う。
 だが今は、違うとはっきり否定できない自分がいた。
 戸惑って言葉を継げないでいると、吉田が慌てたように後を続けた。

「ほんと、ごめん。あくまでも俺がそう感じたってだけだから。阿部さんって難しくて分かりにくいからさ。そう感じたのは間違ってるよ、きっと。ただ、あれだけ難しい人の傍で、ああも派手派手しく笑ってる蘇芳さんがさ、不思議な取り合わせに見えるだけ」

「最初に紹介された時、派手で陽気で自己中な蘇芳を暖かく見守って、十分甘えさせてくれてる人のように見えて、これで蘇芳も落ち着いて良かったなって思ったんだけど」

 蕗子は呟くような声で言った。
 そうだ。最初の最初はそう思ったんだ。目を合わせるまでは。

「そうだよ。きっとそうなんだろうって俺も思う。同情じゃなくて、甘えん坊で子供っぽい蘇芳さんを半ば呆れるように見てたのかもしれない。やれやれ、コイツはしょうがないなぁって感じで?でもそれが嬉しかったりするのかもね。男だから」

 蕗子は軽く笑った。

「ありがとう。吉田さんに色々聞けて良かった。優しい人だって事も分かったし。今日は収穫だったわ~」
「蕗ちゃん、それは駄目だ。そんな事は言わないでくれ」
「ええー?」

 急に真面目な口ぶりになったので、驚いた。

「男に面と向かっての褒め言葉は禁句。誤解を受けるぞ。俺を異性として少しは好きになってくれたって言うなら嬉しいけど、そうじゃないんだろ?ぬか喜び、させないでくれ。それが本当の思いやりってもんだ」

(はぁ~。これまた意外に面倒くさい人だった?)

「わかりました。気をつけます」

「良かった。俺は蕗ちゃんとは、できればこんな風な関係でずっといられたらいいって思ってるんだ。卑怯かもしれないけど、良い友人とか兄貴みたいなね。高根の花は手折るよりも、そばで
守る方がずっといいんだ。ずっと綺麗に咲いていて欲しい。そう思ってる」

 蕗子は運転しながらさりげなく横目で吉田を見た。明るい表情で微笑んでいる。
 本気でそう思っているようだ。

 それはそれで嬉しいが、だが切なくはないのか。蕗子は切ない。
 自分が蕗子で無く、妹とかそれこそ友人だったら、この人の想いが叶ったらいいのにと思うに違いない。
 いや。相手が自分でさえ無かったらと思う。

「俺の事、心配しなくても大丈夫だよ」

 蕗子はドキリとした。
 まるで蕗子の中の杞憂を悟ったようなセリフだ。

「どうせいつかは、君と似ても似つかない平凡な女の子と一緒になるのがオチだと思う。それでも、君とはずっと一緒に仕事をしていきたいって思ってるんだ。人生のパートナーにはなれなくても、仕事のパートナーなら、俺ほど頼りになる男はいないぜ?」

 蕗子はにっこりと笑った。

「ありがとう。その言葉、とっても嬉しい。私も、ずっと良いパートナーでいて欲しいって思ってたから」

 心からそう思った。
 蕗子にとって何より大事な仕事だ。ずっと一緒にやってきて、この人の頼もしさは十分わかっている。財前の後継者は吉田だと蕗子は思っていた。

 財前は蕗子にとって、仕事上での心の支柱とも言える存在だった。
 その支柱が揺らいでしまい、不安で心許なくなった。
 だが、それも今は無い。吉田のお陰だ。揺らいだ屋台骨を元に戻してくれた事に、深く感謝する蕗子だった。


 残務処理をして事務所を出たのは、午後の八時を過ぎた頃だった。
 吉田と色々話せた事で心が軽くなり、その後の仕事も充実した。
 心地良い疲労感で帰宅すると、思いがけぬ事が蕗子を待ちかまえていた。

 厳しい形相の父と不安で悲しげな顔をした母が、玄関で靴を脱いでいる蕗子の元へやってきた。

「ただいま……」
 不穏な空気に戸惑いつつ、とりあえず帰宅の挨拶をしたものの、返事が返って来ない。

「話しがあるから、こっちへ来なさい」

 怒っている。どう見ても怒っている。だが、なぜ?

 よく分からないまま両親の後を着いて行くと、その先には蘇芳がいた。不敵な笑みを浮かべている。その様を見て蕗子はいっぺんに理解した。そして、目を瞑る。舌打ちしたい気分になった。

 父の広志は、奥の座敷へ入ると座卓の前の上座に座った。目の前に座るよう目で合図された。
蕗子は仕方なく従う。真弓と蘇芳は広志を挟んで両脇に座った。

「蘇芳から話しは聞いた」

 広志の様子を見れば、全てが手に取るように分かる。
 蕗子は否定したのに蘇芳はそれを信じなかった。
 だから自分の主観で、父にこれでもかとばかりに蕗子を悪者のように話したのだろう。
 それを広志は鵜呑みにして怒っている。

 蕗子は溜息が出そうになった。昔からこうだ。
 ここまで怒られる事は無かったが、広志も真弓も蘇芳には目が無い。彼女の話しをすぐ鵜呑みにする。だから姉妹喧嘩は不毛だった。
 喧嘩をしても蕗子が損をするだけだからだ。

「俺は信じられない思いでいっぱいだ。お前がそんな娘だったとは」

 突き刺すような言葉に、蕗子も同じように返した。

「私も信じられません。私はそんな娘じゃないのに」

(まるで喜劇だ)
 このやり取りを滑稽に感じる。

「ふざけるなっ」
 広志が座卓を叩いた。蕗子は思わずビクリとする。

 広志はやり手の銀行マンだから、職場でこうして怒って怒鳴る事もあるのだろうが、家で怒鳴った事など一度も無かった。だから、それ程の怒りを持っていると言う事だ。
 
 怒っている内容が事実なら、つまり姉が妹の夫を誘惑したと言うのなら、この反応は当たり前だろう。
 実際は違うのに、広志はそう思っている。
 蕗子はキッと父を見て、「私は何もしてません」と告げた。

「何もしてないとはどういう事だ。蘇芳にもそう言ったそうだが、それなら何故、晴明君は蕗子を愛してるなんて言うんだ。蘇芳と別れて一緒になりたいだなんて、可笑しいだろう。二人の間に何もないわけがない」

(だめだ……)
 蕗子は頭を振った。

 (はな)から蕗子の話しに聞く耳を持っていない。
 父の言う事は分かる。
 自然な解釈だろう。

 だが、もう一人の自分の娘の言い分を、少しは聞いてくれても良いのではないか。
『信じられない思いでいっぱいだ』と言いながら、信じようとする心が最初から皆無のような気がしてならない。

「蕗ちゃん……。幾ら好きになってもね。相手は妹のダンナさんなのよ?過去に何度か、蕗ちゃんの彼と蘇芳がいい仲になってしまった事はあるけど、未婚と既婚じゃ事情が違うのよ?許されない事なのよ?」

 蕗子は母の言葉に愕然とした。
 いきなり大きな鉛を体の中に流し込まれたように感じた。

 父はともかく、母にまでこんな事を言われようとは。

 未婚と既婚じゃ違うと言うのは確かにそうだ。
 だが、それでも相手の男を取った事には変わりは無い。

 その事で親に愚痴をこぼした事は一度もないが、その事実は両親とも把握していた。
 そして、見て見ぬふりをしてきたのだ。
 蘇芳を怒るどころか、注意すらしなかった。それなのに、立ち場が逆になったら、蕗子の話しを信じる事もせずにこんなにも責めるのか。

 蘇芳は厭らしい笑みを浮かべている。
 蕗子の中に、言い知れぬ怒りが湧いてきた。我慢できない。もう嫌だ。心の中の(たが)が外れる。

 何かにつけて妹が優先されてきた事実。
 可愛い妹だから仕方ないと、自分に我慢を課してきた。
 だが、折に触れ、何かが蕗子の中から訴えてきていた。
 自分の存在意義に関わる事だったと、今になって理解した。

 それと同時に自分の中の、封印していた正直な心がくっきりと浮かび上がって来た。

 ずっと押さえつけていた想い。
 否定し続けていた想い。

 初めて目を合わせた瞬間から、晴明に心を奪われていたという事が。

 全く自覚はしていなかった、心の奥の真実。

 晴明も同じだったのだろう。互いに惹かれあっていたのだ。

 だが、私たちは何もしていない。ただ相手を想い合うだけで。

 蕗子は妹の夫だからと、自分の心を固く封印してきたが、晴明は違ったのだろう。だから、蘇芳と別れる決意をした。そこまで思い詰めたと言う事なのか。

 蕗子は立ち上がって、(きびす)を返した。

「おい、なんだ?どこへ行く。まだ話の途中だぞっ」

 娘の行動を意外に思ったのだろう。広志はうろたえた声を出した。

「この家を出ます」

「なんだって?何を言ってるっ」

 蕗子は振り返った。

「お父さんもお母さんも、蘇芳の事しか頭に無いんでしょう?私の言う事なんて信じようともしてくれない。だから、私は出ていきます。信用できない人達と一緒に暮らすのは、もうご免だわ」

 両親は唖然としたように、目を見開いて口を半ば開けたまま蕗子を凝視していた。
 蕗子は構わず自室へ向かい、持てるだけの荷物を持って家を後にした。

 もうここは我が家ではない。

(二度と帰るもんか)
 そう強く決意した。
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