第55話

文字数 2,781文字

「何を馬鹿な事を言ってるんだ」
「そうですよ、蕗子さん」
「でも……」

 蕗子は全てを話した。
 父から言われた事、父のした事も。自分の中の罪悪感も。

「君、それは考え過ぎだ」
 小野がきっぱりと言った。

「あなたのキャパシティで受け止めるには難しい事ばかりが続いてしまったから、そんな風に思うだけですよ。あなた達は何も悪い事などしていない。ただ互いを愛しただけです。人生には良い事もあれば悪い事もある。それが普通だ。天罰だなんて思ってはいけない」

「先生……」

「そうだよ、蕗子さん。大体、そんな風に思ったら、晴明が可哀想だ。自分達の愛を、自ら否定するような事を考えちゃ駄目だ」

 小野はそっと、蕗子の肩に手を置いた。

「晴明がさ。言ってたよ。『蕗子さんは僕にとって、どれだけの存在なのか、ちっとも分かって無い』って。そんな事は無いだろうって思ってたけど、君の今の話しを聞いて、なるほど納得したよ。君は全然、わかっちゃいない。晴明にとっての過去はね。もう、既に終わってるんだよ。完了してるんだ。それは、君に出逢った瞬間にね。君に出逢ってなければ、多分今でも終われずに尾を引いていたと思う。晴明自身も、そう言ってただろう?だから、皆の前で、平気で里美さんの事をあんな風に言えたのさ。多分君は、それを聞いて里美さんに同情したんだろう。でもあれは晴明の真実なんだよ。君と出逢った事で目が覚めたんだ。自分と里美さんの愛の本質をはっきり悟ったんだよ。そして自分にとって本当の、真実の愛は君だけだって事もね。だから、里美さんと比べる事なんて全くない。比べようがないんだ。君は唯一無比の存在なんだから。だから、天罰だなんて言わないでくれ。もっと自信を持つんだ。誰にも邪魔されたくないから、すぐに入籍したんだろう?死神なんか跳ね返すくらい、心を強く持ってくれよ。君はあいつの、天使じゃないか」

 小野は渾身の想いを託すように、力強く訴えた。
 その言葉が強く心を動かした。蕗子は泣きじゃくりながら、頷く。

「ありがとう……、小野さん、先生……」

 二人と別れて集中治療室に戻り、晴明を見る。
 相変わらず、真っ白で生気が感じられない。
 背筋が寒くなった。だが、蕗子は気を強く持った。

 小野と白川に言われた言葉が胸を打った。こんな事になったからと言って、自分を責めたり、
天罰だなんて思ってはいけない。
 ただ生きて幸せになることだけを考え、願わねば。

 深夜遅く、うつらうつらしていた蕗子は、ふと何かの気配で目が覚めた。
 はっとして時計を見ると針は三時半を刺していた。晴明の周囲が慌ただしい。

 何か変化があったようだ。
 思わず立ち上がって、ガラスに顔を寄せる。
 蝋人形のように白く無表情だった晴明の顔が、苦しそうに歪んでいる。

「晴明さん!」

(嫌だ。駄目!頑張って。お願い!)

 蕗子がジッと目を凝らして晴明を見つめていると、何かが晴明のそばにある事に気付いた。
 晴明の胸のそばに、薄ぼんやりと何かを感じる。
 そこだけ空気が淀んでいるような、偏光ガラス越しに見る何かのような。

(まさか?)

 蕗子は寒気を感じた。実体のある物ではない何か。目に見えない何か。
 でも、その存在を感じるのだった。

(まさか、里美さん?連れに来た?)

「駄目!」
 蕗子はガラス越しに叫んだ。

「お願いだから、連れて行かないで!」

 蕗子は必死に祈った。
 妹だと知っても、愛する事をやめられなかった。そして、その愛を死によって別たれてしまった。
 その事が、蕗子の中にずっと(おもり)のように居座っていた。

 どんなに自分が一番だと言われても、それでも最後は里美が勝つような、そんな畏れがずっと拭えずにいた。

 だけど、そうじゃないんだ。
 小野の言葉によって、改めて晴明にとっての自分の存在の確かさを知らされた。
 そして、自分にとっての晴明の存在も。

 誰にも渡さない。絶対に。

 蘇芳に対しても負い目があったが、もう、そんなものは感じない。
 愛し合っていたわけではないのだから。

 晴明が愛しているのは自分だけだ。
 後にも先にも自分だけなんだ。
 だから、絶対に連れてなんか行かせない。
 逝かせてたまるか。

 蕗子は強い思いで訴えた。

「里美さん。悪いけど、あなたの出番はもう無いのよ。だから帰って。一人で帰って」

 そして、晴明に訴えかける。

「晴明さん。戻って来て。私の元に。私を愛してるなら逝かないで。ずっと、私のそばにいて、私を守って。私もあなたを愛してるのよ。誰よりも」

 中が一層慌ただしくなってきて、蕗子は呼ばれた。

「奥さん、中へ」
 消毒をし、医療用の服を着させられた。

「晴明さん」
 傍に寄り、声をかける。
 晴明の息が上がり、苦しそうだ。

「晴明さん、蕗子よ。しっかりして!しっかりするのよ!あなたの天使が頼んでるのよ?戻って来ないと、承知しないからね!絶対に、いっちゃ駄目!」

 恥も外聞も無い。必死に呼びかけた。
 ついでに、晴明のそばにいると思われる里美を追い払うべく、シッシ!と手で周囲を払う。

「奥さん、何やってるんですか」
 スタッフに(とが)められたが、「いいから放っておいて」と言い捨てる。

「晴明さん!負けちゃ駄目よ。勝つのよ。勝って!晴明さん!!」

 手を強く握りしめたら、握り返してきた。

「晴明さん!……先生!手を握り返されましたよっ」

 蕗子が振り返って医者を見た。

「奥さん、そのまま握りしめて、どんどん呼びかけて」

 蕗子は言われた通りにした。
 これは二人の戦いだ。

「晴明さん!私があなたを守ってあげる、だからあなたも頑張って!」

 声が枯れる程、叫んだ。
 どれだけ叫び続けただろう。気持ちが張り詰めて糸が切れそうだ。
 でも、頑張らねば。

 ふと、周囲が静かになってきていると感じた。
 疲れて朦朧(もうろう)としてきたのだろうか。
 気をしっかり持たなければ、と思った時、肩の上に手を置かれた。

「奥さん、もう大丈夫ですよ。山を越えました」
「えっ?」

 蕗子が振り返ると、医者や看護師達の笑顔があった。

「良かったですね、もう大丈夫ですよ」

 口々に言っている。
 蕗子が傍の機械に目をやると、どれも静かに平常を保ったように動いていた。
 終始ピコピコと早鐘を打つように煩く鳴っていた機械が、嘘のように普通の音を立てていた。

 静かになったと感じたのは、意識が朦朧としていたわけでは無かったのだった。

「ああ……、晴明さん」

 蕗子は晴明に視線を戻した。
 呼吸が静かになっており、顔はまだ白いものの、蝋人形のようではなく、僅かに赤みをさしていた。
 表情も穏やかになっている。

「良かった……」

 蕗子は晴明の手を取って、静かに撫でた。
 先ほどのように握り返してはこなかったが、ぬくもりが感じられた。生きていると感じる。

 その手にそっと口づけた。
 絵具の匂いがする。
 その匂いを嗅いで、心から安堵したのだった。
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