第49話
文字数 3,423文字
「とりあえず、新居って感じになったね」
生活に必要な物がひと通り揃い、二人は新しい部屋でグラスを傾けあった。
晴明も蓼科から戻って来て、絵画制作の場所も東京に移った。
大学での授業は十月からなので、九月一杯はその準備はあるものの時間的な余裕があった。
こうして二人でゆったりと過ごし、毎晩一緒にいられると思うと嬉しくてたまらない。
二人の生活は特に取り決めたわけでは無かったが、朝食を蕗子が作り、夕食は晴明が作っていた。蕗子よりも晴明の方が早く帰宅するからだ。
だが休日は二人で作ったり、蕗子が作る。
一緒に住むようになって蕗子の夜の過ごし方は変わった。
一人の時と違うのは当然の事だが、帰宅してからも仕事漬けで、他に何もせず何も考えず、気付けば寝る時間になっていた夜が、精神的にゆとりのある時間に変わったのだった。
ゆったりとハーブティを飲みながら、互いの仕事の事や他愛のない事を喋り、笑い、むくれ、また笑い……。
そんな風に時間が過ぎていくのが明日への活力となっている。
「こんな風に、穏やかで楽しい時間が当たり前に流れているのがさ。幸せでたまらない。ずっと、自分に無縁だと思ってた。里美と出逢った時に、やっと僕も普通に家庭が持てるんだって喜んだのに、結局ぬか喜びで、前よりも不幸な場所へ突き落された気分だった」
晴明は、ベッドの中で蕗子を抱きしめながら、語った。
「毒を喰らわば皿まで、じゃないけど、こうなったら二人で落ちる所まで堕ちてやるって思ったんだよ。彼女の強い覚悟で僕もそう決意した。そしたらさ。その彼女まで奪われて。どんだけ落ちてくんだってね」
晴明の瞳が少し翳ったように見えた。
「その後少しは浮上したけど、相変わらずの低空飛行。絵が認められた事は何より嬉しかった。僕にはやっぱり、これしかないんだって。応えてくれるのは絵だけだ……。だけど、君は違った」
晴明が優しい瞳を蕗子に向けた。
「初めて君と視線を交わした時、君が応えてくれたのを感じたんだ。勿論、僕は問いかけた訳でもないし、特別な感情をこめて君を見たわけでもない。ごく普通に、初対面の相手として見ただけなのに。その瞬間に、この人だって思ったよ。僕が本当に探し求めていた女性は、この人だったんだってね。別に常に求めて探しまわっていたわけじゃないよ。無意識のうちにって事だからね」
蕗子は笑った。
「分かってるわよ、念押ししなくても……。私も同じだったんだと思う。でも、言葉で無いもので感じたからこそ、認められなかった。私は現状で満足してたから。ただ、酷く残念な気持ちになって、それが不思議だった」
「残念な気持ち?」
「ええ。多分ね。心の奥底では、この人が好きだって思ったんだと思うの。でも、妹の旦那さんだから。残念でしょ?不思議なのは、この人が好きだって感情をすっ飛ばして、残念な気持ちだけが明確だった事。自分は理由は分からなかった。残念だってことは、好きだって事の裏返しとも言えるのに、好きだって気持ちは、どうしても認めたく無かったわけなのよね」
今思えば、滑稽だ。
「君は頑なだったよね。でもそれが普通だと思う。僕が無茶苦茶だったんだ。それでも、今こうして、君を手にできているわけだから良かったって思ってる。本当に欲しいものが目の前にあると、こうも無節操になるんだなって改めて自分自身を知った気がする」
蕗子もこれで良かったんだと思った。
今まで知らなかった自分を知り、世界が広がったように思える。一人だったら絶対に得られない世界だ。
こうして二人の生活は順調にスタートした。
蕗子の方は目の回るような忙しさだった。
保土ヶ谷のA邸の打合せでは遅くなる事も多く、時には施主からの誘いで夕食を御馳走になる事もあり、そんな時は晴明も遅くまで初台で仕事をする。
へとへとに疲れて帰って来て、部屋の鍵を開けると晴明が出てきて迎えてくれる。
心が癒される瞬間だった。
仕事が好きだから、これまで精神的な疲れを感じた事は無かったし、それは今でも変わらない。
それでも、晴明の優しい顔を見ると心底癒されるのだった。
「ただいま」
「おかえり」
そう言って、互いに抱き合いぬくもりを確かめる。
晴明は前よりも一層、絵具の匂いがした。
向こうで服を着替えてくるし、シャワーも済ませてあるのに、それでも匂う。でも蕗子は、その匂いが好きだった。
十月になると大学も始まって、晴明も朝は忙しくなった。
それでも通勤に時間がかからないと楽だ。
東京もやっと涼しくなってきて、過ごしやすくなってきた。
「できあがったよ」
そう言われて、個展のチラシを渡された。
「素敵……」
思わず呟く。
晴明の代表とも言える夜の風景画が写っていたが、ニューヨークの個展での画集に載っていたものと印象が違った。
そして、そこに掲載された大きな文字……。
――月と星の間 君に捧げる愛の風景――
「これが、テーマなの?」
晴明を見ると、照れたような笑みを浮かべている。
「なんか、言葉にすると恥ずかしいよね」
「確かニューヨークの時は、『月と星の風景』、じゃなかった?」
「ああ。似たようなタイトルだけど、本質は違うんだ。あとは、見てのお楽しみ」
何だか意味深だ。
だが……。
『君に捧げる』の『君』とは、自分の事なんだと思うと胸が熱くなる。
いつの間にか自分の頬が火照っているのに気がついた。
慌てて視線を『君』から外す。
「この写真、素敵ね」
「え?どの写真?」
蕗子は晴明の顔写真を指さした。
「凄く良く撮れてると思う」
真正面ではなく、少し斜めから撮ってあり、清冽な印象を受ける。
以前の独特な陰影は息をひそめている。
この写真を見ただけで、多くの女性の心を惹きつけるのではないだろうか。
紹介されている絵の雰囲気ともマッチしていて、ロマンティックだ。
「この写真、ちょっとカッコつけてないかな。自分ではそういうつもりなかったんだけど」
「カメラマンがたくさん撮った中から、これを選んだのよ。絵の作風と合ってるステキな写真だと思うわよ?実物より数倍良く撮れてる」
「こらっ」
チラシはたくさんあったので、事務所に置かせて貰った。
「みんな、お客さんに渡してあげてよ」
財前がそう言ってくれて有難い。
蕗子も顧客に渡した。
A邸の夫婦は「喜んで観に行かせてもらいます」と言ってくれ、更に新居が完成したら是非夫婦の肖像を描いて欲しいとまで言ってきた。
「風景画が専門なんですけど、伝えておきますね」
風景にしか興味がない晴明が、果たして肖像画なんて描けるのか。
そう言ったのだが夫妻は執拗だったので、帰ってから晴明に言ってみると軽い調子で「多分大丈夫」と答えた。
「本当に?」
蕗子は意外に思った。
「専門は風景だけど、ひと通りの事は勉強してるし、一応、描けるよ。筆を持つ気にもなれないような苦手なタイプでない限り。蕗子さんの話しを聞く限りでは、大丈夫だと思う」
明るくて気さくな夫婦だから、そういう点から見れば大丈夫なんだろうとは思うが。
「ただ、ひとつ条件があるんだ」
「条件?」
「うん。僕は肖像画家じゃないから、一般的な肖像画で描く気はない。家が完成したらさ。家と庭を背景に、その前で幸せそうな御夫婦の姿を描きたい。いい記念にもなるだろ?それに、君が建てた家も描き残したいなって思うんだよね。それでいいなら。そう話してみてくれるかな」
蕗子はそれを聞いて嬉しくなった。ただの肖像画ではなく、家と一緒に。
その家は蕗子が手掛けた家だ。
それを描きたいと言ってくれる晴明が、たまらなく愛しくなってくる。
施主に話すと、とても喜んでくれた。
却ってその方が記念になるし、室内に飾っていつも自分達の家と自分達を観れる方が遥かに嬉しいと。
「やはり、芸術家だけに目の付けどころが違いますね」
目を輝かせて言われて、蕗子も満足だった。
「このチラシ、ステキですよね。お客様、皆さん目を輝かせて、是非行きたいっておっしゃいますよ」
波絵にそう言われたので、「それって女性が多くない?」と指摘したら「確かに~」と納得したように言い、二人で顔を見合わせて笑った。
「阿部さん、ステキな人ですよね。最初、妹さんとお似合いのご夫婦って言ったけど、今では蕗子さんとの方がずっとお似合いだって思ってます。ほんと羨ましいです」
「波絵ちゃん、ありがとう……」
蕗子の世界は幸福で満たされていた。
生活に必要な物がひと通り揃い、二人は新しい部屋でグラスを傾けあった。
晴明も蓼科から戻って来て、絵画制作の場所も東京に移った。
大学での授業は十月からなので、九月一杯はその準備はあるものの時間的な余裕があった。
こうして二人でゆったりと過ごし、毎晩一緒にいられると思うと嬉しくてたまらない。
二人の生活は特に取り決めたわけでは無かったが、朝食を蕗子が作り、夕食は晴明が作っていた。蕗子よりも晴明の方が早く帰宅するからだ。
だが休日は二人で作ったり、蕗子が作る。
一緒に住むようになって蕗子の夜の過ごし方は変わった。
一人の時と違うのは当然の事だが、帰宅してからも仕事漬けで、他に何もせず何も考えず、気付けば寝る時間になっていた夜が、精神的にゆとりのある時間に変わったのだった。
ゆったりとハーブティを飲みながら、互いの仕事の事や他愛のない事を喋り、笑い、むくれ、また笑い……。
そんな風に時間が過ぎていくのが明日への活力となっている。
「こんな風に、穏やかで楽しい時間が当たり前に流れているのがさ。幸せでたまらない。ずっと、自分に無縁だと思ってた。里美と出逢った時に、やっと僕も普通に家庭が持てるんだって喜んだのに、結局ぬか喜びで、前よりも不幸な場所へ突き落された気分だった」
晴明は、ベッドの中で蕗子を抱きしめながら、語った。
「毒を喰らわば皿まで、じゃないけど、こうなったら二人で落ちる所まで堕ちてやるって思ったんだよ。彼女の強い覚悟で僕もそう決意した。そしたらさ。その彼女まで奪われて。どんだけ落ちてくんだってね」
晴明の瞳が少し翳ったように見えた。
「その後少しは浮上したけど、相変わらずの低空飛行。絵が認められた事は何より嬉しかった。僕にはやっぱり、これしかないんだって。応えてくれるのは絵だけだ……。だけど、君は違った」
晴明が優しい瞳を蕗子に向けた。
「初めて君と視線を交わした時、君が応えてくれたのを感じたんだ。勿論、僕は問いかけた訳でもないし、特別な感情をこめて君を見たわけでもない。ごく普通に、初対面の相手として見ただけなのに。その瞬間に、この人だって思ったよ。僕が本当に探し求めていた女性は、この人だったんだってね。別に常に求めて探しまわっていたわけじゃないよ。無意識のうちにって事だからね」
蕗子は笑った。
「分かってるわよ、念押ししなくても……。私も同じだったんだと思う。でも、言葉で無いもので感じたからこそ、認められなかった。私は現状で満足してたから。ただ、酷く残念な気持ちになって、それが不思議だった」
「残念な気持ち?」
「ええ。多分ね。心の奥底では、この人が好きだって思ったんだと思うの。でも、妹の旦那さんだから。残念でしょ?不思議なのは、この人が好きだって感情をすっ飛ばして、残念な気持ちだけが明確だった事。自分は理由は分からなかった。残念だってことは、好きだって事の裏返しとも言えるのに、好きだって気持ちは、どうしても認めたく無かったわけなのよね」
今思えば、滑稽だ。
「君は頑なだったよね。でもそれが普通だと思う。僕が無茶苦茶だったんだ。それでも、今こうして、君を手にできているわけだから良かったって思ってる。本当に欲しいものが目の前にあると、こうも無節操になるんだなって改めて自分自身を知った気がする」
蕗子もこれで良かったんだと思った。
今まで知らなかった自分を知り、世界が広がったように思える。一人だったら絶対に得られない世界だ。
こうして二人の生活は順調にスタートした。
蕗子の方は目の回るような忙しさだった。
保土ヶ谷のA邸の打合せでは遅くなる事も多く、時には施主からの誘いで夕食を御馳走になる事もあり、そんな時は晴明も遅くまで初台で仕事をする。
へとへとに疲れて帰って来て、部屋の鍵を開けると晴明が出てきて迎えてくれる。
心が癒される瞬間だった。
仕事が好きだから、これまで精神的な疲れを感じた事は無かったし、それは今でも変わらない。
それでも、晴明の優しい顔を見ると心底癒されるのだった。
「ただいま」
「おかえり」
そう言って、互いに抱き合いぬくもりを確かめる。
晴明は前よりも一層、絵具の匂いがした。
向こうで服を着替えてくるし、シャワーも済ませてあるのに、それでも匂う。でも蕗子は、その匂いが好きだった。
十月になると大学も始まって、晴明も朝は忙しくなった。
それでも通勤に時間がかからないと楽だ。
東京もやっと涼しくなってきて、過ごしやすくなってきた。
「できあがったよ」
そう言われて、個展のチラシを渡された。
「素敵……」
思わず呟く。
晴明の代表とも言える夜の風景画が写っていたが、ニューヨークの個展での画集に載っていたものと印象が違った。
そして、そこに掲載された大きな文字……。
――月と星の間 君に捧げる愛の風景――
「これが、テーマなの?」
晴明を見ると、照れたような笑みを浮かべている。
「なんか、言葉にすると恥ずかしいよね」
「確かニューヨークの時は、『月と星の風景』、じゃなかった?」
「ああ。似たようなタイトルだけど、本質は違うんだ。あとは、見てのお楽しみ」
何だか意味深だ。
だが……。
『君に捧げる』の『君』とは、自分の事なんだと思うと胸が熱くなる。
いつの間にか自分の頬が火照っているのに気がついた。
慌てて視線を『君』から外す。
「この写真、素敵ね」
「え?どの写真?」
蕗子は晴明の顔写真を指さした。
「凄く良く撮れてると思う」
真正面ではなく、少し斜めから撮ってあり、清冽な印象を受ける。
以前の独特な陰影は息をひそめている。
この写真を見ただけで、多くの女性の心を惹きつけるのではないだろうか。
紹介されている絵の雰囲気ともマッチしていて、ロマンティックだ。
「この写真、ちょっとカッコつけてないかな。自分ではそういうつもりなかったんだけど」
「カメラマンがたくさん撮った中から、これを選んだのよ。絵の作風と合ってるステキな写真だと思うわよ?実物より数倍良く撮れてる」
「こらっ」
チラシはたくさんあったので、事務所に置かせて貰った。
「みんな、お客さんに渡してあげてよ」
財前がそう言ってくれて有難い。
蕗子も顧客に渡した。
A邸の夫婦は「喜んで観に行かせてもらいます」と言ってくれ、更に新居が完成したら是非夫婦の肖像を描いて欲しいとまで言ってきた。
「風景画が専門なんですけど、伝えておきますね」
風景にしか興味がない晴明が、果たして肖像画なんて描けるのか。
そう言ったのだが夫妻は執拗だったので、帰ってから晴明に言ってみると軽い調子で「多分大丈夫」と答えた。
「本当に?」
蕗子は意外に思った。
「専門は風景だけど、ひと通りの事は勉強してるし、一応、描けるよ。筆を持つ気にもなれないような苦手なタイプでない限り。蕗子さんの話しを聞く限りでは、大丈夫だと思う」
明るくて気さくな夫婦だから、そういう点から見れば大丈夫なんだろうとは思うが。
「ただ、ひとつ条件があるんだ」
「条件?」
「うん。僕は肖像画家じゃないから、一般的な肖像画で描く気はない。家が完成したらさ。家と庭を背景に、その前で幸せそうな御夫婦の姿を描きたい。いい記念にもなるだろ?それに、君が建てた家も描き残したいなって思うんだよね。それでいいなら。そう話してみてくれるかな」
蕗子はそれを聞いて嬉しくなった。ただの肖像画ではなく、家と一緒に。
その家は蕗子が手掛けた家だ。
それを描きたいと言ってくれる晴明が、たまらなく愛しくなってくる。
施主に話すと、とても喜んでくれた。
却ってその方が記念になるし、室内に飾っていつも自分達の家と自分達を観れる方が遥かに嬉しいと。
「やはり、芸術家だけに目の付けどころが違いますね」
目を輝かせて言われて、蕗子も満足だった。
「このチラシ、ステキですよね。お客様、皆さん目を輝かせて、是非行きたいっておっしゃいますよ」
波絵にそう言われたので、「それって女性が多くない?」と指摘したら「確かに~」と納得したように言い、二人で顔を見合わせて笑った。
「阿部さん、ステキな人ですよね。最初、妹さんとお似合いのご夫婦って言ったけど、今では蕗子さんとの方がずっとお似合いだって思ってます。ほんと羨ましいです」
「波絵ちゃん、ありがとう……」
蕗子の世界は幸福で満たされていた。