第23話

文字数 2,361文字

 晴明は思い出したように振り返って、台所のシンクの方を見た。

「生ゴミの気配すら無いね。一体、毎日食事はどうしてるの」
「あなた、男の癖に細かいわね」

 そんな所にまで気持ちが及ぶとは驚きだった。

「悪かったな」
「大丈夫よ、心配しないで。食事はちゃんとしてるから。ゴミはね。ここは毎日出せるのよ。だから、朝出勤時に出してるの。ゴミをいつまでも置いておかないで済むのが何より嬉しいかな、ここは」

「はぁ~。まさか、それが決め手とか言わないでくれよ」
「まさか」

 さすがにそれは無いだろう。蕗子は笑った。

 晴明の横をすり抜けて部屋へ入ると、ジャケットを脱いで収納の扉を開いた。晴明が蕗子の後について部屋へ入ってきた。

「布団はあるんだな。もしや、床にそのままごろ寝かと思って、正直ぞっとした」
「やぁねぇ。幾らなんでもそれは無理。体が痛くなるし、疲れも取れないし、仕事に差し障る」

「なるほど」
 フムフムと言った感じで顎を撫でて感心した様子だ。

「電話は引いてないの?」
「必要ないでしょ。冷蔵庫すらないのに」
「それはそうだ」
「それにしても……」

 キョロキョロとまた見まわしている。

「ごめんなさい。座布団もクッションも無くて。私は平気だけど、あなたも平気なら座ったら?」
「うん……」

 晴明は蕗子の隣に腰を下ろした。

「どうやって見つけた?」
「ここ?ネットで幾つか物件検索して、実際に見て見つけたの。ここはまぁまぁだと思うわ。中目黒も候補だったんだけど、夜は酔っ払いが多いみたいだからやめたの」

「そうか。それは懸命だと思う。駅からの道すがらも危険そうな所は無いようだったし」
「そうよ。遅くに帰宅する事も多いから、その辺は重要」

「それにしても……。どうしてこんなに何もない?」

「もともと、あまりごちゃごちゃしてるのが好きじゃないの。狭いんだし、物を増やしたら余計に狭くなるじゃない。この方がサッパリしてていいわよ?」

「床にじか置きが?」
「風通しがいいじゃない。何があるかもすぐに分かるし」

「食卓も無いんだね」
「あんなの、場所を取るだけよ」

「いくらノートとは言え、パソコンまで……。あれを使う時、どうやってるの?」
「膝の上に置いて、疲れたら床に置いて寝転びながら……」
「かえってだらしない感じがするんだけど」

 胡散臭そうな目を向けられた。

「ホテルには、どのくらいいたの?」
「一週間かな。この部屋がすぐに見つかってくれたから助かったわ」

「荷物は……、ほんとにこれだけなんだね。これだけしか持って来なかったんだ。取りにも帰って無いんだね」
 声がしんみりしている。

「これでも、必要な物は全部持ってきたつもりなんですけど」

 蕗子の言葉に、晴明はにんまりと笑った。

「初めての一人暮らしだよね?感想は?」

 蕗子もにんまりと笑い返す。

「自由でノビノビできて解放感が素敵」

「蕗子さん……」
 晴明がいきなり改まったように真面目な顔をした。

「はい……」
 蕗子も途端に神妙な面持ちになった。

「僕は、初台の家を売るつもりだ」
「え?もしかして、蘇芳への慰謝料の為とか?」

「まさか!弁護士は、本来なら蘇芳の方から慰謝料を貰っても良いくらいだって言ったが、元々彼女の浮気を知っていて見て見ぬふりをしてたんだし、君と出逢わなければ気にも留めずにいた事だからね。だから、蘇芳にとっては寝耳に水だったろうし、彼女は僕と続けたがっていたわけで、それを無理に離婚にまで持ち込んだのは僕の責任だから、蘇芳には金額は多くはないけど
慰謝料を渡すことに決めた。でも、家を売る程の額じゃない」

「じゃぁ、どうして……」

 初台の家は、確か親から受け継いだものだと聞いていた。
 彼の為のアトリエもあったし、立地的にも住みやすそうで問題は無いと思うのに。

「元々ね、あの家はあまり好きじゃないんだ。渡米する前の何年か住んではいたけど、あまり良い思い出は無いし。蘇芳との事もある。だから、」

 晴明は蕗子の顔を覗きこむようにして見た。

「あそこを売って、別の場所に住もうと思ってる。君と二人で」
「えっ?」

 ジッと見つめられて、蕗子は目が泳いだ。

「いいよね?」
「いいよね、って……」

 突然の事にうろたえる。だが、自然な流れとも言えるのか。

 晴明の顔が近づいて来て、そっと唇を塞がれた。
 どうしたらいいのか分からなくて戸惑っているうちに、離れた。
 だが、顔は近いままだ。
 彼の細い指が伸びて来て、蕗子の頬に触れた。少しザラついている。
 絵具のせいだろう。

「君を……、一人ぼっちにさせてしまってごめん。寂しかっただろ?この殺風景な部屋で一人きりで」
「そんなこと……」

 そう言いながら、涙が湧いてきた。

「僕は君から家族を奪ってしまった。僕がいなければ、誤魔化しながらも家族でいられた。決定的な亀裂を生む事もなかったし、それなりに平和でいられたんだ。偽りであっても、君には仕事があるし、少しくらいの寂しさを感じることはあっても、深く傷つく事はなかったんだ……」

 蕗子は頭を振る。

「そんな事ない。私自身……、よく分かってた。両親の思いを。だから、結局は、こうなったと思うの……。遅かれ早かれ、家を出ていたわ、きっと」

 晴明は蕗子の涙を指で拭った。

「僕も寂しかったよ。君に出会うまでの間、ずっと。…孤独だった。蘇芳と一緒になっても、満たされた事は無かった。なのに…、君に出会った時、強力な磁石に引きつけられてるみたいだった。目を合わせた瞬間に、君も同じだと分かった。だから。全てを(なげう)ってもいいほど、君が欲しくなった」

 抱きしめられた。とても強く。

「蕗子さん。まだ暫くはここでの暮らしが続くけど、いい場所が見つかったら一緒に住もう。僕のアトリエと君の仕事場、両方用意しよう。勿論、君が設計するんだ」

 晴明の腕の中で、蕗子はコクリと頷いた。
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