第32話

文字数 2,218文字

 蘇芳の手紙を読み終えて、蕗子は愕然として体が震えた。

「蕗子さん……」

 傍で覗き見ていた晴明に声をかけられて、蕗子はギョロリと横目で彼を見た。
 晴明も青ざめた顔をしている。

「こんな事……、信じたくない。信じられないって、思うでしょ?でも……。でもね。夕べ、私……」

 蕗子は言葉を継げなくて、両手で顔を覆って泣いた。

 ずっと前から、子供の時から、お父さんは私を?
 あんな事が無ければ信じられない話しだった。

 だが、夕べの父の行為。
 異様にギラついた目、荒々しい息に、自分の太ももを這った手……。
 全体重をかけるように、のしかかってきて……。

 蘇芳の書いてある事は、その通りなんだ。母の素っ気なさもこれで合点がいく。
 そして、ずっと蕗子の彼氏を蘇芳に誘惑するように仕向けていたとは。

 晴明との事が無くとも、ずっと自分の手元に置いたまま、いつか夕べのような事をしようと思っていたのか。

 晴明は、かけるべき言葉が見つからない代わりのように、蕗子の頭をそっと撫でた。

「ど、どうして来たかって……、訊いたわよね」
「蕗子さん、それは、もう、いいよ……」

 苦しげに晴明は言った。

「おかしいと思うでしょ?……スーツ姿のまま、ハンドバックだけで、レンタカーに乗って、深夜に……」
「蕗子さん……」

 蕗子はバックからティッシュを出して、鼻をかんだ。涙を拭いながら晴明を見た。
 晴明はかばうような、慰めるような、それでも触れたくても触れられないような、まだ遠慮したような気配を漂わせている。

「昨日、仕事が終わって、部屋へ帰ったら、中にお父さんがいたの……」
「えっ?」

 何かあったのだろうと予想はしていただろうが、部屋の中にいたと言う事実は驚愕する事だろう。誰だって、何故いるんだと思うに違いない。

「私がいる時に、やって来たんじゃないのよ。あなたの事を教えに来たのは、多分あなたの所に手紙がいったのと同じ頃だと思う。凄く不愉快で、父の姿こそ、おぞましいと思った。だから、またやって来ても上げなかったわ。引っ越せって強制的な言い方して、それで引っ越したのか確認に来たのかもしれないけど、私、仕事でミスしちゃって、所長に残されてね。父が来た時は
いなかった。父は管理人に掛けあって、身分証を見せて父親の権利を振りかざして、開けて貰ったそうなのよ」

 思い返すと身の毛がよだつ。ザワザワと寒気がしてくる。
 蕗子は自分を抱きしめるようにしながら、父から受けた行為を晴明に話した。
 晴明は黙って聞いていたが、聞き終わった時には、酷く青ざめていた。

 『近親相姦がどういうことなのか、教えてやる』そう言われて、父親に強姦されそうになったのだ。晴明には言うべき言葉が見つからないのだろう。
 暫くの沈黙の後、晴明が悲しそうに呟いた。

「みんな、僕のせいだ……」

 蕗子は驚いて晴明を見た。冷たい瞳が、(ほら)のように暗く沈んでいた。
 これまで何度か似たような眼を見て来たが、これ程、底が知れないと思うほどの深さでは無かったと思う。

 その眼が、蕗子の視線を捉えた。

「ごめんよ。僕のせいで、君を酷い目に合わせて」

 蕗子は思いきり首を振った。

「でも、良かった。君が無事で。それでも、凄く傷ついたよね……」

 蕗子の目から、ポロリと涙がこぼれた。

「晴明さん……。あなたに、逢いたかった。とっても、とっても。他の誰でもない、あなたに……。だから、ここへ来たのよ?」

「おぞましい、近親相姦のケダモノなのに?」

 晴明は、まるで自分を嘲るように笑った。
 それはまるで、笑いながら啼いているようだった。胸がえぐられる程、悲しい笑みだ。

 蕗子はたまらなくなって、晴明の胸に飛び込んで、彼の体を抱きしめた。

「蕗子さん、駄目だ」
「どうして?」
「僕は君に触れてはいけないんだ。君を……穢したくないよ」
「馬鹿な事を言わないで」
「馬鹿な事?」

「そうよ。何故、そんな風に思うの?私たちは別に近親相姦でもなんでもないじゃない。なのに、どうして?私には父の主張は全く理解できない」

「蕗子さん……」
「お願いだから。私を抱きしめて。ギュッと強く。あなたに抱きしめてもらいたくて、こうして来たって言うのに。酷いじゃない。私に冷たくして」

 蕗子は晴明を強く抱きしめた。
 晴明は戸惑いながら、蕗子の背中に手をまわした。

「だって、いいのか?本当に。僕をおぞましいと思わないの?」
「思わないわ。だから父は、私にあんな事をしたのよ。でも父は間違ってる。あの人こそ、おぞましい人よ」

 晴明は、回した手に力を入れて来た。

「蕗子さん……。僕は本当に、おぞましい男なんだ。だから……、もう誰も愛さないと決めていた。それなのに、僕は君を……。諦めるべきだったのに、無理だった。どうしても、無理だったんだ。でも、肝心な所で、僕はくじけた。怖くなった。手に入れる事よりも、失う事の方が怖かった。手に入れたらまた失うんじゃないか。里美のように……君を不幸にしてしまうんじゃないか。指の間からこぼれ落ちる砂のように、儚い幸せで終わってしまうんじゃないかって……」

 晴明は蕗子を抱きしめながら泣いていた。

 この人がずっと背負ってきた深い悲しみを晴らしてあげたい。
 この人が、ずっと夜しか描けなかったのも、闇しか見えなかったからだ。
 その中で、僅かに光る星々と、煌々と輝く月だけが、唯一の灯だったのだろう。
 その僅かな光量で見えるものだけが、彼の心の景色だったに違いない。
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